情報システム学会 メールマガジン 2013.7.25 No.08-04 [13]

評議員からのひとこと
私のサード・エイジとしての 「男の料理」 の楽しみ

評議員 小林 義人

 人生にサード・エイジという言葉があります。ファースト・エイジは自分が親のすね(脛)をかじっていた時代。セカンド・エイジは自分が親になって子供から親の脛をかじられていた時代。そして子供達が自立した後に訪れる時代がサード・エイジであります。夫婦で新たな「自分たちのあり方」を創り出すことを指す言葉であります。当学会の私の年齢以上の方々も、例えば、「夫婦そろって海外旅行に出かける」「学生時代以来遠ざかっていた山登りを再開する」「地域の合唱に参加する」など様々の活動をされていることと思います。私のサード・エイジでは、食卓を彩る料理を、「うちのカミさんと一緒に分担して作る」、又は「うちのカミさんに代わって時には『夕食』を全て作る」ことを始めております。

 まず、なるほど、二人の子供たちが社会人になると、家族の生活風景がそれまでとは大きく変容します。子育て負担が解消されるに伴いワイフの余暇時間は増大し、必然として、学生時代の同輩や先輩との集いや友人との交際のために外に出る時間が急速に拡張していきます。勢い、「あなた、私、今夜はさんとコンサートを聴きにいくから夜は、自分でお願いネ!」となる機会も出てくるのであります。そこで、「さてどうしたものか?」と思案するところから、「新しい物語」が始まるのであります。

 自分の歴史?を振り返ってみると、全く料理をしなかったわけではありません。学生時代は、4畳半の下宿で小さい流しと一口コンロがあったので、たまにはカラーライスや野菜炒めやレバニラ炒めなど、生活費節約のために何日も同じ料理を作って食べたことを思い出します。また、米国で二度、都合4年半ほどの間、家族帯同で暮らしたことがありますが、米国ではバーベキュー(BBQ)は男の役割でありました。家だけでなくそれなりの公園にはBBQエリアが有り、備え付けの簡易な鉄製のBBQ台があります。カリフォルニア州ではサンノゼからヨセミテ国立公園へ車で行く間にも、途中で肉・魚・野菜類を買い込み、公園で、BBQで夕食を取るといったことも茶飯事でありました。ですので、日本でも年に4〜5回くらいは家族だけでなく、自分の職場の部下を家に呼んだり、子供たちが友人を招待してのBBQの夕食会を開き、慣れ親しんでいるのであります。

 しかし、サード・エイジとしての「男の料理」では、「どうせやるならば本格的にやろう!」と考えだしました。中華に、イタリアンに、魚料理に???と。

 理の楽しみの一つは、「今日は何、作ろう?」と考えるところから始まります。これは、PDCAの一つでありますが、問題解決のプロセスとは異なって、ここでは、献立構想→食材調達(買い物)→段取り設定→調理・クッキングの実行→食卓設定→食事→片付けの一連の流れのPDCAとなります。

 料理の本質は何か?と問えば、やはり「それは段取りにつきる」ということではないでしょうか。私が夕食全体をつくる場合にも、「考える枠組み」が前提に必要となります。たいがい他の方々も同様とは思いますが、「スープ(汁もの)・野菜サラダ・主食(肉系・魚系)・もう一品」の4品組合せの枠組みを基準に考えます。その上で、それぞれで「何作ろう!」と、料理本を数冊抱えてベッドにゴロンと転がって考えるところから段取りは始まります。

 次いで、買い物では、だんだん熟練してくると複数の店の「行きつけ」が出来ます。「どこの店は何が安いか」のパターン認識が出来上がり、自転車で30分〜1時間かけて周遊しながら買い物をします。自分の家を基点として「買い物のための標準的行動パターン」がいくつか出来ます。仕事帰りに、新宿、池袋等のターミナル駅に乗り換えで降りる機会があれば、デパ地下の生鮮食品売り場を覗いて、「上手そうな魚はないかな?」と探したりするのも楽しみの一つであります。「変化のバリエーション」を用意すると楽しみが倍加するというものであります。何を食べたいか、何が必要か。

 私のこだわりの一つは、魚料理にあります。一匹魚をWhole=丸ごと買うところからが楽しみの極致。但し、予算は必ず1000円未満がルール。三枚下しで、刺身を夕食にして、翌朝、塩焼き・煮つけ(前の晩から煮付ければ最高)・イタリア風ポアレや和風あんかけへ。アタマ、アラまで食べることができるので、予算1000円未満ということは、仮に二人で食べる場合には、一食(二名)で500円未満の魚の食材費となり、思いっきり割安なのであります。生の魚を三枚下しにしていく過程は野趣にあふれることこの上なしであります。予算の上限があるというのも、何事も青天井ではなく「一定の制約」の有る中で「所定の目的を実現する」といったところに趣きがあるのでは、と思うのであります。魚種ごとにどの調理の仕方が向いていて美味が増すか等を試しながら経験が蓄積されていきます。魚屋さんで、魚種によって美味しく食べるにはどんな調理が合うか、を尋ねていろいろ教わり知恵が増していくのも、コミュニケーションの効用と言えます。

 そして、クッキングの実際のプロセスでは、食事開始時刻を設定した上で逆算をして、調理内容に応じて段取りを構想して実行します。 「どの料理を何時から開始してどのくらいの時間がかかるか」「複数の料理のそれぞれの調理条件(所要時間・ガス台利用の仕方・調理の順番等)の組合せ」を時間軸に沿って、自分の調理行動の組合せを、場(空間)のイメージ化と合わせて、計画しつつ臨機応変に変えながら、ゴールを目指して情報行動していくといった趣きとなります。4品の列車を相互にどのように走らせるかはある意味で「プロジェクト・マネジメント」と言えるのではないでしょうか? そして、何にもまして、「頭を使う」ことは間違いないので、ボケ防止には役立つことと信じております。 (注:料理は、認知症になると真っ先に出来なくなる大変複雑な作業だそうです。何分加熱したかとか、味付けをしたかとか等々、短期記憶が重要だからとのことです。)

 料理の楽しみの最後は、みんなで揃って「頂きます!」をすることにあります。カミさんと二人だけのときでも、自分の作った料理を食してもらって、(それなりに)美味いって言ってもらえるときは最高の気分となります。

 今までは、食べる側だけであった風景から、自分が食事をサーブする立場も持つことになると、今まで見えてこなかったものが見えてくると思います。

 一つには、「味付けの内容・調味料・条件」に対する関心が高まることです。外のレストランで食べる時に、今までは、どちらかと言えば漫然と食していたのが、「これはどんな調味料で調理しているか?」といった作る側からの要素を想像することが増えました。また、料理をカミさんと二人で作ることもありますが、それは一つの共同作業なので、「一緒に」作るというのは、チーム気分めいて、なかなか楽しい発見であります。さらに、仕事仲間の中にも料理をする友人が居ると、一杯やりながらでも、「最近、何、作った?」といった会話で盛り上がることになり、お互いの情報の交換、知恵の交換ができることにもなります。寿司屋に行けば、カウンター越しに見る板前さんにいろいろ質問して知識を得たくなります。最後の片付けも実は料理の一環の中にあります。調理途上であっても、鍋で煮ている間の空き時間にさっさと方づけもできる限りでしてしまうということももう一つの側面と思います。また、カミさんが全部料理をした場合には洗い物は自分がやる、という行動が自然とできる自分も発見している次第でありますが、これも自分が料理をするようになってからの頭の働き(心遣い)が始まったものと思います。

 自分はまだまだ、料理本とにらめっこの状態が多いのですが、「食」へのみずからの「積極的参加」は、人生に楽しみの路線を一つ増やした気分で、これからもエンジョイして行こうと考えている次第であります。このような駄文をお読みいただきまして恐縮であります。

以上