2010年にドイツ、カナダ、イギリスの3か国共同でドラマ化され、日本では昨年、NHKで放送されたので、ご覧になった方もいらっしゃるかと思いますが、遅ればせながら、最近、ケン・フォレット原作の『大聖堂』にはまっています。日本語訳で文庫3冊1800ページあり、ペーパーバックは1冊ですが1000ページの分厚い本です。多読好きの英語学習者の間では、昨年のテレビドラマ放送時、ちょっとしたブームになっていました。
物語は、12世紀のイングランドにあるキングズブリッジという架空の町を舞台にしています。時は、西暦1100年から1170年、ホワイトシップ号の遭難から、カンタベリー大司教の暗殺までの約70年間になります。ホワイトシップ号には、フランスからイングランドへ向かう当時の皇太子が乗っていたのですが、この船が沈み、後継ぎがいなくなり、かつ王が亡くなることによって、イングランドにおいて内戦が始まります。この王のいないアナーキーな状況に加えて、天候不順により作物の不作が続きます。王位を巡る権力争いの中、民は飢えたまま放置されます。この厳しい時代に、キングズブリッジの修道院の院長が、大聖堂を打ち立てようと決意します。そして、いつの日か自分の手で大聖堂を建設したいと、仕事を求めて各地を放浪していた建築家が出会うことで、大聖堂建設という壮大な夢が少しずつ動き始めます。
この物語の凄さは、この大聖堂建設という偉業に対して、建設に必要な膨大な資金と人材を集め、維持するため、悪戦苦闘する修道院院長の姿を見事に描いているところにあります。そして、その名誉や成果を阻もうとする司教や王や諸侯などによる絶え間ない様々な妨害をはねのけ続ける姿です。
そもそもヨーロッパの都市に行くと必ずといってよいほど目にする大聖堂とはどういうものでしょうか。
『司教典礼』によると、
≪大聖堂とは、司教の座が置かれた教会のことである。
司教座は、教会に委ねられた司牧者としての教導権および権力の象徴であり、
また民の牧者である司教が告げる信仰のもとに集う信者たちの統合の象徴でもある≫とあります。
12世紀の後半から13世紀全般にわたり、大聖堂の建設ラッシュがあり、1050年から1350年にいたる300年間に、フランスでは80の大聖堂、500の大教会堂、数万の教区教会堂が建てられました。
この背景として、まず都市の急速な発展がありました。貨幣経済が進展し、手工業や商業の発達など、経済活動の活発化に伴い、都市人口がそれまでに比べ3倍余り増加します。そこで、彼らを収容できる大聖堂と、無数の教会堂が必要となったといいます。
アミアンの大聖堂は、7700平方メートルの床面積をもち、当時の約1万人の住民すべてを収容できました。また、アミアンより少し小さいシャルトル大聖堂も、当時の住民、6000人をすべて収容することができました。現代の都市において、住民すべてを収納する建物など存在しないことと比べると、いかに巨大建築物であったか、想像できます。
街の中央に高くそびえる大聖堂ですが、当時の大聖堂の高さ競争は圧巻です。
1150年代のサンリスやノワヨンの大聖堂は、18メートルと22メートル、
サンス大聖堂の高さは、24メートル、
1160年代のランは、26メートル、
すぐ後に建てられたパリは、35メートル、
12世紀の終わりには、シャルトルの37メートル。
その後、
ランスが、38メートル、
アミアンが、42メートル、
ボーヴェが、48メートルに達します。しかし、このボーヴェの大聖堂は二度にわたって崩落したため、ゴシック式の高さの限界にもなりました。
物語が取り上げた12世紀の大聖堂には、ロマネスク式からゴシック式への転換期にあたりました。小説の中でも、ロマネスク式の巨大な石造りの天井が崩落する大惨事を契機に、建築方式が転換する様子もしっかり描かれています。また、この高さ競争の最中、古い大聖堂がしばしば火災によって都合良く焼け落ち、新大聖堂の建設計画が企画されるということもありました。
馬杉宗夫『聖堂のコスモロジー』によると、ゴシック式の特徴をこう表しています。
≪ゴシック建築は、何よりも光りと高さを求めて発展していった。
光への願望と高さへの志向性。
これこそが、ゴシック建築が求めていたものである。≫
これを実現するため、3つの技法が考案されたといいます。
1つ目は、高さを求めるために、ロマネスク時代の半円アーチを、尖頭アーチに変えたこと。
2つ目は、ロマネスク時代に用いられた交差ヴォールト(vault:アーチ型天井)の力学的弱点を、リブ(肋骨)で補強するリブ・ヴォールトにより、軽く天井を支えることを可能にしたこと。
3つ目は、アーチの出発点に生じる横圧力を支えるため、飛梁(フライング・バットレス)と呼ばれる外部から蜘蛛の脚を空中に架けたことです。
この尖頭アーチ、リブ・ヴォールト、飛梁(フライング・バットレス)により、高い天井構造を築き、かつ壁面を大きく窓に開放することを可能にしました。
巨大な中空構造体に対する強度設計の理論や計算方法などが十分になかった時代において、当時の建築家が取りえたのは、経験とセンスに基づく試行錯誤であり、その頂点が、ボーヴェの崩落であったのだと思います。
ところで、大聖堂は何百人という人の手により、50年から100年の歳月を費やして建設されるというイメージがあります。
大聖堂建設という大プロジェクトの、プロマネにあたる棟梁(マスター)は何代にもわたり、また、建築の途中から参画して完成を見ずに亡くなる技術者も多数いたはずです。
大聖堂の建設工期を調べてみると、最長記録は、ケルン大聖堂です。1248年に工事開始し、1880年終了。実に、632年間かかっています。でも、実際には、1560年から1842年まで中断していたので、実質的には350年間でした。巨大大聖堂の一つであったシャルトルが、27年間で建てられたように、多くの大聖堂は、100年間未満で建てられています。
工期を左右したのは、雇用できる職人の数、すなわち建設資金によりました。
石工、石切工、大工、大理石職人、大理石磨き職人、鍛冶職人、ガラス職人、屋根職人などの職人に加え、人足などの単純労働者を加えても、全体で、400〜500名で、40年〜70年かかったといいます。
そのため、コンスタンティノポリスのハギア・ソフィア大聖堂のように、1万人の職人と労働者を2交代で競争させて、両側から建設させた結果、わずか6年で建設された例もあります。
ところで、プロマネが交代する超長期間のプロジェクトを成功させる秘訣はどこにあったのでしょうか?
大聖堂の都市を支配する王様だったのでしょうか。残念ながら、自分の居城の充実に熱心な王からの献金は、わずかな額にすぎませんでした。大聖堂建設計画とともに、資金調達を行ったのは、司教の役割だったといわれています。ただし、その事業運営を長期にわたって行ったのは司教自身ではなく、「教会建設財団委員会」であり、法人格をもち、寄付や遺贈を受け取り、不動産や金融資産を所有することが許されていました。ランスでは、60年間に4人の棟梁が現場を指揮しましたが、様式上の統一性は完璧に保たれました。それを可能にしたのは、「教会建設財団委員会」でした。
中世の建築家が現代の建築家と大きく異なるのは、中世の建築家は何よりもまず石工としての修業を積み、その棟梁としての豊富な経験を有していたことにあります。そのため、建築家(アーキテクト)という言葉は使われず、マスター(棟梁)と呼ばれました。
しかしながら、10世紀末から11世紀初頭の時期、巨大大聖堂を建てるという建築主の期待に添える専門家はいなかったといいます。
専門知識が一つに限られた職人には、巨大大聖堂建設という遠大な計画を実現することができないため、修道士や司教、修道院長など建築主自らが、雇い入れる職人たちを指導する役目を果たすことになりました。修道士たちは、古代文化を知悉し、歴史的建造物に造詣の深い知識人でもあったため、彼らの知見は、大聖堂の構想に活かされたといいます。
12世紀になり、建築家という職業が形成されてからは、修道士たちは、直接建築に携わる仕事は建築家に任せ、現場の管理に専念するようになります。
この現場の管理こそ、今日のプロジェクト管理に相当するものであった、と思われます。
フェルナン・ブイヨンの小説『野の石』に、12世紀の建築家の心境を描いたシーンがあります。
≪私は生涯、修道士というよりは石工、キリスト教徒というよりは建築家であった。
それは私の落ち度なのだが、修道会が私にそう仕向けたともいえる。≫
各地の大聖堂や修道院建設の求めに応じて、さまざまな建物の建築に携わります。
≪建築家とか施工者と言う時、それは単なる名称ではなく、そこには確固とした絶対的
な役割がある。
形態、大きさ、重さ、耐久力、圧力、尖塔、バランス、動き、線、経費や負担金、
湿度、乾燥、暑さや寒さ、音響、光、陰や薄明かり、感覚、土、水、空気、そして
ありとあらゆるものが、この至高の役割のなかに、建築を行う普通の男のたった1つの頭のなかにあるのだ。≫
カンタベリー大聖堂の再建にあたって、ギヨーム・ド・サンスは、フランス建築の新たな建設技術をイギリスに持ち込みました。しかし、不幸にも建設途中、梁から落下し、重傷を負ってしまいます。いったんは、若い一人の行動的で知性的な修道士を後任にしますが、石工たちが猛然と反対しました。そのため、ギヨームは重傷の身でありながら、ベッドの上から、作業の内容や優先順、建築上の判断など、指揮を執ったといわれています。
一千年余り前の大聖堂建設の現場にいた建築家であった修道士や、ギヨームらの仕事ぶりは、現在のプロマネの立場や心境に重なるところが多いのでした。
(参考図書)
馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー−中世の聖なる空間を読む』(講談社現代新書)
パトリック・ドゥムイ『大聖堂』(文庫クセジュ)
佐藤達生・木俣元一『図説 大聖堂物語−ゴシックの建築と美術』 (ふくろうの本)
アラン・エルランド=ブランダンブルグ『大聖堂ものがたり−聖なる建築物をつくった人々』 (「知の再発見」双書)