前回は「鶏と卵」を題材にしてオブジェクト指向で自己増殖をどこまでモデリング出来るかを考えてみました。オブジェクト指向モデルの前提条件はクラスの存在です。具体的オブジェクトはクラスから生成されます。結局は古代ギリシャから延々と議論されている次のような哲学的問題に帰着します。
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ソフィーは封筒から紙切れを取り出した。そこにはこう書いてあった。
鶏と「鶏」というイデアと、どっちが先か?[1]
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イデアは3次元物質世界には存在しません。それなのに鶏は自己増殖します。前回のモデルはクラスが先に存在できるシステムのモデルであり、現実世界にはそのままでは適用できません。現実世界は実際に動いているわけですから何らかの方法でモデリングできる筈です。
■種(たね、seeds)と種(しゅ、species)
植物は種(たね、seed)から育ち、やがて花を咲かせ新たな種を生成します。朝顔の花は枯れても種が残り、それで次の夏また朝顔の花を咲かせることができます。個々の種の中に朝顔の設計情報が保存されます。どこかに朝顔という抽象的なクラスがあってそこで設計情報を一元管理されているわけではなく、個々のオブジェクトに設計情報が内包されています。
朝顔という植物種類の「種(しゅ、species)」としての設計情報は個々の「種(たね、seeds)」が持っており一元管理はされていない。朝顔の種からは朝顔の花しか咲きません。どうやってばらばらに存在する種(たね)が同じ設計情報を持つことができるのでしょう。
■鶏と卵
鶏の卵から白鳥はかえりません。卵に鶏の設計情報が組み込まれています。鶏の種としての設計情報はどこかで一元管理されていないなら、どうして鶏の卵は鶏に、白鳥の卵は白鳥になるのでしょう。一体生物の種というのは何なんでしょう。複数の個体の共通点から人が便宜上考えだした概念にすぎないものなのでしょうか。種そのものは実在するのでしょうか。
種は多様ですが、一元管理されていないなら種など実在せず、生物は個体ごとにもっと全然異なっていてもよく、鶏と白鳥の間にもっと連続的に名前のない中間的な生物があってもよい。何故現実はそうではないのでしょうか?種そのものは人が説明のために作った単なる概念ではなく実在して欲しい。
■鶏とは
そもそも鶏とは何か。見たことのない人に説明するのは困難です。ちなみに広辞苑には「キジ目キジ科の鳥、(省略)品種は極めて多く、色彩・形態もさまざまであるが、みな頭頂にとさかを持つ。」とさかに特徴があるが、色や形態はかなり自由度が高いらしい。どこまで自由なのかはキジ目キジ科の範囲とあるが専門的になる。具体的に生きている鳥をみてこれは鶏、あれは違うとは言える。抽象的な説明は理解が難しい。
プラトン著「メノン」に蜜蜂の例えがあります。
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ソクラテス:・・・「蜜蜂にはいろいろとたくさんの種類があって、それらは互いに異なったものであるというのは、それらが蜜蜂であるという点においてそうなのだと、君は主張するのかね?それとも、その点では、それらは互いにすこしも異なるものではなくて、何かほかの点、たとえば美しさとか、大きさとか、その他そういった何らかの点で異なっているのかね?」
メノン:・・・それらの蜜蜂は、蜜蜂であるという点では、どれをとってくらべてみても、互いにすこしも異なるものではないと。
ソクラテス:では、次にこうたずねたとしたら?
「それなら、ぼくが君に言ってほしいのは、その肝心のものなのだよ、メノン。つまり、それらの蜜蜂が、その点ではすこしも異ならずに全部同じであるところのもの、それを君は何であると主張するのかね?」[2]
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姿・形は若干違っても蜜蜂は蜜蜂です。鶏も同様「品種は極めて多く、色彩・形態もさまざまである」が鶏は鶏です。それがそうであらしめている設計情報がある筈です。
アリストテレスは、本質は個々の具体的なものの中に埋め込まれていて取り出せないとした。種としての本質も個々の個体に埋め込まれているのなら、別の個体が同じ種としての本質を持つのはなぜかをどのように考えたのか。単に分類しただけなのか、あるいは著作のどこかに言及が残されているのか、筆者にはまだアリストテレスの考えはよく理解はできていません。
■原始朝顔説
イデア説を取らないモデルを考えてみましょう。ある時3次元物質世界に朝顔の種一粒が突然出現し、すべての朝顔はその子孫であるという説。一粒の種から育った朝顔はたくさんの種を作ります。それらの種には原始朝顔の設計情報が内包されています。次々と子々孫々に継承されてゆき、一元管理はされない。このモデルでは、祖先が同じものを種(しゅ)と考えることができます。
■原型朝顔説
イデア界に朝顔の原型が存在し、3次元物質世界に投影されるという説。オリジナルの設計情報はイデア界で一元管理されている。このモデルでは、原型が同じものを種(しゅ)と考えることができます。
■DNAはどこからきた
生物の設計情報は個々の個体が持つDNAというメディアに保存されている。動物も植物もデジタル情報としてDNAというメディアに設計情報が書き込まれている。個体は一定の時間が立つと次世代にDNAを伝達し、自分は死んでしまうということもDNAのどこかのbitにあるという。
あくまで個体に内包されている情報であり、どこかで一元管理されているわけではない。いや、そんなことは断言できない。どこかというのはどうやら3次元物質世界に限定している。そもそもあるとかないとか、存在するとは人が五感で感知できるもの、直接でなくても間接的に確認できるものというのが科学の基本になっている。生物の設計情報は一元管理されているかどうか確認はできないというだけであり、否定はできていない筈である。
DNAはコピー媒体であり、CDやDVDのようなものでオリジナル情報はどこかにあり、そのオリジナルのデジタル情報が転写されたものにすぎない。オリジナルの原型DNAをイデアと考えるのか、それとも原始DNAが突然出現し子々孫々に継承したと考えるのか...以下次回。
【参考書籍】
ODL ObjectDesignLaboratory,Inc. Akio Kawai