情報システム学会 メールマガジン 2013.3.25 No.07-13 [10]

連載 プロマネの現場から
第60回  「将棋界でいちばん長い日」 に学ぶ

蒼海憲治(大手SI企業・金融系プロジェクトマネージャ)

 毎年2月末から3月初めに、年に一度の「将棋界のいちばん長い日」があります。
 プロの将棋の棋士は、200名余いますが、その中で、名人への挑戦権を手に入れるためのA級に所属するトップ棋士はわずか10名。この10名が、名人への挑戦権を獲得するため、1年間かけて総当たり戦を行います。今年は、3月1日の金曜日が、名人位への挑戦権をかけたA級順位戦の最終戦になりました。そして、今回初めて、この最終戦全5試合が、開始から終了までケーブルテレビ及びインターネットで完全中継されました。朝の9時半から深夜の1時まで、感想戦を含むと午前3時までの超ロング中継でした。当日は午後9時過ぎに帰宅したのですが、まだどの将棋も中盤に入ったところで、終局までの5時間をたっぷり堪能することができ、大満足でした。

 現在の私は、「指さない将棋ファン」です。通常、将棋ファンというと、将棋を指すのが趣味ということになると思います。しかし、梅田望夫さんが他のスポーツ等では、自分がプレーをしない場合でも、立派にファンとして成立している。そうすると、将棋も指さずに見るだけという楽しみ方があってもいいのではないか、ということで、「指さない将棋ファン」「趣味は将棋鑑賞」を提唱されています。私も、棋譜などを見て、その指し回しに感嘆するという、見るだけの楽しみは十分に成立すると思っています。
 この「指さない将棋ファン」の一人としては、盤上の戦いだけでなく、盤外のこともあわせて、毎年、「将棋界のいちばん長い日」の行方を興味深く見守っています。

 ところで、この日が、「将棋界のいちばん長い日」になったのは、昨年末にお亡くなりになった米長邦雄さんの将棋哲学にも、大きな理由があると思っています。A級最終戦は、名人への挑戦権を決めるだけでなく、B1級への降級2名を決める日でもあります。勝敗が名人への挑戦権か、降級に直接関わっている棋士が真剣に勝負するのは、当然のことです。しかしながら昔は、自分の昇降級に関係ない棋士は、昇降級に関わる相手に花を持たせることが多かったといいます。しかし、米長さんは、
「順位戦最終戦で、自分は昇降級に関係ない立場にあり、相手は昇降級が懸った大一番だったとする。そういう一番こそ勝たねばならない」
と考え、真剣に勝負することが、将棋の神様に愛されることになる、と信じていたとのこと。また、それ以後、順位戦の消化試合も、他の棋士も真剣に指すようになったといわれています。

ところで、プロの将棋の棋士が、対局中にどのような思考をしているのか、には大変興味があります。今回、名人位への挑戦者となった羽生さんが、ご自身の思考プロセスを整理されているので、少し紹介したいと思います(*1)。

 ある局面で、次の一手をどう指すか?

 次の一手は、「直感」「読み」「大局観」の3つによって決まります。この3つを駆使し、これらを組み合わせながら次の手を考える、といいます。

 1.直感

 まず最初に来るのが、直感です。

 将棋には莫大な可能性があります。9×9の81のマスの盤面に、40個の駒を配置することで、現れる局面は、10の220乗くらいの可能性があります。ちなみに、チェスは、10の120乗、囲碁は、10の360乗といわれています。全宇宙の原子の総数が10の80乗程度なので、その可能性は無限に近く、すべてを読み切ることは不可能です。
 また、一つの局面で指せる手は、平均して80通りくらい存在すると言われていますが、 棋士は、この80通りの中から瞬時に2〜3つの可能性だけを考えるといいます。残り77〜78通りの手を瞬間に捨て去るために「直感」を使っています。直感とは、ロジカルな積み重ねの中から育ってくるもの、わかってくるもの。つまり、直感は、数多くの選択肢から適当に選んでいるのではなく、自分自身が今までに積み上げてきた蓄積の中から経験則によって選択しているものです。だから、研鑽、経験を積んだ者にしか、直感は働かないといいます。
 ところで、「経験」以外に、直感、読みを磨く方法は、自分のとった行動、行った選択を、きちんと冷静に検証することにある、といいます。将棋界には、「感想戦」という習慣があります。反省会や検討会に当たり、対局が終わった後、その一局を最初から並べ返して、どこが良かったかどこが悪かったか、何が問題だったかを振り返るものです。この感想戦によって、自分の直感が正しかったのかそうでなかったのかが見えてきます。そのため、試合と同等に、「感想戦」が重要である、という棋士の話をよく耳にします。

 2.読み

 直感の次に、「読み」がきます。

 「読み」とは、ロジカルに考えて判断を積み上げ、戦略を見つける作業になります。つまり、「読み」とは、指し手のシミュレーションです。
 直感で選んだ2つか、3つの手を読み、それに相手がどういう手を返してくるか、またそれに対してどういう手を選ぶか、という手順を読んでいく作業を踏んでいきます。
 この「読み」の力をつけるには、自分で考える経験を積むこととともに、自分が選ばなかった選択肢を、可能な限り検証することが、非常に大切になります。
 多くの棋士の方は、迷った時は、最初の考えが正しいと思われています。でも、その裏取りをするために、数時間の長考に沈むのだと思います。

 3.大局観

 大局観とは、指し手を具体的な手順で考えるのではなく、文字通り、大局に立って考えることです。10手先を読む場合、3の10乗(5万9049通り)の可能性があり、直感と読みだけでは、対応できません。そのために必要となるのが、大局観になります。

 大局観のイメージとしては、自分が道に迷った時、上空から眺めて全体像がどうなっているかを把握し、右に行けばいいのか、左に行けばいいのか、このままいくと行き止まりかを見極めるような感覚です。
 大局観で、左に行けば大丈夫そうだということを掴んだ上で、どのルートを通って、どれくらいのペースでいけばいいのかを、地上に降りて、一歩一歩考えてみる。この一歩一歩の裏をとるのが、「直感」と「読み」になります。

 また、大局観では、「終わりの局面」からイメージすることが大切です。最終的に「こうなるのではないか」「こうなれば勝てるのではないか」という仮定を作り、そこに「論理を合わせていく」という手順を踏むといいます。

 大局観の特徴には、以下のものがあります。

 ・直感と同じく、ロジカルな積み重ねの中から育ってくるもの、わかってくるもの。ただし、その因果関係は、直感と違って、証明しづらいもの。
 ・たくさんのケースに出会い、多くの状況を経験していく中で、だんだん培われてくるもの
 ・自分がやっていなくても、他の人が過去にやったケースをたくさん見ていくことでも、磨かれていくもの
 ・その人の本質的な性格、考え方が非常によく反映されるもの

 このような特徴を持っているので、経験を積めば積むほど、大局観の精度は上がっていきます。そして、この大局観を使うことで、大筋の判断を誤ることが少なくなり、余計な手を読むことが省かれていきます。

 羽生さんも、40歳を越えたこともあり、年齢を重ね、経験を積むことにより、メリットを活かした戦い方をするように心がけている、といいます。むしろ、年齢と経験を上手く味方にすることで、答えのない問題、はっきりしない問題に対して、対処する能力が上がる、といいます。記憶力や体力、手を読む力は、若いときの方が上だが、直感、大局観・・つまり、「いかに読まないか」は、経験を積んだ方が優れていること。それに加えて、物事に動じない強さ、大らかさ、大胆さ、メンタルな面などは経験を積んだ方が強くなる、といいます。

 その差は、具体的には、ピンチの時、答えのない問題に出会った時、どうするか?
という対応に現れると思います。特に、不利な状況をどう受け止めるかによってその後の展開が大きく変わってくるのだと思っています。

≪人間には二通りの考えがあると思うのです。
 不利な状況を喜べる人間と、喜べない人間≫がいる。(*2)

≪たとえ不利な局面でも、あまり落胆せず淡々と指していく。
 ここが勝負のツボを見いだすポイントで、逆転に必要な直感やひらめきを
 導き出す道筋となるのではないかと思っています。≫(*2)

 羽生さん自身は、形勢が不利なときの思考としては、一直線の切り合いになって終わってしまう手順は選ばないようにする。何かまぎれる可能性のある手を探す。そして、悪い将棋を粘って粘って逆転する、といいます。

 大山十五世名人もこう言っています。

「悪い将棋を粘るのは、本当は苦しいのだ。
 それを頑張り耐えてこそ初めて勝利をつかめる。
 耐えてこそ次の飛躍がある。
 苦しい局面を耐えて頑張ることは己に勝つことでもある。
 楽になりたければ、すぐに投げればいい。
 しかし、投げることは、その一番だけでなく、長い目でみても負けなのです。
 これは、将棋だけでなく人生でも同じです。」

 最後に、今年の「将棋界のいちばん長い日」を振り返って終わりたいと思います。今回の名人位への挑戦は、大方の予想通り、羽生さんで決まりました。しかし、今年の試合の中にも多くのドラマがありました。

 羽生さんと対戦したのは、橋本崇載(はしもと たかのり)八段でした。今回は黒髪でしたが、普段は金髪で、休日には将棋バーを経営しているという異色の棋士で、ハッシーという愛称でファンに愛されています。昨年、B1級からA級へ昇級してきた若手のホープでした。しかしながら、橋本さんは歩越し飛車を、羽生さんに徹底的に咎められ、手も足もでず、完封負け。B1級への降格が早々に決まってしまいました。橋本さんの来期の復活を期待しています。
 次は、渡辺竜王対郷田棋王戦。渡辺さんの猛攻の前に、郷田さんが3時間13分という大長考に沈みます。解説を担当したプロ棋士の方々はみな渡辺竜王の勝ちとみていました。
しかし、郷田さんの軽妙にみえる駒さばきにより、渡辺竜王の攻撃は切らされて負け。はたして大長考の間に、郷田さんがどこまで読み切っていたかは知るよしもありませんが、その読みの底力を垣間見た気がしました。
 そして、十七世名人の資格のある谷川九段と屋敷九段の戦い。ここまで、2勝6負の谷川さん。橋本さんか高橋さんのどちらかが勝てば、A級から降格になるという信じられない事態になっていました。しかし、角換わりを拒否した後はじり貧となり、屋敷さんの鉄壁の守りに投了。
 最後は、三浦さんと高橋さんの戦い。中盤までは、高橋さんが三浦さんの陣を猛烈に圧迫。その攻めの重厚さに痺れます。一方の三浦さんはひたすら自重。試合前、羽生さんが負け、三浦さんが勝てばプレーオフ。でも、この時、羽生さんは早々に勝ちを決め、三浦さんの挑戦権は既にありません。しかし、そんなことは関係なく、中盤のねじり合いをしのぎます。素人目には、高橋さんが優勢に見えていたものの、双方、状況をシンプルにせず、複雑に難解に誘導しあっているように見えるのが、印象的でした。結果は、三浦さんの勝ち。最年長の高橋さんの降格。橋本さん、高橋さん、谷川さんとも、2勝7敗ながら、順位の関係から、谷川さんが奇跡の残留を決めました。

 解説を聞きながら、印象に残ったのは、解説者が異口同音に、解説者が何人集まって、この手あの手がいいと思ったとしても、対局者の実戦心理は異なること。解説者にそれがわかったら、自分たちはA級にいるはずだ、といっていたことでした。
 また、対局する姿を見ながら感じたことは、3時間超におよぶ大長考をした郷田さんだけでなく、みな必死に読んだ膨大な手が、相手の応手一つで、すべて無駄になってしまいます。にもかかわらず、またゼロから根気よく考え直す、という姿勢でした。先を読む力は大切ですが、読み筋を外されても、めげずに新しい局面で読み続け局面を打開するという姿勢こそ、私たちが一番学ぶべきことではないか、と思うのでした。

(*1)羽生善治「結果を出し続けるために (ツキ、プレッシャー、ミスを味方にする法則)」日本実業出版社 2010年刊
(*2)羽生善治「才能とは続けられること」(100年インタビュー) PHP研究所 2012年刊