情報システム学会 メールマガジン 2013.3.25 No.07-13 [9]

連載 オブジェクト指向と哲学
第27回 流出システムと波動システム(3)

河合 昭男

 人はコミュニケーションのために「流出システムと波動システム」と筆者が仮に名付けた2つのシステムを持っているという仮説で考えています。前回は、モーツァルトの心に奔流のように現れる一幅の絵とソクラテスのダイモンの声に注目しました。それらは眼で見る絵でもなければ耳で聞く声でもなく、直接心に捉えられます。つまり流出システムではなく波動システムで受信されるのだと考えました。

 直接対面しているときは、発信者は主に口で伝達しますが、身振り手振りも加えます。眼がものをいうことも大きいです。受信者は主に耳と眼で受け取ります。鼻も少しはあるかも知れません。

鼻で感じない匂い
 疑わしいこと、あやしいことを胡散臭いや何か「におう」と表現します。鼻が匂いを感じ取る訳ではありません。前回「ピアニストの脳を科学する」[1]からピアニストは音を画像として覚えているという研究報告を引用しました。
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 ・・・耳から覚えた情報の一部を蓄えるために、視覚野の神経細胞を活用している[1]
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 憶測にすぎませんが、疑わしさは匂いに使われる神経細胞が使われているのではないでしょうか?

 話は飛びますがプログラミングの世界にリファクタリングというテクニックがあります。一度完成したプログラムの振る舞いを変える事なく構造を改善するテクニックです。このテクニックを駆使するには臭覚が必要です。コードレビュで何か「におう」、悪臭がただよってくると感じたならそこを書き換えます。これはもちろん比喩ですが付け加えておきます。

 眼で見ない絵、耳で聞かない声、鼻で匂わない「におい」...があるようです。何か禅問答みたいになってきました。

人と人の間に媒体が介在する場合
 今回の本題は人と人との間の通信システムの間に媒体が介在する場合を考えることです。離れているときには電話、メールや手紙といった媒体(メディア)を使用します。媒体を介在するとそこで情報の欠落やゆがみ、ノイズの混入などで正しくは伝わりにくくなります。

図1 媒体を介在する情報伝達
図1 媒体を介在する情報伝達

電話を使用するケース
 流出システムで発信者が使えるのは口のみ、受信者は耳のみになります。受信者が発信者に関する知識を持っている場合とそうでない場合では心への伝わり方が異なり、行動への影響力も異なります。
 例えば携帯に着信が入ると、登録してあれば発信者の名前がでてきます。それだけで用件をある程度イメージできることもあります。未登録の場合は身構えて電話をとることになります。

システム1とシステム2
 人間はしばしば不合理な行動をとることは行動経済学の様々な実験データが示しています[2]。指摘されるまでもなく、よく考えないで衝動買いをしてしまったり、逆に何故あのときに購入して置かなかったのかと後悔することもあります。
 人が必ずしも合理的判断ができない理由は、ダニエル・カーネマン著「ファスト&スロー」によれば、人は異なる2つの判断システムを持っているからだとあります。システム1(Fast)は直感的に迅速に判断を下します。このシステムは自動的に作動するのですが、その判断は正しい場合とそうでない場合があります。システム2(Slow)は合理的に時間を掛けて判断を下します。このシステムは自動的作動することはなく、努力しなければなりません。
 自分は合理的な判断を下したと思っている人も、実はシステム1により自分では意識する事なく第1印象で先になんらかの判断を下しており、その後のシステム2による合理的な思考にバイアスがかかり、不合理なシステム1の判断に従って行動してしまう事が少なくないという説です[3]。

 あまり良い例ではないですが、振り込め詐欺被害が続いています。被害者の方の中には自分は関係ない、絶対大丈夫と思っていた人も少なくないそうです。誰しも自分は常に冷静に合理的判断を下せるものだと思っています。ところが突然の思いがけない電話に冷静さを失います。相手の姿は見えません。システム1が作動して一旦誤った判断に誘導されてしまうと、最早システム2が作動して合理的判断を下そうとする前に誤った行動に誘導されてしまいます。この例は流出システムが制限された場合、受信者が情報を正しく受け取ることができなくなり、システム1が素早く作動して誤った行動に誘導されてしまい易い例です。
 対面していて流出システムがすべて機能していたら常に合理的な判断と行動を導けるというものでもありません。流出システムによって受信した情報は2つのシステムの働きで判断され、行動につながってゆきます。システム1は常に作動しますが、システム2は努力しなければ作動しないのでシステム1のみで行動につながってゆく場合もあります。

メールを使用するケース
 メールでは、発信者(A)の思いはすべて文字というデジタル情報に置き換えられます。画像などの添付ファイルはない場合を考えることにします。受信者(B)はそのデジタル情報のみを受け取ります。BがAに関する知識を持っていればそれらと合成することによりAの思いをより正確に再現することができます。
 その知識がない場合には思いがけないトラブルになることがあります。文面のわずかな表現が誤解され感情論になってしまうことがあります。これも発信者に関する知識がないとき、一旦システム1が誤った判断をしてしまうとバイアスが掛かってしまい最早システム2が正しく作動しないケースです。
 図2のようにここではシステム1とシステム2は心の中にあるものとします。心は流出システムで受信した情報と自身の知識ベースを合わせて判断を行いしかるべき行動を起こします。

図2 発信者の知識の行動への影響
図2 発信者の知識の行動への影響

手紙(手書き文書)のケース
 手書きの文書の場合は筆跡に発信者の思いがこもるので、メールよりは受信者に訴える力は強くなります。発信者に関する知識があればさらに思いが伝わりますが、そうでなくても筆跡に性格や感情があらわれます。これはシステム1に影響を与えます。

ソクラテスの弁明
 ソクラテス裁判は2回の投票が行われた。1回目は有罪無罪の投票で、281対220で差は61なのであと30人強が無罪投票なら無罪であった。2回目は刑を決めるもので361対140の大差で死刑になった。不思議です。つまり1回目で無罪にした人で2回目は死刑というまったく不合理な投票をした人が501名の投票者の中に80人もいた計算になります[4]。
 1回目の判決の後のソクラテスの弁明が裁判官の感情を害するものであったからで、多数の裁判官のシステム1が即座に死刑と判断し、もはやシステム2はそれに反論できない状態にロックオンされてしまった。民主主義、多数決原理の欠点です。

【参考書籍】
[1]古屋晋一「ピアニストの脳を科学する - 超絶技巧のメカニズム」春秋社、2012
[2]ダン・アリエリー「予想どおりに不合理」早川書房、2010
[3]ダニエル・カーネマン「ファスト&スロー」早川書房、2012
[4]プラトン「ソクラテスの弁明・クリトン」岩波書店、1991


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