前回に引き続き、今回もプラトン「テアイテトス − あるいは知識について」[1]を考えてみたいと思います。
テアイテトスは「知識とは何か」という問いかけに順番に3つの説明を試みます。
これらは結局すべて棄却されて本書は終了してしまいます。
(2)と(3)はメノン[2]の「徳とは何か?」にも同様の議論がありました。
●知識は教えられる
前に参照したメノンの「徳とは何か?」という対話の中で、徳とは知識であるというひとつの説明がありました。しかし知識なら教えられるはずであるが、徳があると思われている人達の子は必ずしもそうでない。徳が教えられるものならば自分の子に教えないはずはない。つまり徳とは教えられるものではない。だからそれは知識ではない・・・という議論がありました(連載第9回参照)。
その次に、徳ある人は「正しい思わく」(correct opinion)を持っており、それが人に伝えることができないのだとしました。メノンでは、知識とは静的なもので言葉で表現できるもの、思わくは動的なもの、人の振る舞いに関するもので言葉に表現できないもののようです。
この「正しい思わく」はテアイテトスの(2)「真なる思いなし」(true belief)と同じもののようです。
言葉で表現できない「真なる思いなし」に言葉で表現できるものを合わせたものが(3)となります。
●UMLで整理する
ここまでをUMLで整理します。図1左は連載第9回のものです。右はテアイテトスの(3)です。左は徳そのものではなく徳ある人なので、右の知識と同等には比較できないのですが、並べて見ました。また左の属性区画に入れた知識は右の知識ではなく、右の知識の属性の区画に入れた「言葉で表現できるもの」です。操作の区画に入れた「正しい思わくと真なる思いなし」はどうやら同じもののようです。
つまり言葉で表現できるものとそうでないものをセットとして持っていると何か強力なパワーを発揮する。むしろ言葉で表現できないものの方が重要な役割を果たす。
●具体例の本質とは
徳のある人なら具体的に例を挙げられますが、ソクラテスの問いかけは徳そのものの説明です。知識も例えば具体的な医者の知識、大工の知識、靴職人の知識などの説明ならばできますが、知識そのものの説明はテアイテトスにはできませんでしたしソクラテスも説明しません。
ソクラテスは、人に対しては自分は知らないから、もしも知っているなら教えて欲しいと識者に頼み、次々と質問を繰返し相手の説明では充分でないことを対話の相手にも気付かせます。
しかし、ソクラテスは人に対して言っているように、本当に無知であったとはとても信じられません。そんな筈はあり得ません。自分にはじつは徳も知識ももちろん分かっている。残念ながらそれが言葉で説明できないものだということも分かっている。しかし何とかしてその大切なものを人に伝えたい。
自分こそは徳ある人である、あるいは知識を備えた人であると思っている一部の人達がじつはそうでないのだと言いたい。ストレートにそういっても理解できないし、受け入れられることはない。なぜなら大抵その人達は本当に徳や知識を備えた人でないからです。
●暗黙知
結局、「正しい思わく」や「真なる思いなし」とは暗黙知なのです。暗黙知とはなにか?それは言葉で表現できないもので、知識の奥にあるものです。
「我々は語ることができるより多くのことを知ることができる」[3]
例えばある人の顔を知っている。その特徴をことばのみで他の人に伝えるのは難しい。説明できないから知らないということにはならない。
頭で覚えたものを形式知、体で覚えたものが暗黙知であるということができます。自転車の乗り方は言葉では説明しきれません。練習して体で覚えます。
ソクラテスの対話編に出てくる知識は一見形式知のようです。正しい思わくや真なる思いなしは暗黙知です。しかしソクラテスの意図している知識は形式知と暗黙知を含んだ知識です(図2)。
●産婆術は暗黙知形成の術
暗黙知は教えられるものではなく自分で習得するものです。ソクラテスの産婆術とは暗黙知を習得させるための術です。適切な質問を繰返し、対話者は苦しみながら自分で考え抜いて暗黙知を形成してゆくのです。
メノンの冒頭を思い出します。
テアイテトスの最後の場面です。
口にしたものはすべて棄却されてしまいましたが、テアイテトスは口にはできないものをしっかり暗黙知として体得した筈です。
この暗黙知形成の術、何も生み出していないようでじつは大切なものをしっかり体得させる術がソクラテスの産婆術です。
【参考書籍】