情報システム学会 メールマガジン 2011.11.25 No.06-08 [6]

連載 オブジェクト指向と哲学
第11回 知識とは何か(5) - 知識は感覚ではない

河合 昭男

 前回に引き続き、プラトン「テアイテトス − あるいは知識について」[1]をテキストに、知識とは何かというソクラテスの問いかけにテアイテトスが産婆術により生み出した3つの答えの第1「知識は感覚」について考えます 。

相対性のテシスと流転性のテシス
 プロタゴラスの「人間は万物の尺度」を相対性のテシス(独語ではテーゼ)、ヘラクレイトスの「万物流転」を流転性のテシスと呼びます[3]。当時ギリシャでよく知られていたこれら2つのテシスを引き合いに出し、ソクラテスは「知識は感覚」の吟味を始め、それらは認めつつも、知識とはそのような普遍性のないものではないのだと、結局テアイテトスの最初の答えを棄却します。

感覚
 視覚や聴覚など五感で感じ取ったデータを、大きな人とか高い音などと判断するのははたして眼や耳などの感覚器官なのだろうかという議論が続きます。

ソ:われわれが依ってもってみるところのそのものが眼であるとするのが正しいか、それともわれわれがそれを通じ(用い)て見るところのものが眼であるとするのが正しいか。(184C)

この部分、英語訳のほうがわかりやすい。以下、一部英語訳[2]を併記します。
eyes are what we see with, or what we see by means of

耳についても同様の質問、感覚するために、感覚器官の機能はwithなのかby means ofなのかが繰り返されます。その後、

テ:それを通じ(用い)てわれわれがそれぞれのものを感覚するのがとする方が、依ってもって感覚するところのものをそうとするよりは、ソクラテス、むしろよいように私には思われます。

I think we perceive things by means of them rather than with them, Socrates.

つまり眼や耳などの五感はセンサーに過ぎず(by means of)、収集したデータを評価し判断するもの(with)ではない、感覚器官そのものは評価・判断を伴う感覚はしないということです。そのデータの意味を解釈し評価・判断するものを仮に心(mind)と呼びます。

テ:(あなたの問いは)そもそもわれわれが心でもってこれらを感覚するのは、身体に所属する何ものを通じてであるか...

And your question is by means of which physical faculty we perceive these things with the mind.

ソ:うま過ぎるぐらいに、テアイテトス、君は僕の言おうとしていることにつきあってくれるじゃあないか。ちょうどまさにそれが僕の問いなのだ。
テ:...すべてのものについてその共通なるものを、心は自分だけで自分自身を用いて考察するように私には見えるのです。(185D)

五感の感覚器官に知識はない

ソ:...硬いものの硬さは触覚を通じて感覚し、また軟らかいものの軟らかさも同様というはずになっているのではないかね。
テ:はい、そうです。
ソ:他方これに対して、それら(硬軟)の有すなわち両者のあるということや、また両者が互いに反対なものだということや、更にはまたその反対ということのあるということ(有)などは、これは心が自分で直接そのもとにおもむいて、これらを相互に比較しながら、われわれのために判断を試みるところのものなのである。
テ:いや、それは事実全くその通りです。(186B)

モデルで考える
 ここまでの議論をUMLで整理します。まず感覚対象があり、それを各人の五感で感じ取ります。図1左はオブジェクト図、右はそれを一般化したクラス図です。オブジェクト図は特にソクラテスである必要はありません。

図1 感覚モデル(左:オブジェクト図、右:クラス図)
図1 感覚モデル(左:オブジェクト図、右:クラス図)

 五感はセンサーであり、それ自体で大小や熱いや冷たいなどの意味解釈・判断を行うことはない。つまり五感では感覚は行わない。感覚するのは、人がもっている別の何かであり、それを心とする。
 感覚器官は感覚しないという言い方は何か変ですが、ソクラテスの「感覚する」はセンスしたデータの意味解釈や評価判断することです。

図2 感覚+心(左:オブジェクト図、右:クラス図)
図2 感覚+心(左:オブジェクト図、右:クラス図)

従って「感覚する」という操作の実体は感覚器官ではなく心にあることになります。

図3 感覚器官は感覚しない
図3 感覚器官は感覚しない

知識は感覚ではない
 更に議論は深まり、感覚するものに知識はない、思量(勘考)の中に知識はあるとします。

ソ:すると、身体を通じて受けとられて心にとどくものの感覚は、生来これは人間にも動物にも生まれるとすぐそなわってあるものだけれど、これらについて−あるとかためになるとかいうことへの関係をもって−勘考される方のものは、時たっていろいろ多くの骨折りを重ねた結果、教育を通じてやっと、それがちょうどもしそれにそなわるものなら、そなわるようになるのではないかね。
テ:いや、事実それは全くその通りです。
ソ:それなら、あるということにもすでに到達できないのに、真というものに到達することができるだろうか。
テ:できません。
ソ:しかし何かについて、それの真に到達していないとすると、そういう人がそのものについて知識をもっている人だということにそもそもなるだろうか。
テ:して、どうしてそういうことがありましょう。
ソ:従がって、かの(身体を通して)受け取られるだけのものの中には知識は存しないわけなのだ。むしろそれらについての思量(勘考)の中に知識があるのだ。なぜなら、いまのところの様子では、有も真もそこにおいてこそ把捉されうるけれど、前のものにおいてはそれができそうもないからだ。(186D)

最後の部分

Therefore knowledge is not located in immediate experience, but in reasoning about it, since the latter apparently, but not the former, makes it possible to grasp being and truth. (186D)

 感覚も必要であるがそれだけでは知識に到達することができず、さらに思量(勘考)が必要である。UMLのモデルでは心に「感覚する」と「思量する」が必要になります。

図4 知識に到達するには感覚+思量が必要
図4 知識に到達するには感覚+思量が必要

知識は真なる思いなし
 知識は感覚したり、感覚により得られたものの中にはなく、思量(勘考)の中にあると結論付けられました。思量しても誤ることもあることもあるので、テアイテトスは慎重に考え直して第2の答えを「知識は真なる思いなし(true belief)」とします。

 次回も引き続きテアイテトスの「知識とは何か」を考えて見たいと思います。

[1]プラトン著、田中美知太郎訳、テアイテトス、岩波文庫、1966
[2]Plato, Theaetetus, Penguin Classics, 2004
[3]藤沢令夫、プラトンの哲学、岩波新書、1998


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