前回は、山本義隆著「磁力と重力の発見」を参考に、遠隔力 - 離れているものの間に働く力について考えました。今回も引き続き、遠隔力の「引力と斥力」について3つのケース、(1)「ものともの」、(2)「人ともの」、(3)「人と人」、それぞれの間に働く力について考えてみたいと思います。同著はタイトルのとおり物理的な力を対象としており、当然ながら人の心に働く力や行動は対象範囲外です。本連載では(1)を人に適用したらどうなるか、イメージを膨らませて(2)や(3)を自由な発想で考えてみたいと思います。
前回にも紹介しましたが、磁石は古代ギリシャ時代からよく知られていて、離れたところにあるものを引き付ける不思議な現象について、大きく「物活論と流出説」の2つの説明方式がありました。
物活論とは、人のみならず万物にも霊魂が宿っているとするタレスの説に基づくものです。磁石の中にある霊魂が鉄を引き寄せるという説明です。人は「肉体+霊魂」であり、自ら動くことができる運動の原動力は霊魂にあるという考えがベースになっています。
流出説とは、あらゆるものから目に見えない様々な種類の微粒子が流れ出しているとするエンペドクレスの説です。磁力は鉄から流れ出る微粒子が鎖のように連なって磁石に到達し、磁石がその鎖を感知し、自身の空洞に吸い込みながら引き寄せるというような考え方です。
「ものともの」の間に働く遠隔力には引力と斥力があります。磁石が鉄を引き寄せ、琥珀が籾殻を引き寄せる引力の説明は前回紹介しましたが「物活論と流出説」の2説があります。では斥力にはどんな説明があるのでしょう。
エンペドクレスは流出説を唱える一方、愛と憎しみが4元素の合成と分解の力であるとしました。愛が引力であり、憎しみが斥力にあたりそうです。
ところで、意外なことに磁石と磁石の間に働く力について初めて言及されたのはやや時代が下ったローマ時代です。プリニウス(A.D.23-79)の「博物誌」に磁石の記述があり、磁石の分類をしています。以下[1]から転載します。
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プリニウスにおいてもっとも注目すべきことは、磁石を数種類に分類しただけでなく、そのひとつの「エチオピア磁石」について「エチオピア磁石の目印は他の磁石をおのれのもとに引き寄せることである」とあるように、磁石どうしの間に引力が働くことをはじめて語ったことである。プリニウス自身がどれだけ自覚していたかは不明であるが、それまでの議論が磁石と鉄の間の引力にかぎられていたことを考えると、これは劃期的である。
磁石の示す斥力について言うならば、プリニウスの時代には、磁極についての正確な認識をともなわないままに、関心をひいていたと見られる。上の引用につづいてプリニウスは「またエチオピアからあまり離れていないところに、いまひとつの山があって、そこで産する鉱石は、反対にすべての鉄を退ける」と記している。([1]pp.115-116)
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磁石と鉄の間の斥力という不思議な話はまだあります。
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インダス河の近くに二つの山があって、そのひとつは鉄を引きつける性質があり、いまひとつは鉄を退ける性質がある。したがって人が釘を打った靴を履いていると、一方の山の上では一歩毎に足を地面から引き離すことができないし、いま一方の上では足を地面につけることができない。([1]p.116)
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「鉄を撥ね付ける磁石」の存在は1600年にギルバートによって否定される迄語り継がれたそうです。英国のギルバート(1544-1603)は「磁石論」をまとめ近代磁気学の父と呼ばれている人です。ただ、引力以外に斥力という力の存在は少なくともプリニウスの時代には知られていたということです。
この1600年頃ケプラー(1571-1630)が惑星の運動からケプラーの法則を発見し、ようやく重力の概念に一歩近づいてゆきます。磁力は簡単には手に入らない磁石と鉄の間に働く力として古くから知られていますが、身近な重力は、誰もが日々それを感じながら生活している筈ですが、天体観測から出てくるというのも何か不思議な話ですね。磁力の発見から重力の発見迄2000年も掛かっています。
次は「人ともの」の間に働く遠隔力 - 引力と斥力です。前回、市場のモデルとして、人が特定の商品に引きつけられる力を(1)を参考にして「霊魂説と流出説」で考えました。とりあえずは引力のみで斥力は少し置いておきます。
ものから流出しているものには様々な種類があり、人は五感を通してそれらを認識します。眼・耳・鼻は対象物が離れていても流出物を感じ取ることができます。舌・身体は対象物と接触しなければ感じとることができませんのでこちらは遠隔力ではありません。
五感で一番強力なものは眼です。ちなみにアリストテレス「形而上学」は次の1節で始まります。
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すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。その証拠としては感覚への愛好があげられる。というのは、感覚は、その効用をぬきにしても、すでに感覚することそれ自らのゆえにさえ愛好されるものだからである。しかし、ことにそのうちでも最も愛好されるのは、眼によるそれである。けだし我々は、ただたんに行為しようとしてだけでなく全くなにごとを行為しようともしていない場合にも、見ることを、言わば他のすべての感覚にまさって選び好むものである。その理由は、この見ることが、他のいずれの感覚よりも最もよく我々に物事を認知させ、その種々の差別相を明らかにしてくれるからである。[2]
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前回、市場のモデルで消費者の行動パターンを「霊魂説と流出説」で考えました。さらに行動パターンを、何かが必要になって具体的商品の選択を始める「パターンA」と、特に購入の必要性もないものをたまたま目について衝動買いしてしまう「パターンB」に分類しました。
商品から発せられる様々な流出物は人により異なる影響力を与えます。パターンAなら車を欲しいと考えている人には車の情報に反応します。町を歩いていても、TVや新聞を見ていても、新車のニュースに反応します。PCの購入を検討している人はそちらの情報に反応します。本を探している人、あるいは今日のランチは何にしようかと考えている人...それぞれ自分の興味のある情報に反応しますが、興味のない情報には反応しません。
アナログ式ラジオのダイアルを回しているイメージです。人はアンテナを持っています。様々な電波が空間を飛び交っていますが、ダイアルでチューニングした特定の周波数の信号しか受信できません。人はダイアルの針を自由意志で回すことができるので、人により伝わる情報が取捨選択されます。(図1 能動 - 受動モデル)
カエサル語録のひとつを思い出します。
『人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。
多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない。』
人と無生物の違いはダイアルを自由に回せるかどうかです。磁石が持っているアンテナは鉄の流出物しか受け取ることができない。次回は、(3)「人と人」の間に働く力を考えてみたいと思います。
【参考書籍】
[1]山本義隆「磁力と重力の発見」みすず書房、2003
[2]アリストテレス、【訳】出隆「形而上学」岩波書店、1959
ODL ObjectDesignLaboratory,Inc. Akio Kawai