情報システム学会 メールマガジン 2013.6.25 No.08-03 [14]

連載 情報システムの本質に迫る
第73回 本質に迫るとは?

芳賀 正憲

 この記事のタイトル「情報システムの本質に迫る」は、連載の開始に際し、編集委員の吉舗紀子さんが命名されたものです。学会のテーマである「情報システム」に、ものごとに関して最も重要な「本質」という名詞、それに「迫る」という動詞を2つの助詞で結んだ、簡にして要を得たタイトルは、核心に迫るパワーをもって執筆者の背中を押し、連載は今回で7年目を迎えました。
 上記のように「本質」は、ものごとにとって最も重要なものですが、「情報システムの本質」に限れば、実際に本質に迫った例は、世の中で意外に少ないのです。Googleで「情報システムの本質」を検索すると、73万件の関連記事が出てきます。しかしトップの4件には、情報システム学会のメルマガ記事がランクされています。

 現在、情報システム学会では、新情報システム学体系化のプロジェクトを進めています。このプロジェクトのキーワードの1つが、本質の追及です。例えば、要求分析や設計のプロセスに関して、従来多くの技法が提唱されてきました。体系化プロジェクトでは、それらの技法についてではなく、技法の本質がどこにあるのかを説明しようとしています。しかしそれをしようとすると、すぐに壁に突き当たります。本質に関しては、今までほとんど解明されていないからです。
 情報技術の位置づけに関しても同様です。粘土板、印刷術、飛脚、インターネットなど情報技術の役割は、人間の情報行動を支援し、その機能を拡張することにあると考えられます。それでは、情報技術の発展が、人間の情報行動のどの部分をどのように支援し機能拡張したのか、説明しようとすると、人間の情報行動の本質モデルが、共通認識できるほどには明確になっていないという基本的な問題に突き当たります。
 今回の体系化のテーマである「人間中心(の情報システム)」の意味についても議論になりました。体系の各章ごとにコンセプトをまとめていこうとすると、「人間中心(の情報システム)」の意味が、メンバー間で共有されていなければなりません。しかし当初は、共有とはほど遠い状態にありました。
 言うまでもなく「人間中心」の概念は、80年代に浦先生によって提唱され、前身のHIS研究会でも情報システム学会でも、理念として標榜され続けてきたものですが、優れた統合概念として言葉として掲げられても、そのもっている意味が、厳密に深く追求されることは、ほとんどなかったと思われます。
 ところが体系化のプロジェクトの中で議論になって、よくよく考えると、驚くべきことに(実はコロンブスの卵ですが)、「人間中心」の概念は、「内包」が複数に分解可能な「複合概念」だったのです。それをあたかも、1つの意味をもった概念のように考えていたために、各章で人によって解釈が異なり、議論が起きていたのだと思われます。
 「内包」は、分析次第で3つ以上に分けることは可能ですが、そうするとかえって錯綜するので、第1段階と第2段階、2つが妥当なところではないかと考えられます。
 第1の段階は、「人間中心の情報システム」を「人間中心に形成された情報システム」として、構造的に整理するレベルです。ここで取り扱う情報は、西垣先生の用語を借りると、生命情報をルーツとする社会情報が中心であり、その一部に、情報技術、特にコンピュータとネットワークで取り扱う機械情報を包含します。形式知だけでなく、人間の暗黙知や主観知も前提にして、人間の情報行動が組織化された情報システムです。
 第2の段階は、第1の、構造的に整理された、「人間中心に形成された情報システム」に、目標や制約条件として、「人間にやさしい」、「人間と調和のとれた」、「倫理的に価値が高い」などの基準を付加したレベルです。
 「人間中心」の意味は、上記の第1段階に、第2段階の意味がANDで加わって成立していると考えられます。それが、第2段階の「人間にやさしい」等の意味が1人歩きしてしまって、コンピュータ中心であっても、人間にやさしいと感じられれば人間中心であるという、一種の誤解も、従来は生じていたと思われます。

 それでは、ものごとに関して最も重要な「本質」に到達するには、どうすればよいのでしょうか。ここで注目したいのは、今から10数年前、大手企業で教育関係のお仕事をされていた田中望さんの開発された「本質化の技術」というコースウェアが存在していたことです。着想といい組み立て方といい、よくこれだけのものが考えられたと思われるような内容のコースであり、リベラルアーツに弱いわが国において、学生も社会人も、1度は学ぶべき必須の教程として位置づけられます。

 田中さんは「本質」に至る道筋を、まず大きく、感性や直観にもとづくものと、論理的なプロセスに分けられました。フランスの人文地理学者、オギュスタン・ベルク氏の「露点」の考え方でいうと、前者の感性や直観にもとづくものは、露点の高い段階での本質化であり、後者の論理的なプロセスにもとづくものは、露点の低い段階での本質化であると見てよいでしょう。両方があり得るのです。
 露点の最も高いレベルでの本質化は、言葉による「形容」です。これは、経営ビジネスにおいても非常に大事な考え方です。ビール会社が、ビールの本質を追及し、「コクがあるのにキレがある」という新たなコンセプトにもとづいて、画期的な新商品を開発、ヒットさせたことは、あまりにも有名です。
 次に、直観にもとづく本質化として挙げられるのが、フッサールの「本質直観」です。広辞苑の「本質」の項を引くと、4番目の意味として「フッサールの現象学の用語。独特な本質直観でとらえる形相」として載っています。
 現象学的な本質とは、「ある事物が日常生活における人間の実存にとってもつ経験的な意味の核心」とされています。本質直観では、〜とは何か、原理や本質を言葉で認識します。求め方は、次のように整理されています。
 まず、学問上の定義や辞書的な意味を取り除きます。次に、事物の客観的な意味ではなく、自分の生にとってもつ意味を、内省によって取り出し、適切な言葉で表わします。最後に、この意味(本質)は、他の人にも妥当するか内省し、人間一般にとって妥当するように言葉を選び出します。
 例えば、「円」の現象学的な本質を求めるには、数学的な定義を取り払い、硬貨、皿、車輪、満月などを想像したとき、それらに共通したある感じを、人間一般に共通するように、言葉として取り出すのです。
 今日一般的に、多様な社会によって異なった言葉で異なった世界像が組み立てられ、それが対立発生の源になっています。現象学は、言葉により共有できる世界像を編み直しすることにより、人間・社会の関係を編み直そうという壮大な試みなのです。
 上記した本質直観の方法の中に、内省のプロセスが入っているのが興味を引きます。以前『日経ベンチャー』という雑誌が、重大な局面で経営者がどのようにして意思決定するのか特集を組んだことがあります。大きく2つの派に分かれ、論理的に意思決定する人たちと、仏教に由来する内観法による人たちがいました。西洋と東洋で、ともに内省が重んじられていることが注目されます。

 露点の低いレベルで本質を求める論理的なプロセスの基本は、「分析」です。「分」は分ける、「析」は斧で木を割ることです。ものごとを基本的な要素に還元していくことにより、その本質が明らかになっていきます。水は、水素と酸素が結合したものであり、水素はまた、陽子と電子から成り立ちます。このようにして、水の科学的な本質が明らかになっていきます。
 分析によって得られるのが、新たな「概念」です。広辞苑によると、概念とは「事物の本質をとらえる思考の形式」です。
 概念は、ものごとの本質的な特徴を表わす内包と、適用範囲を示す外延から構成されます。例えば乗り物の概念は、内包としては「人を乗せて運ぶ装置」であり、外延は「自動車、飛行機、船、・・・」です。一目して明らかなように、この形式はオブジェクト指向のクラスに対応しています。内包が属性・メソッドで、外延がインスタンスです。
 クラスとの対応から分かるように、概念は、「情報」と密接な関係があります。哲学者の今道友信氏は、情報システム学会における講演の中で、情報はイデアであり、したがって精神の目で見た形、すなわち観念(概念)であると説明をされました。
 概念は、抽象化とも密接な関係があります。一般的に概念は、経験される多くの事物に共通の内容を取り出し(抽象)、個々の事物にのみ属する偶然的な性質を捨てる(捨象)ことにより形成されるとされています(広辞苑)。
 「概念」という概念が、西欧では紀元前からあったのは驚くべきことです。わが国では19世紀の後半、西欧からの移入によって、はじめて「概念」を知りました。そのためもあってか、わが国では概念形成が不得意です。情報学者の長尾真氏は、「一般的には、欧米の学者は、名前を与えることによって、ある概念を他の概念から明確に区別するということに関心が高く、こうした名称の体系によって学問を体系的につくり上げていくことが上手である」と述べています(『「わかる」とは何か』岩波新書)。
 学問を組み立てていくのに、概念形成は不可欠です。学問の4要件が、概念、歴史、理論、実践の方法論にあることは、広く知られています。学問の組み立ては、まず概念という本質から出発しなさいということです。新情報システム学の体系化においても、この考えに則り、まず全体と各章のコンセプトづくりから始めています。

 本質化の次の段階は、複数概念間の関係の本質を求めることです。これには3つのアプローチがあるとされています。「分類体系をつくること」、「因果関係の解明」、それに構造主義にもとづく「構造化」です。
 分類は、概念と概念の関係を一般にツリー構造やマトリクス構造などで表わして、各概念が体系全体の中でどの位置づけにあり、他の概念とどのような関係になっているかを表わすものです。
 参考までに、ソフトウェア技術者の片岡雅憲さんによる、「概念」の分類体系を以下に示します(『ソフトウェアモデリング』日科技連を参照。一部表現を改)。

「概念」の分類体系

 先にも述べたように「人間中心」の概念は上から5番目の複合概念ですが、他にも多くの種類の概念があるので、今まで共通認識がむずかしかったものと思われます。露点の高い日本文化の中で、「人間中心」は、概念としてよりむしろ「形容」として理解されてきた可能性があります。「コクがあるのにキレがある」の場合、コンセプトとして決定された後、コクとは何か、キレとは何か、周到に科学的な分析がなされ、それらを実現するエンジニアリングが行われて、はじめて商品開発に成功しました。「人間中心」の場合、今まで、それだけのサイエンスとエンジニアリングは実施されてなかったと思われます。

 複数概念間の関係の本質を求めるプロセスとして、特にトラブルが起きたときなど、問題の本質を見きわめるのに大きな効果を発揮するのが、「因果関係の解明」です。
 多くの場合、トラブルの要因は多岐にわたり、それらが複雑に絡み合っているので、因果関係の解明には、新QC7つ道具の1つとして伝統的に用いられてきた、連関図法が有効です。
 情報システム学会が行なった「社会への提言」の中に、「東証における誤発注問題に関する提言」があります。学会のウェブサイトで読むことができますが、その6ページに、証券会社の担当者が株式売却の意思決定をしてから、407億円の損害が発生するまでの連関図が載っています。情報システム学会では、この連関図の作成により、錯綜した問題の全体像を明らかにし、きわめて的確に提言を出すことができました。

 複数概念間の関係の本質化として最後に挙げられるのが、構造主義にもとづく「構造化」です。構造主義の直接的な発祥は、文化人類学における人間活動のモデル化にもとづいています。オーストラリアの原住民の結婚制度を調査した結果、驚くべきことに、そのルールは、抽象代数学の「群」の構造とまったく同じものでした。
 レヴィ・ストロースによるこの分析は、『親族の基本構造』という大部の研究の中でなされたものです。この研究に際しレヴィ・ストロースは、ソシュールに始まる言語の構造分析の考え方に多くのヒントを得、また、数学における「変換しても変わらない性質」である構造の概念を取り入れています。これらの考え方をもとに画期的な「構造人類学」を打ち立てた結果、レヴィ・ストロースは構造主義の輝ける旗手となり、構造主義は、その後社会学、経済学、記号論、文学、哲学など広範囲の諸科学に展開され、20世紀を動かす大思潮の1つになりました。(橋爪大三郎「はじめての構造主義」講談社現代新書)
 ここで、構造主義における「構造」とは何でしょうか。通常「構造」は、そのルーツである言語の構造や、もう一つのルーツである数学の構造から説明されます。
 一方、フランスの高等学校の哲学教科書(フルキエ著『哲学講義』)では、構造主義の「構造」はsystème(体系)であると説明しています。フランス語のsystèmeは、英語のsystemの直接的な語源の1つとされているものですから、これは情報システム関係者にとって分かりやすい説明です。つまり、構造主義とはシステム思考主義と言ってよいものです。
 オーストラリアの原住民の結婚制度の分析例を見ても、構造は抽象モデルです。そうすると構造とは、構造化分析における論理モデルであり、情報システム学の観点からも、人間活動の本質モデルと名づけてよいものと思われます。

 形容、本質直観、分析(要素還元)、概念化、分類、因果関係の明確化、構造主義にもとづく構造化という7つのツールからなる「本質化の技術」により、リベラルアーツの基礎となる実に多くのことを学ぶことができます。これらのツールをすべての人が1度は学ぶことにより、わが国社会の問題解決能力は、飛躍的に向上するものと期待されます。

 この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。
 皆様からも、ご意見を頂ければ幸いです。