前回に引き続き、プラトン「テアイテトス − あるいは知識について」[1]をテキストに、知識とは何かというソクラテスの問いかけにテアイテトスが産婆術により生み出した3つの答えの第1「知識は感覚」について考えます 。
■相対性のテシスと流転性のテシス
プロタゴラスの「人間は万物の尺度」を相対性のテシス(独語ではテーゼ)、ヘラクレイトスの「万物流転」を流転性のテシスと呼びます[3]。当時ギリシャでよく知られていたこれら2つのテシスを引き合いに出し、ソクラテスは「知識は感覚」の吟味を始め、それらは認めつつも、知識とはそのような普遍性のないものではないのだと、結局テアイテトスの最初の答えを棄却します。
■感覚
視覚や聴覚など五感で感じ取ったデータを、大きな人とか高い音などと判断するのははたして眼や耳などの感覚器官なのだろうかという議論が続きます。
この部分、英語訳のほうがわかりやすい。以下、一部英語訳[2]を併記します。
eyes are what we see with, or what we see by means of
耳についても同様の質問、感覚するために、感覚器官の機能は“with”なのか“by means of”なのかが繰り返されます。その後、
I think we perceive things by means of them rather than with them, Socrates.
つまり眼や耳などの五感はセンサーに過ぎず(by means of)、収集したデータを評価し判断するもの(with)ではない、感覚器官そのものは評価・判断を伴う感覚はしないということです。そのデータの意味を解釈し評価・判断するものを仮に心(mind)と呼びます。
And your question is by means of which physical faculty we perceive these things with the mind.
■五感の感覚器官に知識はない
■モデルで考える
ここまでの議論をUMLで整理します。まず感覚対象があり、それを各人の五感で感じ取ります。図1左はオブジェクト図、右はそれを一般化したクラス図です。オブジェクト図は特にソクラテスである必要はありません。
五感はセンサーであり、それ自体で大小や熱いや冷たいなどの意味解釈・判断を行うことはない。つまり五感では感覚は行わない。感覚するのは、人がもっている別の何かであり、それを心とする。
感覚器官は感覚しないという言い方は何か変ですが、ソクラテスの「感覚する」はセンスしたデータの意味解釈や評価判断することです。
従って「感覚する」という操作の実体は感覚器官ではなく心にあることになります。
■知識は感覚ではない
更に議論は深まり、感覚するものに知識はない、思量(勘考)の中に知識はあるとします。
最後の部分
Therefore knowledge is not located in immediate experience, but in reasoning about it, since the latter apparently, but not the former, makes it possible to grasp being and truth. (186D)
感覚も必要であるがそれだけでは知識に到達することができず、さらに思量(勘考)が必要である。UMLのモデルでは心に「感覚する」と「思量する」が必要になります。
■知識は真なる思いなし
知識は感覚したり、感覚により得られたものの中にはなく、思量(勘考)の中にあると結論付けられました。思量しても誤ることもあることもあるので、テアイテトスは慎重に考え直して第2の答えを「知識は真なる思いなし(true belief)」とします。
次回も引き続きテアイテトスの「知識とは何か」を考えて見たいと思います。
[1]プラトン著、田中美知太郎訳、テアイテトス、岩波文庫、1966
[2]Plato, Theaetetus, Penguin Classics, 2004
[3]藤沢令夫、プラトンの哲学、岩波新書、1998
ODL ObjectDesignLaboratory,Inc. Akio Kawai