情報システム学会 メールマガジン 2011.11.25 No.06-08 [9]

連載 情報システムの本質に迫る
第54回 原発事故はなぜ起きたのか

芳賀 正憲

 情報システム学会の設立総会でご講演頂いた今道友信先生は、1990年、「エコエティカ」(講談社学術文庫)を上梓され、人類の未来に向けた新たな倫理概念を提唱されています。この中で今道先生は、原子力に関して8ページ余にわたって言及され、文字通り「火」のような情熱をもって、「まったく新しい考え方をしなければ、原子力を使うのをやめなければならない」と説かれています。ここで新しい考え方とは、原子力に携わる人間が、従来よりはるかに高い倫理観をもち、利益を求める企業の論理を超えて、災害学と災害処理学を十分に整備した上で、安全管理に徹して進めるということです。現在の技術水準では、原子力は、企業の対象にしてはいけないとさえ言われています。
 現実にはわが国の原子力開発は、わが国にいくつかのエクセレントな組織が存在するにもかかわらず、むしろ平均的な水準より低い、前時代的な神話とムラ社会の思考によって推進され、(国際原子力事象評価尺度に7の上限がなければ)レベル8とも推定される(チェルノブイリはレベル9)大事故を起こしてしまいました。

 わが国社会の問題点の1つは、官庁や企業を中心に、ムラをつくる傾向があることです。政官産学・マスメディアなどから成る中央の原子力ムラの存在は、かねてから知られています。今年になって東大大学院の開沼博氏により、原発立地地域にもう1つの原子力ムラが存在していることが明らかにされました。
 2つの原子力ムラは、佐藤栄佐久県政の一時期を除き、県を媒介に結びついていましたが、佐藤知事退陣後は、2つのムラが直接共鳴してカップルを形成していると開沼氏は指摘されています。つまり2つのムラは、原発の推進過程でほぼ一貫して結合し、より大きなムラをつくっていたのです。中央と地方は、それぞれオオアザ(大字)を成していたと考えられます。
 さらに驚くべきは、中央の原子力ムラには、司法さえ加わっていたことです。伊方原発訴訟の「設置許可は、(中略)原子力委員会の科学的・専門技術的知見にもとづく意見を尊重して行なう総理大臣の合理的判断にゆだねる趣旨と解するのが相当」という最高裁判決は、司法が是非の判断を放棄して、「政府以外の人間は、黙っとれ!」と命じるようなものです。この結果、今年菅直人首相の要請により停止した浜岡原発の運転差し止め訴訟も、4年前の一審判決では原告側が全面敗訴しました。司法においてさえ、三権分立の大原則より、ムラ社会の論理が優先する場合があるというのが、残念ながらわが国の現実です。
 (ただし、当初「判決に必要な審理はほぼ尽くされている」と言い切り、原告側を失望させていた二審の裁判長は、福島の事故後、「安全性が立証できなければ、(原発は)止めるということが当たり前」と発言して態度を一変させており、その判決が注目されます。)(毎日新聞9月20日朝刊)

 ムラ社会の最も大きな問題点は、意思決定のプロセスが、合理性の保証のない信心や神話、ボスの主張や意向、談合、「空気」などに支配されて進められ、それに対して組織的なチェック機能が排除されたり、働かないことです。
 正常な組織では、チェック機能を大きく3段階で働かせ、目標の実現を図っていくのが一般的です。
 第1段階は、方針や計画と、その対案や複数の代替案との比較検証によるチェックです。可能な限り、原案や対案、複数の代替案を組み合わせ、それぞれの長所を活かし、短所を補い合うようにして、どの案よりもベターな方針や計画をつくることをめざします。
 しかし原子力ムラでは、ムラの「主流」の考え方に対する対案や代替案は、排除される傾向にありました。
 10月号のメルマガでも述べましたが、初代原子力委員長の正力松太郎氏は、「5年以内に実用的な原子力発電を始める」「そのために外国から開発済みの原子炉を輸入する」という性急な方針を打ち出します。それに対して、委員の湯川秀樹博士は「原子力発電の実現は急いではならず、基礎研究から始めるべきだ」と主張するのですが、正力氏に退けられます。湯川博士はすぐにも辞任しようとしたのですが、なだめられ1年耐えたのち原子力委員会を去ります。
 湯川博士は原子力工学者ではありませんが、30年以上にわたって安全に稼動可能な原発の設計と建設がどれだけむずかしいか、万一事故が起きたときの被害の広がりがどれだけ大きいかということについては、核燃料のことをガイ燃料と発音する正力氏より、はるかに理解が進んでいたはずです。しかし湯川博士が主張しても、外国の技術を信頼している(信心している)正力氏の意思が変わることはありませんでした。

 福島県の佐藤栄佐久知事は、任期の途中までは前任者同様、原発立地の強力な推進役を務めてきました。しかし電力会社の約束違反やデータねつ造、JCOの事故などが重なって不信感が増幅、「原発もプルサーマルもすべて凍結。全部見直し」を表明し、県独自の検討会を設けて中央任せのエネルギー政策から脱却していこうとします。
 さらに、東電のデータ改ざんが発覚、しかも内部告発を受けた保安院が2年間これを放置した上、告発者の氏名を東電に知らせていたことが判明、それまでのトラブルの積み重ねもあり、2003年4月東電のもつ原子炉は全基停止するに至りました。
 このため、東電のみでなく中央の原子力ムラ各勢力や、原発立地を進めたい地域の原子力ムラと知事との対立が深まり、知事は四面楚歌の中で反中央の方針を堅持します。
 2006年9月、佐藤栄佐久知事は、二審で収賄額がゼロと認定される奇妙な汚職事件に関与したとして追及され辞職(のちに逮捕)、知事は原子力ムラから排除されます。

 原子力ムラでは長らくの間、大事故発生の確率は100万分の1程度であり、原発は限りなく安全という考え方が主流でした。主流の考え方に反して原発の安全に疑問を抱くことはタブーとする、暗黙の了解が定着していました。
 安全に疑問の余地がないのですから、「安全の研究なんかとんでもない。かえって国民を不安に陥れる」という風潮が強く、安全性と銘打つ研究が日の目を見ない時代がかなり続きました。「当時は、安全のことを言うと、原子力ムラからムラ八分にされた」と原研の元職員は証言しています。(NHK・ETV特集「原発事故への道程」(後篇))
 研究に対すると同じことは、当然安全投資に対しても起こります。いったん立地審査をパスした原子炉施設については、(たとえその後どのようなリスク警告情報がもたらされようとも)追加の安全対策を施したり、その必要性を力説したりすれば、その原子炉施設の安全性に不備があるというメッセージを社会に対して発信するため、対策やその必要性の主張はタブーになります。福島第一原発では、負のイメージ形成を避けるという本末転倒の理由で、安全対策強化が見送られた可能性があります。(吉岡斉『新版 原子力の社会史』朝日新聞出版)

 チェック機能の第2段階は、選定された計画案や設計案に対するリスク分析です。計画案・設計案は、建設・稼働開始後に発生して無視できない被害をもたらすと考えられるあらゆるリスクに対応できるように改善してから着工しなければならないのは当然のことです。
 福島第1原発の場合、このリスク分析に重大な不備がありました。第1には、設計・製造・据え付けなどすべての工程をメーカーに任せるフルターンキー契約方式にとびついていることです。米国の技術に対する信頼(信心)があったと思われますが、最初の輸入炉JRR−1で運転開始直後からリレーが次々に破損するなど、トラブルが続出しているのです。次に英国から輸入契約をした炉も、耐震設計が全くなされていず、3年がかりで対策を施す必要がありました。この炉も、送電開始早々緊急停止するなどトラブルが続出、修繕と点検の費用は毎年多額に及びました。このような経験があるのに、関係者の証言によれば建設コストだけを基準に、まだ米国では営業運転も行なわれていない段階のマークI型原子炉を導入したのです。
 第2は、福島の場合、フルターンキー契約の中で耐震性の確認が実際にどれだけできていたのだろうかという懸念です。設計元の米国では、17基のマークIがすべて、地震の少ない東部のみに建設されているという事実があります。専門家からは福島の事故について、原発は津波が来る前に大地震で壊れて制御不能に陥っていたのではないかという可能性が指摘されています。
 第3には、もちろん津波に対するリスク分析の不備です。10月号のメルマガでも述べたように、福島第1原発の用地高さは、もともと35mあったのですが、岩盤に炉を設置して耐震性を高めること、GEのポンプでは冷却用海水を35mまで上げられないこと、ポンプの仕様変更をするとフルターンキー契約のため著しく割高なものになることから、海抜10メートルまで掘り下げられました。このとき非常用ディーゼル発電機が、予備も含め海側タービン建屋の地下に設置される計画になっていたことは見逃され、見直しされませんでした。
 福島原発については、機器冷却海水の取水問題について、建設開始の7年前に起きたチリ津波級の引き潮にさえ耐えられない状態であったことが、大事故が起きる前に指摘されています。建設開始のすぐ前に起きた津波に対するリスク分析さえ行なわれず、設計に反映されていなかったのです。

 チェック機能の第3段階は、建設・稼働開始後もたらされるリスク警告情報への対応です。すでにメルマガの4月号や9月号、情報システム学会からの「社会への提言」で述べているように、福島の原発に関しては、その危険性を警告する情報が長期にわたり、くり返し提示されています。それらに適確に対応しなかったため福島の大事故は起きたとも言えるのです。
 主要なリスク警告情報を時系列で列挙すると、次のとおりです。

 1970年代:米国でマークI型原子炉の危険性が指摘され始め、実験やシミュレーションが行なわれる。同型炉は、廃炉にすべきとの意見が出る。
 1970年代半ば:マークI型原子炉メーカーの主任技術者が圧力抑制プールの耐久性に疑問を抱き、原発の一時停止を進言。容れられず辞職して、連邦議会公聴会で証言。
 1979年3月:スリーマイル島原発事故。これを契機に、米国では「原発は安全」という主張が後退し、原子力規制委員会により、原発の安全性と対策の見直しが始まる。
 1980年代初頭:マークIは、交流電源喪失後、6.5時間でメルトダウンが起きることが判明。その後水素爆発が起きる可能性があることも分かる。
 1980年代半ば:米国・規制委員会も、マークIで水素爆発が起きる可能性を想定。
 1986年4月:チェルノブイリ原発事故
 1989年:(地震・津波の恐れがない地域への設置を前提にして)ベントを導入することで、米国におけるマークI問題が収束。
 1990年:東北電力が地質の分析から、9世紀の貞観地震で仙台平野に大津波が襲来していたとの調査結果をまとめ、女川原発に対する津波高さの想定に反映。
 1993年7月:北海道南西沖地震で、奥尻島に10mを超える津波が襲来。
 2002年6月:東北大学の雑誌「まなびの杜」で、箕浦幸治教授が巨大津波の発生を警告。仙台湾沖から過去に3回、800年から1100年の周期で大津波が襲来したことが堆積物の調査結果判明しており、最後の貞観大津波からすでに1100年以上経過している。
 2005年5月:福島県の市民団体が東電・勝俣社長に、チリ津波級の引き潮、高潮時に耐えられない東電福島原発の抜本的対策を求める。
 同月:『しんぶん赤旗』が「福島原発 地震大丈夫か」と題する市民団体代表委員の署名記事を掲載。多くの地震学者が、近年日本が大地震の活動期に入ったと言っており、(中略)日本における原発の大事故は地震を引き金にして発生する可能性が大きくなっていると警告。
 2006年3月:吉井英勝衆院議員が国会で、「地震による原発のバックアップ電源破壊や津波による機器冷却系喪失により、最悪の場合には炉心溶融、水蒸気爆発、水素爆発が起こりうる」という質疑を行なう。二階経産相が、「最悪の事態を考え、原子力の安全確保のため、経産省を挙げて真剣に取り組んでいくことを約束する」と答弁。
 2007年7月:中越沖地震で柏崎刈羽原発が全面停止。想定の2倍を超える加速度が記録される。火災、微量な放射性物質の漏れなどのトラブルが発生。
 同月:日本共産党福島県委員会等が県知事と東電・勝俣社長に、柏崎刈羽原発での深刻な事態発生に鑑み、福島原発の耐震安全性への対応と、津波による引き潮時の冷却水取水問題への抜本的対策を求める。
 2008年:東電社内で、明治三陸地震の規模などを考慮し、福島第1原発には最大10.2mの津波が押し寄せ、遡上高は15.7mに及ぶ可能性があると試算、経営幹部にも報告。
 2009年6 月:経産省の審議会で、産総研の活断層・地震研究センター長・岡村行信氏が、貞観地震で発生した津波で、福島第一原発がある場所が壊滅的な被害を受けたと指摘し、東電に安全対策の必要性を提言。

 これだけのリスク警告情報がありながら、保安院も東電も何ら有効な対策をとっていません。その結果、社会に対して莫大な損害を与える事故が起きたのですから、このような不作為は、犯罪にも匹敵するのではないでしょうか。司法も、国の判断を追認するだけではなく、本来このような不作為を追求するのが責務なのではないでしょうか。
 米国の規制委員会によるマークIの安全性検討にあわせて、わが国でも1987年から原子力安全委員会で重大事故対策を検討しました。しかし、9月号のメルマガにも記したように、1992年にまとめた「重大事故に対する安全対策報告書」では、冒頭から、日本では重大事故は現実に起きるとは考えられないほど、発生の可能性が十分小さいと書かれています。結論として、日本では重大事故が起きる可能性はほとんどないが、米国などの対策にならい、ベントを自主的に導入することを電力会社に促しています。
 わが国の原子力安全委員会は、むしろ「安全神話普及委員会」と名づけた方がよかったのではないでしょうか。

 「チェック機能の欠落したムラ社会構造」は、わが国で大きな問題を引き起こす典型的な要因と考えられます。
 2007年に大問題になった年金記録管理システムに関しては、社会保険庁、システム開発の元請け会社、協力会社などが「年金ムラ」を形成していました。システム開発に先立ち元請け会社でデータの品質を調査した結果、大量の不備を発見、社保庁に報告したところ、不備データもそのまま収録し移行後に補正を実施していくという方針が示されたため、不備データはそのまま移行してしまいました。
 このようにまちがった方針が出されたときは、のちのち大問題に発展することが明らかなのですから、システム品質に責任をもつ元請け会社は、断固として方針の変更を迫らなければならないのですが、チェック機能は働きませんでした。
 年金ムラで開発した記録管理システムが、本来管理システムが具備すべきPDCA機能のうち、C(チェック)機能を欠いたまま、20年余も運用されていたのは象徴的です。チェック機能の欠落が、情報システムにも埋め込まれていたのです。

 オリンパスでは、ムラ社会の論理になじまない外国人社長が登場し問題提起するまで(たちまち排除されましたが)、トップあるいはトップに近い人と、社の内外の財務に関わる人たちで、「損失隠しムラ」をつくっていました。その間、実に20年にわたり、監査役も監査法人も、責務であるチェック機能を果たしていませんでした。

 わが国が、優れた社会システムをつくっていくためには、「ムラ社会構造」の打破が課題になります。そのとき、適度の「黒船」の来訪は、奇貨とすべきようにも思われます。

この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。
皆様からもご意見を頂ければ幸いです。