ベンチマーキングに際しては、対象とする事例をいったん概念化した上で適用を図ることが重要とされています。昨年11月に出版された、翁百合・西沢和彦・山田久・湯元健治著『北欧モデル 何が政策イノベーションを生み出すのか』(日本経済新聞出版社)は、リーマンショックの前後を通じ、高い国際競争力と経済成長力、高福祉と健全な財政を維持している北欧の社会システムの本質がどこにあるのかを求めていて、今後わが国が改革を進めていく上で必読に値する文献と思われます。前月号ではこの文献をもとに、北欧が実質的にシステム・エンジニアリングとプロジェクト管理に相当する考え方をベースに社会システムの開発を推進しつつあること、事例としてスウェーデンの労働市場政策の特徴について紹介しました。本稿では、さらに金融、税と財政、社会保障、特に年金について、各サブシステムの特徴を見ていきます。
北欧の金融システムに関して第1に特筆されるのは、金融危機に際して、きわめて迅速に管理サイクルが回されることです。わが国と比べると、その差異が際立ちます。
スウェーデンの場合、拡張的な金融財政政策と金融自由化の中で金融機関の不動産投資が拡大、当局の監督不適切もあって、1987年〜1990年頃、日本とほぼ同時期にバブルが発生しました。
しかしスウェーデン政府は、大胆かつスピーディに公的資金を投入、銀行の株式買い取り、国有化、不良債権のバッドバンクへの移転、銀行の統合とリストラを進め、1995年には早くも再民営化、1997年夏には、バッドバンクの不良債権処理も計画を大幅に早めて完了しました。この間これらの施策は、政治の強いリーダシップのもと、速やかに明確な方針が立てられ、野党とも合意を形成、国民にも十分説明し透明性が確保された中で実施に移されました。
1997年には中央銀行が、金融システムの安定性を分析、リスクがあれば市場に早期に警告する、世界初の「金融システムレポート」の発行を開始しました。
リーマンショックに際しては、90年代の経験が活かされ、金融安定化プログラムが着実に実行され、金融システムの健全性確保に成功しました。2010〜2012年平均の実質経済成長率がスウェーデンで4.3%だったのは、前月号で紹介したとおりです。
金融システムに関して次に特筆されるのは、モデルを用いた先進的金融政策手法への挑戦です。スウェーデンは、スベンソン・モデルを理論的基礎にして、インフレーション・ターゲティングを世界で4番目の早さで導入しました。1993年のことです。
日経センターと日本経済新聞社が2011年1月に出したデフレ克服のための共同政策提言には、スウェーデン中央銀行のスベンソン副総裁が提唱したモデルが、次のように説明されています。
先行きのGDPギャップとインフレ率の目標値からのかい離を最少化するためには、先行き以下の政策目標ルールを満たすよう運営する必要がある。
<インフレの目標値からのかい離>+β×<GDPギャップの目標からのかい離>=0
1993年段階で、1995年以降の物価指数前年比目標は、2±1%と設定されました。ここでβは、GDPギャップから物価上昇率への影響を考慮し、両者の相対的な重要性を示す係数で、1.3程度とされています。
インフレーション・ターゲティング導入後、スウェーデンの物価上昇率は着実に低下しましたが、背景としては、IT投資や規制緩和、グローバル化等により生産性が向上したこと、インフレーション・ターゲティングの導入が労使交渉に好影響を及ぼしたことも指摘されています。
インフレーション・ターゲティングが実効性を上げるには、透明性の確保が何よりも重要で、スウェーデンの中央銀行は、今後の経済指標の予測値、金融政策の決定内容、将来の政策全般について、きわめて水準の高い情報発信を行なっています。
中央銀行が、説明責任を果たすために何ができるかを常に考え、理論的な裏づけのもとで金融政策のイノベーションに積極的に取り組んでいること、また、市場とのコミュニケーション向上に対する飽くなき追求の姿勢には大いに学ぶべきであると、本書の著者たちは強調しています。
北欧の税と財政のシステムに関して最大の眼目は、きわめて高福祉・高負担であることです。国家の最も重要な役割が国民の福祉の向上であることから、高福祉は、国家目的が見事に実現されていることを表わしています。
スウェーデンの場合、社会保障費の対GDP比率(2007年)は、27.3%で、フランスに次ぐ世界2位の高さです。日本は18.7%で、OECD諸国の中で21位にとどまっています。
北欧では、税と財政のシステムを通じて、所得の再配分機能もよく働いており、所得格差を表わすジニ係数は2000年代半ば、スウェーデンが0.23でデンマークと並び世界1の低さであり、日本は0.32でOECD諸国の中で23位でした。
このような高福祉を実現するため、当然のことながらGDPに対する税・社会保険料などの国民負担率は高くなります。スウェーデンの場合(2009年)62.5%、日本の38.3%に比べて大変な高負担です。
これほどの高負担を国民がなぜ納得して受け入れているのか、大きく3つの要因があるとされています。第1には、地方分権が進んでいて、地方に納めた税金で、地方が医療、介護、保育、教育、福祉等の事業を、責任をもって進めているため、受益と負担の関係が見えやすく、それらが市民のコントロール下にあることです。第2には社会保障の対象が高齢世代に偏らず、子ども手当、育児休業給付、失業給付、教育費が大学院まで無償、職業訓練など無償、18歳未満の子どもの医療費無償など、現役世代にも大きな恩恵を与えていることです。第3に、政府と政治に対する絶大な信頼です。これは衆目の見るところ、わが国との顕著なちがいです。スウェーデンでは、国民は国家に貯蓄するという感覚で税を払っているとのことです。
しかしこれだけの高福祉・高負担体制を維持・発展させていくためには、高い経済成長の実現が必須の条件になります。そのために北欧では、税と財政のシステムの中に、ダブルスタンダードも辞さず、個人と企業にインセンティブを与え、ビジネス基盤を強化し、国際競争力を高めるさまざまな仕組みを実装してきました。スウェーデンの場合、主要な施策は次のとおりです。
納税や社会保障の受給、行政サービスの利用を円滑に進めるため、スウェーデンでは国民の番号制度が非常に大きな役割を果たしています。番号制度を導入している国はすでに多数ありますが、それらの中でもスウェーデンの番号制度は、利用範囲が最も広く、国民にとっての利便性の高さは先進国の中でもトップクラスであり、番号がなければもはや国民生活が成り立たないと言われるほど、必須のインフラとして位置づけられています。
活用例としては、所得税の確定申告、失業保険・児童手当などの申請、年金情報の受信、パスポート・運転免許証申請時の個人認証、自動車登録、建築許可申請、公立図書館の利用、出生届・婚姻届の提出、大学(院)への入学手続き、住所変更手続き等々枚挙にいとまがなく、ほとんどの手続きが自宅で可能になっています。
わが国で問題となる個人情報の保護に関しては、個人データ法が制定され、データ検査委員会が監督をしています。個人情報と、人種・政治信条・宗教・思想などに関わるセンシティブ情報を区別して取り扱うことが原則になっていて、後者についてはコンピュータ処理が禁じられています。
スウェーデンでは驚くべきことに、所得情報が原則開示される情報になっています。これを即見習う必要はありませんが、わが国においても、エクセレントな社会におけるプライバシー観はいかにあるべきか、議論を深め、合意を形成した上で、スウェーデンにも負けない社会システムインフラを開発していく必要があると思われます。
ここで、高負担を国民が納得して受け入れている第1の要因、受益と負担の関係が見えやすくなっていることに関して、スウェーデンではシステム設計の観点からどのような工夫がなされているか見てみます。
政府を構成する部門として、4つのサブシステムがあります。中央政府、広域の地方政府(ランスティング)、地方政府(コミューン)、それに年金基金の管理組織です。
スウェーデンの場合、これらの部門について特徴的なことは、第1にそれぞれ役割分担がはっきりしていることです。もともとランスティングやコミューンは、わが国の県や市町村と異なり、地方自治の階層として設置されたものではなく、特定の役割を果たすために設けられたものです。コミューンは、救貧行政などを担っていた多数の教区をルーツとして、救貧行政と初等教育を柱とする広範な仕事をすることを目的につくられました。その数年後、コミューンでは規模が小さいことから提供に無理のある保健医療サービスのために地域連合であるランスティングがつくられたのです。
この経緯から、今日でも政府部門の中で、保健医療サービスは、ランスティングがほぼ特化して行なっています。わが国で保健医療に、国・都道府県・市町村のいずれもがそれなりの責任を負っているのとは大きなちがいです。中央政府もコミューンも年金基金の管理組織も、それぞれの役割を重複せずに果たしています。
スウェーデンの政府を構成する4つの部門で第2に特徴的なことは、役割分担に応じて課税ベースを棲み分けていることです。例えば、地方政府(コミューンとランスティング)の課税ベースは、ほぼ個人所得税のみであり、個人所得税のほとんどが地方政府に入ります。部門間での所得の移転はきわめて少なくなっています。わが国の場合、基礎年金の国庫負担50%、協会けんぽでは16.4%、国民健康保険で国と地方の負担合わせて50%の移転が行われているのとは大変なちがいがあります。
スウェーデンの場合、政府を構成する部門毎に、役割に応じて税金や保険料の受け取りから支出まで、プロセスが部門内でほとんど完結しています。凝集度が高く連結度の低い、ソフトウェア工学の原則に適ったサブシステム分けができているということができます。
それと比較すると、わが国政府のサブシステム分けはでたらめと言っても過言ではなく、あたかもサブプライムローンに関する米国の金融システムと同じような状態になっています。破たんのリスクが高まっているのは当然のことであり、わが国の政府システムは、ソフトウェア工学の知見をもとに、抜本的に再構成することが喫緊の課題と思われます。
スウェーデンは、年金制度も、その優れたシステムが注目されています。スウェーデンの年金制度は、所得比例年金と、これを補完する保証年金から成り立ちます。
所得比例年金は、個人毎に所得の16%の年金保険料に毎年賃金上昇率相当の利子を加えたものを仮想的に積み立てて原資とし、これを平均余命で割って年間の給付額とします。所得比例年金が低額となる人も、必ず一定額以上になるよう、税を原資として給付されるのが保証年金です。
日本と同じ、現役世代が高齢者を扶養する賦課方式でありながら、所得比例を中心にした国民共通の年金制度が安定的に機能しているのは、スウェーデン社会が次のような重要な諸条件を満たしているからだと考えられています。
以上のことから、合理的と考えられる年金制度も、円滑・安定的に機能させるためには、背景となる、さまざまな社会システムのパフォーマンスが、一定水準以上に確保されていなければならないことが明らかです。
スウェーデンでは、さらに年金財政の持続性確保のため、平均余命の伸び、高齢化率の上昇、積立金の運用悪化などに応じて、政治家の思惑によらず、自動的に給付の抑制を行なう厳密なルールを設けています。ただしそのときも、保証年金のレベルは変えず、生活の質の保障を行なっています。
翁百合・西沢和彦・山田久・湯元健治著『北欧モデル 何が政策イノベーションを生み出すのか』(日本経済新聞出版社)を読むと、北欧社会を鏡にして、わが国社会が政府機能を中心に、いかに杜撰にシステムづくりをしているかがよく分かります。政治家、官僚、政治学者、経済学者、ジャーナリストの方々に、広く学んでベンチマークにしてもらいたいと考えますが、本来、システム的なソリューションは、情報システム関係者のコアコンピタンスであり、責務でもあります。多くの情報システム関係者が、積極的に分析を深め、強力に問題提起をしていくことが必要と思われます。
この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。
皆様からも、ご意見を頂ければ幸いです。