尖閣と竹島の問題に関連して、哲学者と社会学者がナショナリズムについて討論していました。
哲学者は、今まで米国の庇護のもと、日本は国家の概念や領土の問題をきちんと考えずに済んでいた、それが米国の力が弱まりパワーバランスが変化したため、日本は本来なら当然もっているべき近代的な国家観に立たざるを得なくなったと述べていました。
一方、社会学者の発言は、次のようなものでした。「国家というものが、日本という空間の中の箱物のようなものと考えると、ことをまちがえるのではないか。社会というものがあって国家と呼ばれるものがあり、国家をよく見ると、法にからむコミュニケーションの空間、あるいは行政に関わるものがあったり、いろんな形で分離している。・・・」
発言の内容は、基礎情報学にもとり入れられたルーマンの社会システム理論が背景になっていると感じられました。社会学者の明確な説明とあいまって、ルーマンの理論が緊迫した問題の幅広い観点からの分析に威力を発揮することにあらためて驚嘆しました。
社会学者は、東大大学院情報学環・准教授の北田暁大氏です。北田氏の発言を、10月26日放映のBSフジLIVEプライムニュースから以下に引用させて頂きます(一部省略)。
「社会の単位で考えていけば、例えば「学問」で考えると、政府は学者にお金を出す、研究行政に関わることはできるが、正しい科学的知見を出すことは、国家はできない。教育行政に口を出すことはできるが、国家そのものが教育をするわけではない。そのように私たちの社会は、いろんな領域に分かれているので、その中に国家というものに関わる領域もある。もちろん、それは非常に重要なのだけれど、それがあまりにも独り歩きして地理的な境界線が絶対視されてしまうと、いろんなことを考える上で問題が起こってくるのではないか。これは境界線を軽視するということではない。」
「例えば、経済のコミュニケーションについて考えると、日本国内に閉じていない。学問や文化もそうである。そういうふうな人々のつながりが事実上ある。そのときに、あらためて地理的境界は何なのだろうということをもう少し考え直す必要がある。グローバリゼーションと呼ばれているような状況の中での地理的境界と、ネーションステートが乱立していくような近代初頭の領域の考え方は、違ってこざるを得ない。ここらへんを考えないと、伝統的近代的な領域という概念でやっていくと、いろんなことが見えなくなってしまうのではないかという不安がある。これは、尖閣・竹島に関して軽視しろという話とは全然違う。」
「現実的に経済の動き方にしても、人の交流・交通にしても、近代初頭とは全然状況が違う。だから境界線を相対化しようという話をしているのではなくて、意味が変わり機能も変わっているはずだから、かちっと境界線で区切り、中が1つの社会だと考えるのではなくて、社会そのものがいろんな領域に広がっている、国境の外にもつながっている、その中で偶々国境の中にいる人をどう位置づけるかということだと思う。社会の一員として人々を位置づけるケースと、国家・国民として位置づける場合の2パターンで、いろんなものの見え方が変わってくるだろうから、そこを混同せずにやっていくべきではないのか。」
「提言したいのは「社会の国家」ということである。これには2つの意味がある。1つは、国家というのは、社会の営みの中で、こういうものだとしてわれわれ自身がつくり上げている部分があると思う。そういったことを踏まえて、社会という領域と国家という領域を問い続ける必要がある。もう1つは、実際われわれは普段街を歩いている中でも、社会の一員として、民族や国籍が違っても、その人たちとコミュニケートしたり営業活動をしたり、いろんな振る舞いをする場面と、国民として振る舞わなければいけない場面がある。これは両方とも混在している。考えてみると、国民として振る舞うということがよく分からなくなってきていると思う。社会の一員として行為をしているときの方がはるかに多い。そちらの方が大切だとは言わないけれど、その意味でも両者の関係を問い返す必要があるだろうと思う。」
北田氏の発言からも伺われるとおり、ルーマンの社会理論の特徴としてシステム分化の考え方が挙げられます。ゲオルク・クニール氏とアルミン・ナセヒ氏共著の『ルーマン 社会システム理論』の中に、システム分化が合理的なプロセスとして進行する次のような例が記されています。
今、一群の人々が、ある課題を解決しなければならないとします。このとき、問題解決に役立つさまざまな考慮や活動が必要になります。この集団は、高度の複雑性に関わらざるを得ず、そのため例えば、時間をかけて複雑性を処理していくことが考えられますが、限られた時間の中で十分な解決ができないかもしれません。
しかし、この集団が、多様な問題状況に応じて自分の内部を分化する道を選び、下位集団がそのときどきに問題全体の解決に向けて応分の寄与をするようにしていくならば、複雑性の扱い方は決定的に変わってきます。この場合、個々の下位集団すなわち個々の部分システムは、比較的低いレベルの複雑性を処理すれば足りることになります。しかし問題が解決に向かったのもつかの間、それぞれの部分問題は、すぐにまた新たな複雑性をもってくるので、再びシステム分化が必要になり、これが繰り返されることになります。
基礎情報学でも説明されているように、ルーマンは、第1次的な社会分化の形態を、進化の3つの段階に区分けしています。
最も単純な分化の原理が、環節的分化です。これは原始社会のように単純な社会の分け方で、その原理は、1つの社会を家族、種族、村落など、同等の部分に分けるものです。どの部分システムも、ほとんど類似の活動をしています。
分化の第2段階は、成層的分化です。農耕牧畜の発展にともなう、より複雑な問題に対応するため、聖職者、貴族、農民など身分階級制度が成立しました。人々が、自らが所属する身分階級の中でアイデンティティを保ちその使命に安んじる上で、宗教と道徳が大きな役割を果たしました。
16世紀、宗教改革と宗教戦争を契機に、宗教的な行為のパターンと政治的な行為のパターンが隔たりをもつようになり、政治が主体的・自律的に機能するようになります。さらに教育が成層的な秩序モデルから切り離され、科学も分化、家族の私的領域が独立し、法が政治から分離、経済が宗教と道徳から解放されるなど、分化の第3段階として、近代の特徴である社会の機能的分化が進んでいきました。現代は、課題の複雑さがさらに著しく増大したため、機能的分化も極端に進んだ社会になっています。
それでは、このような分化の形態に制約条件はないのでしょうか。この点に関しては、米国で発生したサブプライム問題が、重要な示唆を与えてくれます。
住宅に対する30年にも及ぶローン機能は、もともと経済システムから分化して成立した銀行等の金融機関により担われていたものです。資金効率を高め利益を拡大するため、このローン機能が、営業、融資、証券化、保険、格付け、資金提供、資金提供者の自己資本比率維持のためのペーパーカンパニーなど7つもの機能に分化され、それぞれ別の企業組織で受け持たれることになりました。このため、営業現場で生じている、ローン契約のリスクが、他の組織には見えにくくなり、その上各組織が短期の利益志向で機会主義的に行動していたため、不動産相場の反転とともに、投じられていた莫大な資金が回収不能に陥り、融資、証券化、保険、資金提供などを担っていた多くの企業が破たんの危機に瀕しました。
この問題をシステム分化の観点で見るとき、まず前提条件として、経済システムから金融さらに住宅ローン機能が分化したとき、当然のことですが、この機能を1国内でさえ1社で担うのは管理能力の限界を超え、適切ではありません。したがって、1国内でさえ住宅ローンを取り扱う組織は多数並立することになります。すなわち環節的分化が、機能の複雑さは過去と比較になりませんが、基本構造としては現代社会においても、分野を限って存続しています。また各企業組織は、閉構造をなしていますが、内部的には上位、中位、下位等の機能に分かれていて、さらに経営者層、労働者層などは、社会的にもまとまってコミュニケーションを図っているのが一般的です。形態は大きく異なりますが、成層的分化も基本的には、やはり今日まで継承されています。
その上でサブプライム問題を見るとき、閉構造としての企業システムの分化は、「凝集度を高く、連結度を低く」というソフトウェア工学の大原則に従わなければならないことが分かります。住宅ローンという1つのまとまった機能を7つにも分割してしまったこと、それにもかかわらず、7つの組織が、同じローン債権を受け渡すことによりタイトに連結されていたことが、問題の最大の要因と考えられるからです。
ルーマンのシステム分化の考え方は、対立(矛盾)した要素をもつ重要な問題の解決に適用して、大きな効果を発揮することが考えられます。
例えば、前世紀以来、社会システムに関して最も大きなテーマは、市場主義と社会主義のどちらが優れているのかという選択の問題でした。問題の構造は、すでに明らかです。市場主義も社会主義も理論的にはいずれも正しく、いずれも完全に機能し最適状態をつくることが証明されています。しかしいずれも、前提となる情報システムが適切に機能しないため、破たんをきたす可能性をもっています。実際に起きたのがソ連や東欧の体制崩壊であり、また上記したようなサブプライム問題とそれにともなうリーマンショック、欧州の経済危機です。サブプライム問題が顕在化してから5年が経過しましたが、世界経済はいまだに回復の兆しを見せていません。
市場主義と社会主義は、互いに対立(矛盾)した要素をもった考え方ですが、それぞれの優れた点が、それぞれの欠点をカバーする関係になっています。したがって、両者を両立させてやれば問題は解決します。
対立(矛盾)した要素をもった問題の解決法として、旧ソ連で開発されたTRIZが知られています。TRIZでは、対立や矛盾の除去方法として、次の3つを挙げています。
(1) 反対の特性を時間で分離する。
(2) 反対の特性を空間で分離する。
(3) 反対の特性をシステムとその構成要素で分離する。
ここで時間と空間は分かりやすいのですが、システムとその構成要素で分離するにはどうすればよいのでしょうか。それは、はたして可能なのでしょうか。
ルーマンのシステム分化の考え方で、それは可能になります。ルーマンによると、システム分化の前も後も。社会システムは、オートポイエティック・システムです。したがって、システム機能としては閉鎖系であり、自らの規準にもとづいて作動します。
これにより、1つの社会で市場主義と社会主義を両立させるには、各部分システム毎に例えば経済システムは市場主義で、教育、医療、福祉等のシステムは社会主義の考え方で動かせばよいことが分かります。各部分システムは、他の部分システムを環境としてもちながらも、機能的には独立して作動するので、共存が可能になります。
事例としてスウェーデンの取り組みが挙げられます。同国では、社会民主党が20世紀初頭から今日まで比較第1党の地位を保ち、長期にわたって政権も担って、市場主義経済を前提にしながら福祉国家づくりを進めてきました。現在、国際競争力、国民1人当たりGDP、貧困率、債務残高対GDP、幸福度など国際的に比較される重要な指標のほとんどで、わが国をはるかに上回る成果を挙げているのは、よく知られているところです。
わが国の場合、バブル期の1988年に比し、リーマンショック直後の2009年でさえ、国民1人当たりの実質GDPは23%増えています。それにもかかわらず、この間貧困率は、13.2%から16.0%に増加しています。社会システムの機能構成に、大きな歪みの存在していることは否定できません。
ソリューションのために社会システムが分化していくことは合理的ですが、今日日本の社会は、あまりにも多岐にわたるオートポイエティック・システムに分化してしまいました。私たちは誰もが、その内のごく一部のシステムにしか関与できていません。結果として1人1人の視野が、自覚のないままに、すでに著しく狭くなっていることが懸念されます。(国会に議席をもつ)政党が17も乱立したことなど、その象徴です。
分化したシステムを再構築して、国際的にもベンチマークとなるような社会理論を組み立て実践していくことが、今必要と思われます。
参照文献
ゲオルク・クニール、アルミン・ナセヒ著、舘野受男、池田貞夫、野崎和義訳
『ルーマン 社会システム理論』新泉社(2007)
この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。
皆様からも、ご意見を頂ければ幸いです。