3月の初め、東日本大震災の1年目を前に、南三陸から宮古まで津波の被災地を巡りました。釜石で案内して頂いたのは、死者・行方不明者583人という壊滅的な被害を受けた鵜住居(うのすまい)地区です(釜石市全体では1114人)。流失したJR山田線の鵜住居駅舎跡に立つと、目の前に、鉄筋コンクリート2階建ての防災センターが見えます。震災の直前、3月3日の避難訓練で便宜的に避難場所として用いられたこともあって、大地震の後、100人以上(一説では約200人)の住民が逃げ込み、そこに大津波が押し寄せたため、生存が確認されたのは、わずか25人という惨禍の起きた場所です。
同じ場所から向きを変え東の方を見ると、生徒・児童570人が声をかけ合い、お年寄りや保育園児を助けながら次々と高所に移動して、全員無事に生き延び、「釜石の奇跡」を代表する事例となった釜石東中学校・鵜住居小学校と、その避難先の丘陵地帯を望むことができます。一方の防災センターには、リュックを背負った幼児の遺体が残されていたとのことで、あまりにも対照的な2つの状況には感慨を禁じ得ません。
マクメナミンとパルマーの主張を参考にすると、情報システムの本質は、外界の事象にいかに適切に対応するかということにあります。具体的には、事象にともなう情報のインプットを受け、その意味を判断し、的確にアクションをとることが基本的なプロセスになります。
東日本大震災においては、大地震と大津波という、多くの人にとって想像を絶するような事象が発生しました。地震について最初に重要な情報は、今日では、緊急地震速報です。全国4千か所以上に設けられた地震計が初期微動を検知、直ちに気象庁のコンピュータが各地点の地震波到達時刻と予想震度を計算し、これを警報とともに知らせます。
このシステムが最も効果を発揮したのは、東北新幹線に対してだと言われています。これは、気象庁の地震波検知システムと連動して、運行中の列車に非常ブレーキをかけるもので、震源まで最も近かった列車の場合でも、非常ブレーキがかかってから最初の揺れが来るまでに9〜12秒、最大の揺れが来るまでに1分10秒の余裕時間をもつことができたとのことです。(坂井修一『ITが守る、ITを守る』(NHKブックス))
東北新幹線のコンピュータシステムは的確に作動しましたが、人間系の場合は、状況の確認と判断がどのようになされたかによって、対応が分かれます。
地震発生時、東京の九段会館では約6百人が出席して専門学校の卒業式が行われていました。携帯電話のマナーモードでも着信する緊急地震速報のエリアメールは、会場に届いていたと推測されますが、それに対するアクションについては定かではありません。新聞報道によると地震が起きたとき、職員が「危険なので動かないように」と指示を出し、その数10秒後に壇上や1階前列部分の天井が崩落、講師2人が亡くなり約30人が重軽傷を負うという惨事となりました。
当時の状況について、亡くなった講師の隣席に座っていた観光コンサルタントで講師の石田宜久氏が、手記をブログで公表されています。以下に、その一部を引用させて頂きます。
外国人の先生が、いち早く席を離れたのが印象に残ります。石田氏も一度外に出ますが、周囲の安全を確認後直ちに現場に引き返し、学生に協力を求めて救護活動に尽力されました。
しかし、多くの来場者にとって、地震が起きたとき九段会館のどこに移動すれば安全なのか瞬時には判断できないし、大きな建物に対する信頼もあり、さらに職員から動かないように指示があれば、その場にとどまる選択がなされたことは十分考えられます。事故の本質的な原因が、九段会館の建物に耐震補強がなされていなかったことにあるのは、まちがいありません。
津波については、地震動自体が最初の情報になります。しかし、震度2〜3だった明治三陸大津波で最大遡上高38.2mを記録し、マグニチュード9.0だった今回の震災で岩手県における津波研究の第一人者・山下文男氏が、海岸から約2キロ離れた建物の4階にいたことを根拠に、「ここなら大丈夫」と判断して動かず、結果として大津波を受け辛うじて救出されたことを考えると、津波常襲地帯の三陸地方においてさえ、今まで地震動そのものは必ずしも有効な津波警告情報になっていません。
気象庁からは、地震発生の3分後に津波警報、その1分後に津波高さの予想が出されました。しかし、予想値が岩手・福島で3m、宮城で6mというように、実際より過小だったため、その24分後に岩手・福島で6m、宮城で10m以上、さらに17分後に3県とも10m以上に修正されたものの、より安全な場所への避難が間に合わず、被害拡大の原因となった可能性が指摘されています。
津波予想は、地震の震源情報と規模から算出されますが、東日本大震災の場合、断層が約3分間動き、揺れが約5分間続いたのに対して、気象庁で3分以内に警報を出そうとして途中段階のデータを用いたため、実際の30分の1以下の規模で予測をしてしまい、このような誤差が出たのです。対策として、特にマグニチュード8超では、具体的高さを発表せず、「高い」「巨大」という表現でその高さを示すことになりました。(坂井修一『ITが守る、ITを守る』(NHKブックス))
注目されていた津波の第一波の観測データが、大船渡と釜石で20cm、石巻で50cmと、きわめて小さかったことも、報道を聴いていた人たちに、「地震は大きかったが、津波への影響は意外に少なかった」という印象を与えた可能性があります。
群馬大学大学院教授の片田敏孝氏は、大規模な災害を想定した防潮堤を整備してきたことも、一定の成果を上げると同時に、住民が、津波が来ても大丈夫と考えてしまう状況をつくったと指摘されています。行政が提示しているハザードマップも、津波についての警告を与えるとともに、浸水想定区域をはずれた人たちに、ここは大丈夫と思わせてしまった恐れがあります。
片田氏の示された分布図によると、釜石市鵜住居(うのすまい)地区ではハザードマップに記された浸水想定区域の外側に自宅のある人が、多く犠牲になりました。
多数の死者・行方不明者を出した同地区の防災センターも、ハザードマップの浸水想定区域の外にありました。防災センターは、津波が引いた後で避難生活を送る施設として、集落の中に前年建設されたものですが、本来の1次避難場所が遠いため、前年と大震災直前の避難訓練で参加率を高めるため、便宜的に1次避難場所として用いられていました。また前年のチリ地震津波で、34名の住民が、1次避難場所として逃げ込んできたときも黙認されていました。このようにして3月11日、幼児を含む、一説では約200人の住民が逃げ込み、その多くが犠牲となったのです。
一方、同じ釜石市で、大震災発生時学校管理下にあった約3千人の小中学生全員が助かるという奇跡が起きました。「釜石の奇跡」の代表的事例とされる鵜住居地区の釜石東中学校・鵜住居小学校の場合、避難は次のように行なわれました。
地震発生時、中学校の教頭先生は校内放送をしようとしましたが、停電のためできず、ハンドマイクで呼びかけようとしたところ、すでに校庭にサッカー部の生徒たちが集まり、「津波が来るぞ、逃げろ!」と校舎に向かって叫びながら、1次避難場所のグループホームに向かって避難を始めていました。他の中学生たちも、あとに続きます。
鵜住居小学校では、ハザードマップの浸水想定区域の外にあり(中学校も同じ)、また耐震補強工事が終わったばかりだったので、校舎は安全と判断、児童を3階に避難させました。ところが「津波が来るぞ、逃げろ!」と中学生たちが小学校に向かって叫びながら、一目散に走っていく姿が見えます。両校は日頃合同で訓練をしていて、小学生は中学生の誘導で避難する教育を受けていました。そこで、小学校ではすぐに校外への避難に切り替え、一斉に校舎の階段を駆け下り、中学生と合流して1次避難場所に向かいました。
1次避難場所のグループホームに着いたところ、建物の脇の崖が崩れていました。「先生、ここも危険です」という中学生の進言に、教師はすぐに高台の福祉施設に避難が可能なことを確認、中学生は小学生の手を引き、グループホームの職員・入所者、近隣の住民たちも一緒に2次避難場所の福祉施設に避難を開始しました。子どもたちが大挙避難する姿を見て、近隣の大人や高齢者も、つられて避難したのです。
避難の途中、鵜住居保育園の保育士が園児たちを背負ったり、大きな乳母車にたくさんの園児を乗せて坂を上っています。中学生たちは、園児を抱いたり乳母車を押したり、また高齢者の車いすを押すなどして、避難を助けました。
その間津波は、中学校、小学校、1次避難所のグループホームをのみ込み、全員が2次避難場所の福祉施設に着いた30秒後に、その目前で止まりました。最後尾の子どもたちは、津波に追いつかれましたが、間一髪、山を駆け上がり難を逃れました。
最終的に子どもたちは、3次避難場所として、さらに高台の石材店まで避難しました。
「釜石の奇跡」を起こしたのは、群馬大学大学院教授の片田敏孝氏です。5月10日、都内で行われた片田氏の講演を聴きました。
片田氏は、2004年から釜石市で、最初は一般の人を対象に、津波防災教育を開始されました。しかし、何回講演を繰り返しても、参加するのはもともと意識の高い同じ人ばかりです。これでは、市民全体への広がりは期待できません。そこで、学校教育を通じて子どもたちに防災教育をすることにしました。
小学生に10年間防災教育を行なうと、高学年の子供は大人になります。さらに10年間続けると、彼らは親になります。20年がかりの防災教育で、高い防災意識をもった市民をつくり、災害に強い地域の文化を形成するという遠大な構想を立てられました。
子どもたちへの防災教育で、片田氏が方針とされたのは「姿勢の防災教育」ということです。これと対比されるのは、第1には、津波は怖いという恐怖を喚起する「脅しの防災教育」です。これは一時的に効果があっても、長続きしません。また、釜石が嫌いになる恐れがあります。
第2は「知識の防災教育」です。これは、過去の災害情報から災害のイメージを形成するもので、典型的にはハザードマップです。しかし知識の教育では、想定の固定化をまねく可能性があります。次の災害は、過去の事例のとおりに起きるとは限らないのです。
「姿勢の防災教育」では、最初に津波の話はしません。まず釜石にはすばらしい海の恵みがあること、この恵みを守ることが大事だと話します。しかし恵みを享受することは、確率は低いが災いに近づくことであり、そのとき適切に対処する必要がある、それが釜石で生きる作法であり、その作法を学ぶために防災の勉強をしようと呼びかけます。このようにして、すばらしい釜石のまちの防災について、主体的に取り組む姿勢を育んでいきました。
この教育で片田氏が強調されたのが、「津波から命を守る避難3原則」です。
その第1は、「想定にとらわれるな」ということです。中学生たちは、ハザードマップの浸水想定区域の外に学校があったにもかかわらず、いち早く第1の避難場所に向かって走り始めました。小学校でも、想定では安全な校舎の3階にすでに避難していたにもかかわらず、中学生の呼びかけを受け、直ちに同調して校外に避難しました。
第2は、「その状況下において、最善を尽くす」ことです。中学生たちは、1次避難場所に到着しても、少しでも危険の兆候があると、教師に進言して第2の避難場所に、さらに第3の避難場所に迅速に移動しました。
第3は、「率先垂範者たれ」ということです。いざというときは、まず自分が率先して避難します。その姿を見て、他の人も避難するようになり、結果的に多くの人の命を救うことが可能になります。釜石東中学校のサッカー部の生徒たちは、「津波が来るぞ、逃げろ!」と叫びながら、まず自らが走り出すことにより、他の中学生たち、小学校の子どもたち、さらには近隣の大人や高齢者たちを巻き込み、助けながら、次々と高所の避難場所に移り、一緒に行動した全員の命が救われました。
教育は、人間性と組織の文化の中に、ある目的と働きをもった情報システムを構築するものです。片田氏の卓越した知見にもとづき、災害対応のソリューションとして開発され、防災教育を通じて子どもたちの中に構築された情報システムは、的確にその機能を発揮して「釜石の奇跡」をもたらしました。
福島第1原発の過酷事故で、1号機→3号機→2号機とメルトダウン・爆発が続き、並行連鎖的に事故が拡大した起点は、すでに昨年5月、同志社大学・山口栄一教授が指摘されていた「最後の砦」の1つ、1号機の非常用復水器の隔離弁が「閉」か、またはそれに近い状態にあったことに、現場も吉田所長も気が付いていなかったことにありました。隔離弁は、全電源を喪失するとフェイルセーフ機能によって自動的に全閉かそれに近い状態になるのに、そのことを認識していなかったのです。
政府事故調の中間報告によると、訓練、検査も含めて非常用復水器の作動を長年にわたって経験した者は発電所内にはおらず、わずかにかつて作動したときの経験談が運転員間で口伝されるのみであったということです。また、非常用復水器の機能、運転操作に関する教育訓練も一応は実施されていたとのことですが、効果的なものではなかったと考えられます。
政府の事故調が、「電源が失われて必要な操作ができなくなると、原子炉格納容器の隔離機能が働いて隔離弁が閉じるのか、又は開いたままなのか」と尋ねたところ、東電関係者の多くが一様に「隔離弁は閉じると思う」と述べました。つまり、非常用復水器などの特殊性以前に、「閉じ込める」機能の基本的知識をもち合わせていれば、フェイルセーフ機能などの詳細を知らなくても、電源喪失時に非常用復水器の隔離弁が閉じている可能性があることは容易に認識できると考えられるのです。
しかし発電所対策本部と当直は、全電源喪失(15時37分)の当初からそのことに気づいていなかっただけでなく、18時18分頃、表示灯の一部が回復し、当直が隔離弁が閉であることを認識、あわせてフェイルセーフ機能が働いたことを懸念して発電所対策本部に連絡をとったにもかかわらず、コミュニケーションに齟齬があり、その懸念が発電所対策本部に正しく伝わることはありませんでした。
18時18分頃に当直は、隔離弁の開操作、18時25分に閉操作を行ないました。このうち、開操作の情報は発電所対策本部に伝えられましたが、本部では、動いているはずの非常用復水器でなぜ開操作が行われたのか、問題意識をもつことはありませんでした。18時25分頃の閉操作情報は、発電所対策本部に伝わっていません。そのため本部では、その後もずっと非常用復水器は作動中と認識していました。
21時30分頃、当直は、隔離弁の開操作を行ない、それを発電所対策本部に報告しました。しかし、このときも、吉田所長をはじめ発電所対策本部では、「作動中」の非常用復水器でなぜ開操作が行われるのか、問題意識をもつことはなく、当直には何の問いかけもしませんでした。全電源喪失後6時間が経過し、1号機はすでに危機的状態に陥っていました。
情報対応の度重なる不手際について、吉田所長は、「これまで考えたことのなかった事態に遭遇し、次から次に入ってくる情報に追われ、それまで順次入ってきた情報の中から、関連する重要情報を総合的に判断する余裕がなくなっていた」と証言しています。
政府事故調の中間報告では、「結局、極めて過酷な自然災害によって同時多発的に複数号機で全電源が喪失するような事態を想定し、これに対処する上で必要な訓練、教育が十分なされていなかったと言うほかない」、このような結果は「かかる訓練、教育が極めて重要であることを示していると考える」と結論づけています。
大津波襲来の可能性が何年も前から指摘されているにもかかわらず、原発のような重要設備で、教育、訓練のレベルが、釜石の子どもたちに対する防災教育と比べて、格段に低い状態であったことに驚かざるを得ません。
危機対応のソリューションとして、教育を通じて優れた人間系の情報システムを構築することは、釜石の市民や原子力発電所にとどまらず、広くわが国社会の最も戦略的に重要な課題であると考えられます。
参考資料
片田敏孝:子どもたちに「生き抜く力」を,フレーベル館(2012)
東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会中間報告(2011)
この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。
皆様からも、ご意見を頂ければ幸いです。