前回に引き続き、今回もプラトン「テアイテトス − あるいは知識について」[1]をテキストに、「知識は感覚」を吟味する長い議論を追ってみたいと思います。テキストは前回より少し戻りますが、プロタゴラスの相対性のテシスとヘラクレイトスの流転性のテシスをまず認める立場で進行します。
第10回でも触れましたが、ソクラテスは、プロタゴラスの「人間は万物の尺度」説から「何ものも他と没交渉にそれ自体でそれ自体にとどまったまま単一であるということはない」(152D)とします。今回はこれをもう少し考えて見たい。議論は次のように展開されて行きます。
ものはそれ自体で意味のあるものとして存在しない。例えばある人がそれを眼で見たとき、それはその人固有の存在として意味を持つ。
これは「人のいない山で倒れた木の音は存在するか」という禅の公案に似ています。認識されるものと認識するもの両者がないと存在を問えない。
■健康体のソクラテスと病身のソクラテス
例え同一人物でもそのときの健康状態などで感覚は異なります。健康体ではおいしいと感じた食べ物も、病身のときはそうは感じません。同一人物でさえそうなのだから、まして異なる人だと同じものに対して感じ方は異なります。
■UMLのモデル
例えば、ある時点でソクラテスはあるものを眼で捉えてある感覚を持ちます。オブジェクト図で表すとその感覚は眼にあるのでもなく、もちろん「もの」にもありません。ソクラテスの眼とその「もの」との間に感覚が生じます。オブジェクト指向ではこれをリンク属性と呼びます。眼と「もの」との間のリンクが保持する属性です。
同じ「もの」をテアイテトスも見たとしたら、ふたりの感覚は別物です。UMLでは次のように表現することができます。
一般化してクラス図にします。多重度5は感覚器官の五感を示しています。感覚は感覚器官と対象物の関連クラスとして表現します。
■エンペドクレスの流出説
本稿の論旨とは直接的関係はないのですが、冒頭の「白色」の記述に関して、ソクラテスの時代に人々は色というものをどのように捉えていたのかを示す、おもしろい記述があります。以下プラトン「メノン」[2]から引用します。
(・・・省略・・・)
つまり眼には様々なサイズの小さな孔があいていて、ものから流出してくる、色により異なるサイズの流出物を眼が捉えるというモデルです。音や匂いも流出説で説明されます。
■エンペドクレス説のモデル
図3のモデルに流出物を追加すると次のようなモデルとなります。
図3では感覚器官と対象物の間の多重度は多対多になっていましたが、この図4のモデルでは感覚器官と流出物の間の多重度は0..1対多になっています。感覚器官には多数の流出物が流れてきますが、個々の流出物が到達する感覚器官は高々一つということです。
例えばソクラテスとテアイテトスが同じ対象物を見たとしても、そこから発せられる多数の流出物からそれぞれの眼に到達する流出物は異なり、眼の中でぴったりとサイズの合う流出物も異なり、両者異なる感覚が生ずることになります。
【参考書籍】
[1] プラトン著、田中美知太郎訳、テアイテトス、岩波文庫、1966
[2] プラトン著、藤沢令夫訳、メノン、岩波文庫、1994
ODL ObjectDesignLaboratory,Inc. Akio Kawai