1.将来の組織における人の役割
先々月号と先月号で、組織活動における情報処理機能(業務におけるPDCAのほとんどのDの活動とCの活動の一定範囲の機能)が、コンピューター・システムによって代替されるだろうということを書いた。モノを作ったり運搬したりする仕事以外や事務的な仕事は、情報システムがそのほとんどを行い、人は情報の管理と改善、あるいは、イノベーションにかかわること、そして、他の人(顧客や取引先、協力会社を含む)とのコミュニケーションといった活動が主たる仕事となる。情報にかかわる仕事がますます増える一方、コミュニケーションを通じて、顧客や取引先、あるいは社内の関係部署の人たちのニーズの把握・分析といった、まさに人にしかできない仕事に重点が移るということである。
それは、まさに、ドラッカーのいう知識労働者が活躍する世界の姿である。
受注や発注という行為は、コンピューター・システムによって、ほとんど自動化される。その行為には人は関与しない。商談は人の重要な役割として残る。しかし、商談という行為さえ、Webシステムがその役割の多くを代替している可能性がある。Q/A形式で応答を繰り返していくと、顧客好みの商品を選んでくれるシステムがあれば可能である。今でも、Webショッピングのシステムはそれに近いことを行っている。
前号で、そのような時代になると、企業などの組織で働く一般の社員や職員が行う仕事の中は、情報システムを開発し改善していくことが大きなウェートを占めるようになるということを記述した。企業や行政などの組織で働く普通の人の仕事が、業務プロセスや業務ルールを見直しソフトウェアを設計し実装する仕事になる。組織にかかわる限り、今後はどのような職種を選択しても(企業だけでなく、官庁や自治体などの仕事も同じである)、情報システムとは切っても切れない関係が生じるということだ。[*1]
そのような時代が数年先にやってくることを理解すると、今の若い人たちが何を学んでおくべきかが見えてくる。
2.大学教育改革の動向とその狙い
大学教育の改革議論がこの数年でメディアを賑わしている。たとえば、文部科学省のWebサイト(http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/kaikaku/)を見ると、次のような施策がずらっと並んでいる。平成25年度だけでも、下記以外のも含め、21もの施策が並んでいる。
こういった施策は、何(What)に関しては簡単にでも触れられているが、なぜ(Why)についてはどこを見ても見つからない。何を目的にしているのか、あるいは、具体的にどういった人材を育成する目標をたてているのか、あるいは、どういった効果を狙っているのかといったことがどこまで検討されたのかが分かりにくい施策が並んでいる。少なくとも、これらを読む限り、具体的で数値化できる目標は示されていないので、施策の効果は評価できないことになる。
教育改革の名で策定されている国家施策の目標が不明確であるという点は、まことに大きな問題である。どのような人材を育成しようとするのか、グローバル対応ができる人材とはどういう人材なのか?具体的な目標をどこに設定すべきなのか?実に困難な課題であることは間違いないが、そういった議論をとことん詰めていくことが、今まさに求められていると考える。そのことを考える上で重要なのは、将来の日本や国際社会、あるいは技術の発展動向、そして人の生活なりがどのように変化していくのかを見通すことである。そういった10年後あるいは20年後の将来展望に基づいて今の教育を考えるべきなのである。
ここでは、限られた自分の経験から語るしかないが、今まで述べてきたことをベースに議論をすすめたいと思う。つまり、将来の企業や行政組織で働く人の姿を想定して、人が担うべき役割を考えたとき、必要な基礎的教養を整理したうえで、それをどのようにして身につけていくのかを考えていく。
2.教育基本法と教育の理念
将来どのような人材を育成すべきなのかということを考えるときに、国家の教育理念を表現している教育基本法に立ち戻ってみることは大切である。そこにはどのようなことが書かれているのか、確認してみることにしたい。最初に教育の目的が書かれている。
「(教育の目的)
第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」
この文章の最後の動詞は「行う」である。したがってここに書かれていることは、“教育をする側”の立場にたって何を行うのかということを書きたいのだろうということが想像できる。つまり、教育を行うことの狙いが書かれている文章であるということと想定される。そういった目で読むと、「心身ともに健康な国民の育成を期して」という文章が不可解であることに気づく。この“期して”にかかっている修飾語が「平和で」から「育成を」までなので、それを省くとこの文章は次のようになる。
「教育は、人格の完成を目指し、行われなければならない。」
つまり、人格の完成が教育の目的であると書いてある。人格の完成は確かに理念であるかもしれないが、はたして目的といえるのか、私は疑問である。目的は、「なぜ教育が必要なのか?」という問いに答えるべき内容であるべきだが、「人格の完成」を目的とされると、はたしてその目的は達成されることがあるのであろうか?
ネットで検索するとわかるのだが、教育の目的に関しては、この教育基本法の記述を引用した主張がある一方、それとは別にさまざまな意見が見つかる。たとえば、
「実社会で役に立つ知識や能力そのものを身につけること」[*2]
「変化していく環境に対応して生きる能力を身につけること」[*2]
「生きていく為に必要な術を身につけさせる事」[*3]
「権威者への反応を身につけさせること」[*4]
「学校教育の目的とは第一に知識を教え知性を育てること」[*5]
「普通一般最も廣く世界に行はれて居る目的は、各自の職業に能く上達するにある」[*6]
教育の目的に関して過去どういった議論がされてきたのか、浅学にして定かではないのだが、昨今は“自ら学ぶ姿勢を身につけさせること”ということが教育の目的であるという主張が盛んであるように感じている。人格の形成というのは、敗戦を経験した戦後の日本人には自尊心を持ち続けさせるに必要であったのかもしれないが、今、そして予想される将来の社会の姿は、“絶えざる変化の時代”であると言える。それだけが確かなことあり、そういった社会で生き続けるために必要な素養として、“自ら学ぶ姿勢を身につける”というのは、極めて妥当であるとの印象を持っている。教育の目的は、本来、10年から30年単位での社会環境の動きに合わせて、つまり教育を受けた世代が大人になって活躍している時代を見越して、目的を変えていくことが適切なのではないかと思うがいかがか?
次は、教育の目標である。それは、次のような文章である。
「(教育の目標)
第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」
これらのすべての文の動詞は「養うこと」である。通常、目標というのは達成された状態を示すのであり、そこまでに達成する行為を示すのではない。そして、目標が達成されたかのかどうかを後で評価できるようなものでなければならない。それが目標という言葉が持つ意味である。したがって、目標の表現として「養う」というのは間違っていると言わざるを得ない。そういう目で眺めてみると、ここには目標は表現されていないことに気づくのである。
もう少し別の視点で読むと、「養うという主体は、誰なのだろうか」という疑問がわく。「教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。」という第二条の文章からすると、想定している主体は教員あるいは教師ではないかと思われるが、各項目の動詞が“養う”であるので、それらの文章の主語は、生徒あるいは学生であるに違いない。この第二条も、解釈に間違いがなければ何を言いたいのかわからない文章だということになる。
もう一点別の切り口でこの第二条を眺めてみる。百歩譲って、ここに書かれていることが目標だとしよう。で、何が記載されているのか?これらのことが、“個人としての行動”を行う際に必要な素養であることは間違いない。それを否定するつもりはない。しかし、平成18年に教育基本法が改定されたとき、その改定の狙いに記載されていたことは、次のようなことである。(http://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/houan.htm)
「このような状況にかんがみ、新しい教育基本法では、国民一人一人が豊かな人生を実現し、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の平和と発展に貢献できるよう、これまでの教育基本法の普遍的な理念は大切にしながら、今日求められる教育の目的や理念、教育の実施に関する基本を定めるとともに、国及び地方公共団体の責務を明らかにし、教育振興基本計画を定めることなどについて規定しました。」
ひとつのキーワードは“国際社会”であろう。最近もいろいろなところで語られているように、国際社会の中で日本という国あるいは企業や個人が、今後どのような立ち位置にいるべきかが問われている。“グローバル社会”というバズワーズも使われるが、教育を語る上で、国際社会の中での日本人ということを考えずにはいられない時代となっている。
そういった目でこの第二条を読むと、そこには“国際社会”についてひとことも触れられていないことが分かる。考慮外でさえあるといえよう。したがって、第二条の教育の目標という項も、本来あるべき内容とはかなり遠い記述ではないかと思えてくる。
第三条以降は、おもに手続きに関する条文であるのでこれ以上触れないが、最初の問いかけである、「将来どのような人材を育成すべきなのか」という問いに、現在の教育基本法は何も回答を与えてくれないことがわかる。今、学校教育が大きな問題となっている大きな原因の一つにそのことがあるように思えてならない。「将来、どのような人材を育成すべきなのか?」それが問われるべき問題なのであろう。
この連載で記述していることは、あくまで、企業などの組織活動にかかわることだけである。したがって、ここに書かれたことだけが重要だと主張する意図はない。芸術活動は重要であり、社会奉仕活動もそうである。しかし、企業などの組織の活動に限ってみれば、将来情報システムが組織で行われてきた今までの人の活動を代替するようになるだろうということは間違いないと考えられる。将来も企業などの組織で働く人たちが、かなりの比率で存在することを想定するならば、組織における情報化の進展ともいうべき現象を見据えた人材育成の在り方を考えることはきわめて大切なことと考える。そして、“絶えざる変化だけが確かなこと”といえる情報化時代に、自ら考えて対応できる素養を持つことは、社会生活を行う上でも必須なことと考えられる。
3.情報化が進展する時代に向けて身につけるべき素養
自ら学ぶ姿勢とともに情報化がもたらす組織活動の変化に対応できるようになるためには、どのような素養を身につけることが望ましいのであろうか?
その前に“教育”という言葉について一言述べておきたい。教育という日本語は“教え育てる”と書くように、教えるほうの立場の人間が主語となる表現である。先生、教師、先輩、上司などが思い起こされる。一方、英語では、教育という単語はteachingとeducationがある。一般的な意味で教育というときはteachingではなくeducationが使われていると理解している。英英辞典でeducationを調べるとこのように書かれている。
“the process by which your mind develops through learning at a school or college”(ロングマン現代米国英語辞典)
これを読むと、学ぶ(learning)の主体は、自分自身であるという認識であり、educationは、自分自身で学ぶプロセスのことだと理解されていることがわかる。どうも日本語の教育とeducationは、異なった認識がされているようなのだが、さて、実際はどうなのであろうか?
話を元にもどす。いくつか指摘しておきたい。1点目は、自ら学ぶという姿勢を身につけるためには、“教えてはいけない”ということである。人によって違うのだろうが、10歳から15歳くらいまでは基礎教育は必要であろう。また専門教育ということも必要である。したがって教えることが全く不要になることはない。しかし、自分で学ぶ(考える)力を養うのであれば、教えるのではなく、解決すべき課題を与え(または、問題を見つける課題を与え)、自分で調べ分析し、解決策を考えるという訓練が重要となる。専門家の方々には釈迦に説法なので、これ以上この点に触れるのはよそう。
情報化の進展へ対応できる能力という観点では、いくつかの素養を持ってもらいたいと常々思っていることがある。以下にその点を書く。
一つ目は、“事実(あったこと、あるいは、事象)”と“認識・主張”と“感想”を分けて表現する能力を身につけてほしいということだ。この点が重要であることは、組織の中で作成される多くの文書(設計書や問題管理レポートでさえそうだ)の混乱状況を思い浮かべてみれば、すぐ了解いただける点と思う。このことは、論理的思考と密接な関係があると考えるが、巷にあふれる文書は「それで何がいいたいの?(So What?)」とつい言いたくなる文章が多い。そういうことになるのは、前提とする事実認識があやふやであることが一つの原因である。「AならばB」と書いてあっても、「確かにAが事実ならね!」と言いたくなる文章では、困ったものである。
何が事実なのかということは、哲学的問題を含んでいるので本当は難しいのだが、とりあえず、「人から聞いた話を鵜呑みにしないこと」という意味と理解してもらう。日常的なことを言えば、ひとつの出来事・事件に対するメディア各社の報道をみても、いろいろな記事がある。どれも、いかにも“事実”のように書かれているのだが、読み手は、まずは、それは、記者の“意見”にすぎないと理解すべきということである。事実としていえることはただ一つ、“そのメディアは、その出来事をそのようにとらえて書きものにした”ということだけである。(書き手の意図どおりに書かれていないことさえあるだろう)
二つ目は、やはり、コミュニケーション能力であろうか。人のことはあまり言えるわけではないが、人の話をよく聴く(傾聴する)ことができるようにならばければいけない。聴いて何を伝えたいのかを十分考え理解するという姿勢が大切である。というのも、言葉によって、伝えたいことのすべてを言いつくすことができないからである。(情報システムの設計でいえば、文書の仕様書をいくら書いても伝わらないことがあるといことである。プロトタイプなどの作成が重要である理由である)よって、表面的に語られたことが、本当に伝えたいことなのかという点に思いがいき、語っている内容(事実、主張、感想)を良く確認するという行為が必要であり、それができることがコミュニケーション能力があるということになる。
三つめは、抽象化能力としておく。業務の分析や設計を行う上で必須の能力である。ビジネス・モデリングを行う上で必要な能力だといってもよい。抽象化というと難しく聞こえるかもしれないが、別の言い方をするならば、“分類化能力”といってもよい。「人もサルもライオンも動物である」ということは誰もが理解している。そのように教わっているからなのだが、イノベーションを起こすような発想の原点の一つに、一見違う対象をみて、“同じカテゴリーのものかもしれない”という発想ができることが重要である場合がある。あるいは、ビジネス・プロセスを改善する時に、今まで違う仕事だと思って別の機能として業務を行っていたのを、共通機能だと認識し、組織を統合したり、さらに、システム機能を統合したりにする発想は、抽象化ができるかどうかにかかってくる。日本人は、概念(コンセプト)を生み出すことが下手だといわれるが、それは、全く異なった複数の事象から、新しい視点で分類し直すという見方をする訓練が不足しているからであろう。エジソンは、「1+1は2である」ということに「なぜ?」という疑問を呈して先生を困らせたという話であるが(二つの粘土を集めても一つの粘土にしかならない!)、物事の見方にはいろいろあるということを考えさせることが必要であろう。抽象化能力は、物事の見方であり、モデリングという作業だけでなく、仕事の改善やイノベーションにとって、極めて重要な能力である。グローバル社会の中での日本人が生きていくために、きわめて重要な能力であろう。
四つ目は、問題解決のフレームワークともいうべき基礎的な“考え方”だ。言葉として、理念、ビジョン、ミッション、目的、目標、戦略、戦術、方針、計画、PDCAなどを知っているだけでなく、それらをどのように関係づけて組み立て、そして実行に結びつけるのかということを理解し、それをあらゆる場面での“考え方のフレームワーク”として活用できるようになることが必要だと考えている。すくなくとも欧米流の考え方をする人たちと交渉し、コミュニケーションをとろうとする場合には必須のノウハウと心得ておくべきであろう。そのことを端的に表したのが、9月7日にリオデジャネイロで行われたオリンピック招致の東京チームのプレゼンテーションである。勝因はいろいろあるのだろうが、プレゼンテーションで訴えた内容は、オリンピック精神や理念は何か、IOC委員の関心やミッションは何か、IOCの課題は何か、何を解決すべきなのか、将来のあるべきオリンピックの姿はどういうものなのか、あるいは、オリンピック精神を実現するためには、何が求められているのか、などといった理念やミッションから始まって、具体的な目標と、東京チームが果たす役割を戦略的に説明した名演技であったように思う。それは、欧米風の考え方に基礎をなすものであるが、それを理解すると、グローバル社会において世界の人たちと対等に話ができるようになるであろう。
他にもあるが、とりあえず四つだけあげておくことにする。若いうちに、これらのことを“自ら学ぶ”ことができるようになってほしいと衷心から希望している。
次回は、情報工学関係でよく使われている”Oriented”という言葉の意味について書いてみたい。というのは、この言葉は“指向”と訳されているのだが、誤訳でないか?と常々考えているからである。
[*1] M2M(Machine to Machine) ということが言われている。この技術や仕組みそのものは、業務とは一見無関係に聞こえるかもしれない。M2Mの仕組みは、ハードウェアが情報発信機になり通信を行う仕組みだからである。すでに情報家電ということが語られ、膨大なソフトウェアが組み込まれた車や飛行機はすでに実用化されている。そういったソフトウェアが組み込まれるのは、何も家電や車だけではない。あらゆるハードウェアが情報発信機になるということである。ハードウェアの中には、椅子や机といった日常品も含まれる。リンゴやナシといった果物や樹木も情報発信機になりうる。企業はそういった備品、商品、管理対象物を資産(在庫資産、固定資産など)として管理をしている(商品はともかく、固定資産管理はかなり大雑把だ)のだが、そういったモノが情報発信機になれば、資産管理システムは今とは全く別のものに変わる。備品管理のことをいえば、メーカーの保守システムもはるかに効率化し、そして、マーケティングに活用されている姿が目に浮かぶであろう。要するに、M2Mも業務の事務処理に大きな影響を与えるということである。