情報システム学会 メールマガジン 2013.10.25 No.08-07 [16]

連載 情報システムの本質に迫る
第77回 情報システム学会の組織運営(承前2)

芳賀 正憲

 政治学者の丸山真男氏が、日本の学界の欠陥として、あるテーマについて一時期熱心に議論するが、成果が体系的に蓄積されることがなく、次に議論するときはまたご破算から始める傾向があると述べていて、情報システム学会においても銘記すべき指摘であることを先月号で述べました。日本の学界については、また、一橋大学学長、国立大学協会会長などを歴任された歴史学者・阿部謹也氏による重要な指摘があります。
 それは日本の学者が、皆それぞれ狭い専攻範囲の仲間や学会などの「世間」に所属していて、世間だけを相手に論文を書き、世間の中だけで互いに認め合って生涯を過ごし、肝心の社会的なニーズに応え、社会に貢献していくという視点がきわめて少ないというものです。それぞれの学問分野の研究者が、閉じた「世間」を構成していて、人文社会科学と自然科学との間だけでなく、人文社会諸科学相互の間ですら、ほとんどクロス・オーバーすることがないのも大きな問題とされています。

 「世間」というのは、阿部謹也氏の提示された注目すべきキーワードです。わが国では個人が、まず世間に属しており、その絆(きずな)に縛られていて、直接社会と対しているわけではないとされています。わが国では、「個人」や「社会」の位置づけや概念理解に西欧と大きな隔たりがありますが、「個人」も「社会」も、明治時代に西欧から輸入された翻訳語で、わが国の実態から生まれた概念でないところに、根本的な原因があります。
 結果として学者でさえも、皆それぞれの、他の分野と隔絶された世間をもっていて、その世間との対応関係の中で身を処しているとされています。(阿部謹也著『学問と「世間」』(岩波新書))

 情報システム学分野でふり返ってみると、上記したような指摘に該当することがいくつかあります。
 情報システム学に、参照領域という概念があります。参照(学問)領域というのは、Peter G. W. Keen氏が最初に提示した概念で、「そこから研究のモデルやアイディアを得る、すでに確立された学問分野であって、その分野をしっかりと学ぶことにより情報システムの研究の質を高めることができるようなものを指している。そして情報システム研究を首尾一貫したものにするためには、まず参照学問領域を明らかにし、情報システムを変えることによって変化する従属変数を定義し、さらに研究を蓄積し伝えていくことが必要であると主張」されています(『情報システム学へのいざない』(培風館))。情報システム学会のウェブサイトにも、参照領域として、行動科学、経営学、言語学、記号論、社会学、経済学、認知科学・心理学、コミュニケーション、人間工学、IE,図書館情報学、等々が挙げられています。
 しかし実情を見ると、Keen氏の主張にもかかわらず、情報システム学関係者の中で、これらの参照領域を参照し、「しっかりと学」んでいる人は、それほど多くありません。参照領域が、情報システム学とは隔絶された他の領域になってしまっていて、クロス・オーバーがほとんど行われていないのです。
 人間中心の情報システム学という観点に立つならば、ここでいう参照領域は、決して「参照」という言葉から連想されるような弱い結びつきのものではありません。上に挙げた領域には、哲学を加えることが必要ですが、哲学、行動、経営、言語、記号、社会、経済、認知・心理、コミュニケーション、図書館等々、いずれも人間の(組織化された)情報行動そのもの、あるいは情報行動において重要な役割を果たす構成要素そのものであり、これらの領域は、参照というより、本来情報システム学が直接対象とすべき領域と考えられます。

情報システム学の関係者が、狭い範囲に閉じこもって、他分野との交流が少ないため、情報概念の説明にも偏りが生じています。
 一般社会人もそうですが、情報教育関係者に、今まで、「情報=コンピュータ」と認識している人が多く、情報の基礎がビットにあるとされたり、シャノンによる情報の定義として、「変化するパターンの中から選択できるもの」という説明が、大学や短大の「情報基礎」などの教育で行われていました。ある条件下で機械情報にのみ言えることが、あたかも情報一般に成り立つかのように説明されていたのです。
 一方、2008年に改訂版の出た『情報システム学へのいざない』(培風館)では、データと情報と知識のちがいが強調されています。データが非属人的な事実を表すのに対して情報が属人的な意図または解釈を含むなど、3つのそれぞれについて、さまざまな特質が示されていますが、最近広く認められている定義として、知識が構造をもっており、この知識の構造を変えるものが情報であるという説明がなされています。
 しかしデータも知識も広義の情報であり、広義の情報との相対的な関係による狭義の情報の定義は、情報の本質の説明として、はっきりしません。
 それに対して、情報システム学の対象領域ともいうべき哲学、経営学、社会学の分野では、それぞれの第一人者により、情報の明確な定義が行われています。
 哲学者の今道友信氏は、(プラトンの)精神の目で見た形、すなわちイデアという形に観念化(概念化)したものが情報であり、したがって、現実世界を抽象化、概念化したものが情報であると述べています。
 経営学者の藤本隆宏氏、社会学者の吉田民人氏は、学問の上で交流があったとは考えられませんが、ともに情報とはアリストテレスの形相である、という点で一致しています。藤本氏は、ものづくりやサービスのプロセスの分析から、アリストテレスの形相の概念に到達されました。藤本氏によれば、ものづくりのプロセスは、設計情報のやりとりをする情報システムです。サービスのプロセスについても、同様のことが言えます。
 吉田民人氏によると、最広義の情報がアリストテレスの形相です。吉田氏は情報の定義を、最広義・広義・狭義・最狭義の4段階に分けられました、最狭義の定義が、自然言語としての情報です。特筆すべきは、このような情報の分類によって、すべての学問が6つのカテゴリに分けられることです。情報を的確に分類し定義することに、大変な意義のあることが分かります。
 基礎情報学を提唱された西垣通氏は、生物の働きから生命情報という概念に到達されました。経営学で重視されている暗黙知などにも対応するものです。生命情報を記述して、言語などに記号化したものが社会情報であり、その記号表現部分が機械情報です。西垣氏の分類は、プラトンのイデアという形への観念化(概念化)のプロセスを明確にし、さらに意味と記号表現という、情報の構造を端的に示した画期的な情報のカテゴリ分けということができます。

 上記したように、哲学、経営学、社会学、それに生物学をベースに基礎情報学をそれぞれ究めることにより、情報の概念が非常に明確になってきています。その内容は、従来情報教育や情報システム学の関係者が考えてきたものと、かなり異なりますが、人間中心の情報システム学の立場に立つならば、むしろこのように対象領域を究めることにより形成された概念こそ本質に近いものであり、情報システム学として取り入れるべきものでしょう。それによって、対象領域(従来のいわゆる参照領域)の人たちと、共通の情報概念をもつことが可能になり、コラボレーションも一層可能になります。

 歴史学者の阿部謹也氏が、日本の学者は、皆それぞれ狭い専攻範囲の仲間や学会などの「世間」に所属していて、世間だけを相手に論文を書き、世間の中だけで互いに認め合って過ごしていると指摘されましたが、そのことによって生じた典型的な問題が情報教育の分野であります。
 2007年、情報システム専門分野の教育カリキュラムJ07-IS策定のベースとなる情報システムの知識体系(ISBOK)が公開されました。注目すべきは、その第1章第1節が「コンピュータアーキテクチャ」になっていたことです。何よりもまず、コンピュータから出発しているのです。人間中心の情報システムのコンセプトに違背している上、もちろん、概念、歴史、理論、実践の方法論という学問の要件を満たして組み立てられてはいません。
 それに先立ち高等学校において、教科「情報」が必履修科目として開始されました。しかしその内容は、「情報」という名称にもかかわらず、コンピュータやネットワークの原理や活用の仕方に重点をおいて設計されたものでした。教科の目標自体が、文言の最初からコンピュータやディジタル機器を前提にして情報を取り扱うよう設定されていたのです。
 当然教科書でも、人間にとっての「情報」の説明は、きわめてわずかなものになっていました。概念、歴史、理論、実践の方法論から成る学問の体系を背景にして、それを高等学校向けにカリキュラム化したものではなく、「情報」や「情報システム」に関して、真に概念的基礎から学ぶことができる教科設計にはなっていませんでした。
 これに対しては、現場から猛烈な反発が起きました。2006年、必履修科目の未履修が全国的に大きな問題になったあと、全国高等学校校長協会等いくつかの団体から、教科「情報」を必履修科目からはずすように繰り返し要望書が出されました。また、昨年8月のメルマガに記したように、埼玉県の教員・中島聡氏は、現職教員に対する講習会で、最も基本となる「情報」や「コミュニケーション」の本質的な説明が行われていないことに強い違和感を覚え、理論体系が確立していない科目を無理やりつくり上げて推進しているのではないかという問題意識をもち、西垣通先生に提起して、基礎情報学をベースに、新たな情報教育体系の確立と実践に取り組まれています。

 ここで疑問なのは、高等学校の教科「情報」も、J07-IS策定のベースとなる情報システムの知識体系(ISBOK)も、ともに概念、歴史、理論、実践の方法論という学問体系の背景をもたず、ともに人間中心のコンセプトに違背しているにもかかわらず、なぜ高等学校の現場からは問題提起がなされて改革の動きが始まり、大学の情報教育界からは、それがなされなかったのかということです。
 そこに阿部謹也氏の言われる「世間」の弊害が表れた可能性があります。ISBOKを推進した人たちと大学の情報教育界は、同じ世間に所属していたため、批判が生じなかったと考えられます。阿部謹也氏は、「世間の中では、すべての人が同じような立場に立っているから、それぞれの書くものに問題があったとしても、皆が気づくことがなく、論壇は、無事平穏に過ぎていく」という旨のことを述べられています。一方、高等学校の現場は、一部の人を除いて、教科「情報」を推進した人たちとは同じ世間に属していなかったため、一般社会人としての健全な問題意識が発揚したものと考えられます。

 情報システム学は、21世紀のわが国社会のあり方を決定づけるほどの重要学問です。しかし、情報システム学に関係する人たちが「世間」を形成して対象領域との交流を怠り、社会のニーズを見すえて社会に貢献するという姿勢を見失うならば、その社会において本来の位置を占め、使命を果たすことはできません。
 今年の新年号のメルマガに記しましたが、一昨年の大震災の後、30もの学会がコーディネータのもとに結集し、「東日本大震災の総合対応に関する学協会連絡会」ができて活動していたのですが、情報システム学会は、30の中に入っていませんでした。災害対応で、情報システムの役割が決定的に重要であるにもかかわらずです。
 また、昨年8月開催された原発に関する日本学術会議のフォーラムで、プログラムの最後に東大、産総研、学術会議等のトップを歴任された吉川弘之氏が「科学者の役割」について講演をされ、その中で、たくさんの専門職業名、学問名を一覧図で示されたのですが、専門職業名として、芸術家や作家、演劇家まで挙げられているのに、現在職業人口としておびただしい数になっているシステムエンジニアの名称はなく、また学問名として言語学や美学、文学まで列挙されているのに、情報学も情報システム学もありませんでした。
 情報システム学会や情報システム学に対する正当な評価とは考えられませんが、しかし、情報システム関係者が世間を形成してお互いに認め合うだけで、基本的概念からの体系化を進めず、社会的な課題を明らかにしてソリューションを続けていくということをしないならば、このような状態は決して打開することができません。

 人類の特質には、賢明な部分と愚かな側面がありますが、理論的に経済の最適状態が2通りあることを早い段階で見出したのは、きわめて賢明な部分です。しかし、情報システムの不備のために、その最適状態が実現できていないのですから、この問題を解決することは、情報システム学が果たすべき最も重要な社会的使命です。
 あと1つ情報システム学の重要な課題は、多くの分野に分かれている学問の間に架橋をすることです。
 十数年前、技術者が海外で仕事をする機会が著しく増えてきました。国内と異なり、海外で責任ある仕事をするためには、一般的に資格が必要であり、その資格を得るためには倫理について学んでいることが必須の要件になっています。このため、多くの企業や大学の工学部・高専で新たに技術者倫理の講座が設けられ、教育が開始されました。
 技術者倫理の体系をつくろうとして愕然としたのは、西欧では、科学や工学、法学、哲学や倫理学など、わが国で異なった分野と見なされている学問が、共通の原点をもっていて、各専門家は、共通の原点を理解した上で各専門を学び従事していることです。それに対してわが国では、明治になって、すでに一定の発展段階にあった各学問を個々別々に急いで輸入していったため、原点までふり返る余裕がなく、ばらばらの基盤の上で教育も仕事も行われてきました。
 この問題は、もちろんまだ解決されていませんが、情報システム学が基盤の統一に貢献できる可能性があります。先に述べたように、情報には、情報のカテゴリ分けがすべての学問のカテゴリ分けを可能にするように、特質に普遍性があります。また各学問は、それぞれ各分野の問題を解決するための情報システムと考えられます。

 各学問に架橋し、最適な経済状態を実現する役割をもつ情報システム学の関係者が、「世間」の桎梏にとらわれることなく、対象(参照)領域と交流を深め、基本的な概念から体系化を進めて、その本来の社会的使命を果たしていくことが期待されます。

 この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。
 皆様からも、ご意見を頂ければ幸いです。