情報システム学会 メールマガジン 2013.5.25 No.08-02 [5]

連載 オブジェクト指向と哲学
第29回 メディアを 「可能態」 と 「実現態」 で考える

河合 昭男

 前回はメディアを「形相」と「質料」という視点で考えました。工業製品の製造とは「設計情報をメディアに転写すること」という捉え方があります。設計情報を「形相」、メディアを「質料」と考えるならこれらが一体化したものが製品です。利用者は製品から設計情報を抽出して利用します。
 アリストテレスは「形相」と「質料」は一体化され不可分であると考え、プラトンは「形相」とはイデア世界に存在し地上世界にあるものはその影にすぎないと考えました。メディアをどちらの考えで捉えたらよいか、2種類あるのではないでしょうか。工業製品というモノのメディアはアリストテレス説がマッチしますが、電波やインターネットというメディアで配信される音楽や動画などではオリジナルは発信元にひとつあるだけであり、受信した情報は流れ去って行き影のようなものなのでプラトン説の方がマッチすると思います。

 今回は引き続きメディアをテーマに、アリストテレスの「可能態」と「実現態」という視点から考えてみたいと思います。

可能態と実現態
 可能態(デュナミス)と実現態(エネルゲイア)はアリストテレスが作り出した概念です。材木から家具を作る事もできるし仏像を彫刻することもできます。素材としての材木の状態を可能態、加工して家具や仏像になった状態を実現態と呼びます。材木という「質料」に何らかの目的を持ってそこに「形相」を組込んで一体化したものが実現態です。
 材木にも自然物としての「形相」はあるわけですが、制作者が意図して何かを作り上げる素材として見た場合、それは単に「質料」であり可能態と捉えます。素材を使って何かを作り上げたら「質料」に「形相」が合体し実現態に変化したと捉えます。

 材木をメディアだと考えるなら、そこに家具の設計情報を転写したものが家具製品であり、利用者はメディアに組み込まれた設計情報を利用します。設計情報を転写するために用いられるメディアは可能態から実現態に状態を変えて利用者に使用されます。つまり工業製品の製造とは「設計情報をメディアに転写することにより可能態を実現態に変換すること」になります。

実現態と終局態
 アリストテレスは可能性と現実性を表す言葉としてデュナミス(可能態)とエネルゲイア(実現態)という概念を作り出しましたが、現実性にはエネルゲイアの他にエンテレケイア(終局態)という概念も作りました。エンテレケイアは「テロス(おわり、終局、目的)のうちにあること」を表し、エネルゲイアは「エルゴン(はたらき)のうちにあること」を表しますが、デュナミスの対概念としてほぼ同じ意味で用いられています。

都市鉱山
 携帯やPCなど電子機器にはレアメタルが使用されています。製品として不要になって廃棄処分された製品の山に含まれるレアメタルに注目し、都市鉱山と呼ばれています。本来の鉱山の原石に含まれるよりレアメタルの含有量が高く、回収と抽出技術が効率化できれば輸入量削減でき安定供給につながります。
 電子機器という実現態は廃棄処分になれば本来の「形相」は消滅し元の「質料」としての存在に戻ってしまいます。目的があって「質料」に「形相」が転写され一体化したものが実現態です。目的がなくなればそれは可能態に戻ります。
 可能態は制作者の意図により実現態となりますが、制作者の手を離れるといつしか利用者の手により可能態に戻されてしまうこともあります。このように可能態から実現態への状態変化は一方通行でなく循環します。

霊魂論
 アリストテレスの霊魂論(Περὶ Ψυχῆς - ペリ プシュケー)は、ラテン語ではDe Anima、英語ではOn the Soulと訳されています[2]。プシュケーという眼に見えないが確かに存在し、人間の活動の源泉となるものを可能態と終局態(実現態)というキーワードで論じます。
 感覚器官とプシュケーの関係は可能態と終局態です。人の眼はものを見る事ができるが、見る能力というものはプシュケーに存在します。眼はものを見るための道具と言う意味で可能態です。眼と心の一部分が一体化して初めて視力が生じます。それが終局態です。
 五感はそれぞれ可能態でありそれぞれが心の部分と一体化して終局態となり感覚することができます。

 このような議論はアリストテレスの思考過程のひとつであり、次のように別の見方もあるとしています。
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しかし、なお、心はこのような意味で肉体の終局態になっているのか、それとも船頭が船に対してもつ関係になっているのか不明である。[1]

But it remains unclear whether the soul is the actuality of a body in this way or rather is as the sailor of a boat.[2]
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 この後者の見方をとるなら、「船頭=心」が「形相」であり、「船=肉体」が「質料」でありそれが一体化しているのが人間という実現態です。肉体は可能態です。

 工業製品を比喩として転用するなら、肉体というメディアに心という設計情報を転写したものが人間ということになります。人は肉体というメディアを通して活動し、コミュニケーションします。コミュニケーションの主体は人の「形相」=心です。
 都市鉱山を比喩として転用するなら、人の魂は肉体と合体して地上世界で活動しますが、死んだら肉体は分解します。分解した肉体は原子レベルでは消滅することはなく、やがて誰か別の魂の肉体の素材の一部になるかも知れません。魂という「形相」は肉体という「質料」と合体して実現態となって活動し、やがて「形相」は分離し魂として輪廻転生していきます。

アリストテレスvs. プラトン(ソクラテス)
 ソクラテスはプラトンの著作の登場人物として何度も魂の輪廻転生の話をしています。肉体と魂は別物であり、地上で生活している間は結合しているが死ねば魂は「肉体の牢獄」から解放されイデア界に帰れると述べています[4]。いわば、肉体は魂のメディアです。アリストテレスは肉体と魂(心)を「質料」と「形相」と捉え、それらは分離できないというのがプラトンとの最大の争点です。アリストテレスの霊魂論[1][2]は、活動している人のプシュケーがテーマであり死ねばどうなるかは議論の範囲外のようです。

【参考書籍】
[1]アリストテレス、[訳]桑子敏雄「心とは何か」講談社学術文庫、1999
[2]Aristotle, De Anima (On the Soul), Penguin Classics, 1986
[3]山口義久「アリストテレス入門」ちくま新書、2001
[4]プラトン、[訳]岩田靖夫「パイドン − 魂の不死について」岩波文庫、1998


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