5年越しの長かったプロジェクトが無事カットオーバーしたこともあり、この夏は少し長めの休みをいただいて、ギリシャに行ってきました。なぜギリシャだったのか、というと、ソクラテス、プラトンの生地に行きたかったことと、世界遺産のメテオラを一目見ておきたかったためです。もちろん、ソクラテス没後から2400年も経ち、現在その地に暮らす人々の大半はその子孫でもないことは知っています。また、旅行直前のニュースでは、失業率は最悪の27.6%を記録し、特に若年層の失業率は65%で、3人に2人は失業している、という想像もできない状態でした。最近のアテネのイメージで思い浮かぶのは、国会議事堂の前のシンタグマ広場でのデモの光景でした。一年に800回のストが行われる、というので、一日2〜3回も行われているとしたら、はたしてどうなっているんだろうか、治安は大丈夫なんだろうか、というのが旅行前の心配事でした。
はたして、実際にシンタグマ広場にいたのは、旅行者ばかりでした。地元の人々は、7月と8月、各々1か月間のバカンスを取られていました。ギリシャは貧しい、といわれる一方、アテネからほど近いところにあるエギナ島やエヴィア島などに、国民の6割が夏の避暑地用の別荘を持っています。学校も、6月10日から9月10日までのまるまる3か月間お休み。しっかり休みをとって、9月になると、再びデモも始まるようです。この旅行期間中も、プロジェクトのメンバーから体調不良のため遅刻する旨の携帯メールを受け取るたびに、ギリシャ人のライフスタイルを少しは見習った方がよいのかも、と思うのでした。
ところで、2005年なので、もう8年も前になりますが、情報システム学会の生圏情報システム研究会に声をかけていただき、「人間と世界」というテーマで橋本典子先生に連続講義を受ける機会を得ました。講義終了後、手に取った『ソクラテスの弁明』が面白く、『クリトン』『パイドン』と読み進め、岩波の『プラトン全集』を読み通しました。読み終えた後は、古典に対する抵抗もなくなり、また、多少難解なものでも粘り強くつきあうことを身体が学んだことが一番の収穫だと思っています。
今回は、プラトンの作品の中で一番のお気に入りで、今回のギリシャ旅行中、再読した『パイドロス』(*1)について、紹介したいと思います。
パイドロスという凛々しい青年と、ソクラテスの二人が、市内の喧騒から離れ、城外に出て、イリソス川のほとり、背の高いプラタナスの樹の陰で、はだしを川面につけながら、談論します。日差しはきついですが、時折り吹く風が心地よい季節です。
情景描写も素晴らしいのですが、そこで話される二人のテーマは、愛・・・から始まって、魂のお話になります。
『パイドロス』における話題は、イデア論、魂(プシュケー)論、魂の神性と不死性、魂を宇宙全体の「動」の根源とみる考え方、魂は3つの部分から成り立つという魂三部分説(馭者の「知的部分」、善い馬「激情的部分」、悪い馬「欲望的部分」)、想起説(アナムネーシス)、哲学的エロース等々であり、プラトン哲学の中心となる数々の思想が描かれています。
プラトンの作品中、一番美しい作品だと思っています。
数編の愛についての物語の後、イデア(真実在)の話が登場します。イデア論そのものは、『パイドン』『国家』などの作品において頂点に達しているとみられる方もいますが、『パイドロス』の作品でも十分に味わうことができます。
まず、私たちの魂はこの世に生を受ける前、天界に存在していた、といいます。
≪この天のかなたの領域に位置を占めるもの、
それは、真の意味においてあるところの存在 -
色なく、形なく、触れることもできず、
ただ、魂のみちびき手である知性のみが観ることのできる、
かの《実有》である。
真実なる知識とはみな、この《実有》についての知識なのだ。
されば、もともとの神の精神は -
そして、自己に本来適したものを摂取しようと心がけるかぎりの
すべての魂においてもこのことは同じであるが -
けがれなき智とけがれなき知識とによってはぐくまれるものであるから、
いま久方ぶりに真実在を目にしてよろこびに満ち、
天球の運動が一まわりして、もとのところまで運ばれるその間、
もろもろの真なるものを観照し、それによってはぐくまれ、
幸福を感じる。
一めぐりする道すがら、魂が観得するものは、
《正義》そのものであり、《節制》であり、《知識》である。
この《知識》とは、生々流転するような性格をもつ知識ではなく、
また、いまわれわれがふつうあると呼んでいる事物の中にあって、
その事物があれこれと異なるにつれて異なった知識となるごとき知識でもない。
まさにこれこそほんとうの意味であるものだという。
そういう真実在の中にある知識なのである。≫
引用が長くなってしまいますが、イデア論の肝と思われるので、もう少しおつきあいを!
≪・・人間の魂は、どの魂でも、
生まれながらにして、真実在を観てきている。
もし観たことがなければ、この人間という生物の中には、
やって来なかったであろう。≫
そうでなければ、人間以外のものに生まれていたかもしれません。
私たちが何かを認識するのは、かつて魂がみた真実在を思い出すから。
≪しかしながら、この世のものを手がかりとして、
かの世界なる真実在を想起するということは、
かならずしも、すべての魂にとって容易なわけではない。≫
魂によって、この真実在を一瞬しか目にしなかったために、地上に降りてからなかなか思い出せないものも多く、実際のところ、かの世界で見たことを覚えている魂は少ないのだ・・そうです。
でも、そんな中でも、美のイデアだけは、他のイデアと異なり、魂にしっかりと記憶されています。
≪けれども《美》は、あのとき、それを見たわれわれの眼に燦然とかがやいていた≫から。
この真実在のことを語るにあたって、当時のギリシャを席巻していた弁論家と彼らの駆使する弁論術を避けて通ることはできません。「弁論家」とは、ゴルギアスやテイシアス等、真実らしきものが、真実そのものよりも尊重されるべきであることを見抜いた人々のことでした。
そして、
「弁論術の技法」には、
序論−陳述・証拠−証明-蓋然性−保証、続・保証
反駁、続・反駁
ほのめかし法
婉曲称賛法
あてこすり法
重言法
格言的話法
譬喩的話法
正語法
概括
簡潔話法
感傷的話法
誇張法
等の多彩なテクニックがあります。
当時のゴルギアスやプロタゴラス等の超一流の弁論家の一回の講演料が、軍艦を買えるほどの値段だったこと、逆にいうと、それだけの受講料を出しても、立身出世に役立つものだった、というのもすごい話です。現代からみても、こんなものを駆使できればすごい、と思います。
ところで、これらは、弁論術の一側面にすぎない、といいます。そもそも議論するにあたって注意することとしては、
≪それは、論議にとりあげられている当の事柄の本質が何であるかを、
知っておかなければいけないということだ。≫
でも、多くの人は、物事を考え始める際、事柄の本質を知らないという事実に気づかず、知っているものと思い込んで議論を進めるため、かみ合わないままである。
≪話や書きものの中で取り上げるひとつひとつの事柄について、その真実を知ること。
あらゆるものを本質それ自体に即して定義しうるようになること。
定義によってまとめられた上で、こんどは逆に、それ以上分割できないところまで、
種類ごとにこれを分割する方法を知ること。≫
だから、
≪話したり考えたりする力を得るために、この分割と綜合という方法≫が大切である。
恋人のように大切である、という「分割と綜合」こそ、今日においても議論や思考において重要なものである、と思います。
その上で、ソクラテスは、弁論術の本質をこういいます。
≪弁論術とは、
魂に言論と、法にかなった訓育とをあたえて、
相手の中にこちらがのぞむような確信と徳性とを授ける仕事≫である。
であるとしたら、
説得の対象である「魂」の本性を理解しなければならないのだ。
そして、
≪それを学ぶ人の魂の中に知識として書きこまれる言葉、
自分をまもるだけの力をもち、
他方、語るべき人々には語り、
黙すべき人々には口をつぐむすべを知っているような言葉≫
を持つべきだ、と。
あくまで直球勝負のソクラテスの態度、立派だと思います。
蛇足ですが、『パイドロス』の訳者の藤澤令夫先生自身による解説書には、こうありました。
まず、全編に漂うなんともいえない幸福感については・・
≪アカデメイアの学長としての仕事も軌道に乗り、ライフワークともいえる『国家』を書き上げた後の、
幸福な解放感をみることができるわけである。≫(*2)
そして、凛々しい青年に描かれてるパイドロスは40歳だったこと。当時、弁論作家としてアンティポロン、イソクラテスと並んで、名声が高かったリュシアスの熱心な帰依者でした。
一方のソクラテスは、60歳ぐらい。この二人が、一人の男が美少年に言い寄るという恋・・エロースを話題にしているということに驚きました。
(*1)プラトン「パイドロス」(岩波文庫)
(*2)藤澤令夫「藤澤令夫著作集〈4〉プラトン『パイドロス』註解」(岩波書店)