情報システム学会 メールマガジン 2011.11.25 No.06-08 [4]

連載 INCOSE(The International Council on Systems Engineering)入門
第2回 日本がバブルに浮かれていた時,欧米では・・・・

慶應義塾大学 特任准教授 嶋津恵子

 今回で,2回目の記事になります.第1回目の記事の最後に,「次回は、INCOSEの活躍を述べたいと思います。」と予告させていただきましたが,少しだけ方向転換いたします.今の日本の困った状況を憂い,また少しでも発展に寄与することを願い,この方向転換をご容赦ください.

 前回,「システム・エンジニアリングの本質は統合工学」であると説明しました.またアポロ計画がその発展に大きく寄与したことも紹介しました.ところで,用語として最初に採用したのは1940年,当時世界最高峰の通信技術研究機関であったベル研究所であると言われています.1956年に発行されたIEEEの論文中で,複雑な問題を解決するためには,複数の専門分野の成果の組み合わせが必要であり,それを実現する近代的な手法がシステム・エンジニアリング(Systems Engineering)であると主張しています.この論文が産業界の目にとまり,アポロ計画に参画していた技術者たちも,現状の技術でどうやって目標を達成するかという難題の解決策を見出すことができたと言えます.

 ここで,少しだけ本題から外れた話をします.IEEEやACMの論文は産業界から常に注目されてきています.それは,1950年代から21世紀を迎えた2011年まで変わることのない傾向です.今年のIEEE System Engineering ConferenceもINCOSE 世界大会も,学界人より産業界の人間の方の数の多いことが目立ちます.そして,実社会で大きな問題が発生すると,かならず学界人が問題解決の実務エキスパートとして招聘されます.これは,日本ではみられないことです.多くの学術会議は大学の先生と学生で埋まり,産業界からの参加者はあまり見受けられません.そして,社会で発生した問題は,企業家と政治家たちで解決がはかられます.
 明後日(この記事を書いているのが2011年11月19日土曜日です),わたくしはIEEE東京チャプター長と昼食の予定が入っています.この方は,東京大学を卒業後,NTT(電電公社,当時)に入社し,大きな研究成果を携え東大の教授を務めあげられました.このIEEE東京チャプター長が,電子情報通信学会のトップを務められていた時,最大の懸念の一つが,日本の学会が産業界から必要とされていないことだったそうです.そこで,産業界から注目される場となるよう様々な努力と工夫をされました.本学会でも参考になりそうな実績もいくつかあります.

 話題を元にもどします.
 同じころ,日本にもシステム・エンジニアリングという用語が持ち込まれました.ベル研究所から発信されている情報ですから,もちろん博識の方々の目にはとまるわけです.ところが,日本は当時高度経済成長真っただ中.このころは,役人も本気で日本の復興を考えており,日本の産業を守り欧米に追い付くための政策をたくさん成立させていきました.それらの目標は、すでに米国が開発し耐久消費財化したプロダクトと、同じ機能と性能を搭載した製品を、より安く、より早く、より高品質に製造する技術の開発でした。家電、自動車、コンピュータ、精密機器が世界の市場を席巻していきます。利用されたのは、品質工学を中心とする技術です。デミング博士が開発したTQC(Total Quality Control)を基盤とし、製造上の品質を飛躍的に向上させる仕事の実施方法を含めた方法論です。

 システム・エンジニアリグでは、2つのモデルを中心に展開します。システム・ライフサイクル・モデルとVモデルです。これらに関しては、別号でお話します。このシステム・ライフサイクル・モデルに照らすと、TQCが対象とする製造工程は、その一部になります。システム・エンジニアリングは,ライフサイクル全体を対象にしています.システム・エンジニアリングは,全体最適化を目標にし,TQCは部分最適を目指していたともいえます.

 フォーカスしている対象が異なっているわけですから,このシステム・エンジニアリングという用語も欧米で使っている意味そのままでは日本には広がりませんでした.当時ある理由で,職種として特別な名称が必要になっていたソフトウエア・エンジニアリングの世界でこの言葉が導入されました.これが今日,日本ではシステム・エンジニアリングというとIT系の仕事と思われてしまう理由です.

 1960年末に月面着陸に成功した後,その支えとなったシステム・エンジニアリングは,一般の差業界への普及が望まれました.多くの先進技術は,軍事関係で育ち,産業界へ展開されていきます.悲しい事実ですが,悲しい過去を繰り返さないためにも,産業界での大きな成果を量産していくのが我々の役目かもしれません.インタネットも軍事的な需要で生まれたものが,財政的な理由でアーキテクチャを開示したことで広まったと聞いています.

 再び話がそれます.
 軍需産業とか戦争特需という言葉があるように,技術革新や産業の発展に軍事が大きなトリガーになっているのは事実ですが,今のパソコンの基本アーキテクチャ,つまりマルチウィンドウやビットマップディスプレイ.それにマウスを使った操作とCPUどうしを直接接続するLAN(Local Area Network)といった成果.これらは数少ない非軍事目的から生まれた先端技術であり,のちにマイクロソフトとアップルを,世界を席巻する大企業に発展させたきっかけだとおもっているのですが,いかがでしょうか.
 スティーブ・ジョブズが,ビル・ゲイツに「僕のアイディアを盗んだ」と言い,ビルはスティーブに「そういう君だって,ゼロックスから盗んだんじゃないか」と諭したという有名な逸話があります.
 この二人のやりとりはどれも興味深いものですが,特にわたしは黎明期のころの話が好きです.軍事と一線を画し,将来のヴィジョンで新製品を作り出していた人たちが生き生きと活躍しているからです.
 そころのゼロックスと,これらの技術が誕生したPARCを知っているのもプチ自慢です.

 さて,再度話をもとに戻します.1980年代から90年代にかけてシステム・エンジニアリングの手法は,主にアメリカ軍と関係の深い産業界に展開されていきました.日本は,前述したTQCを基礎に置く,品質向上でGNP世界一まで上り詰め,その後バブルに酔いしれます.太平洋をはさんだ大国は極東の島国の浮かれきった様子をにがにがしく思いながら,それでも大国としての道をしっかり歩んでいました.
 わたしが,システム・エンジニアリングを体で覚えたのは,1990年代の初めです.部品品質の限りない高度化とTQCによる強い仲間意識を武器にした現場改善を叩き込まれていた私には,ジョブスクリプトを使ったミッションクリティカルな業務進行策と,部品でなくインタフェースの一貫性と品質に重点を置くシステム・エンジニアリングは,まったく無駄な作業をしているとしか思えませんでした.
 その一方で,今までのバージョンアップ版ではなく,まったく新しいプロダクトが日本からはまったく生まれることがなく,米国から生まれてくることに,謎は深まるばかりでした,

 米国産業界ではシステム・エンジニアリングの効果に手ごたえを感じ始めてきました.1990年にNCOSE(National Council on Systems Engineering)設立し,同95年にINCOSE(International Council on Systems Engineering)に発展しました.トップも長く米国航空宇宙関係の方が務めていましたが,ドイツ人航空宇宙エンジニアであるHeinz Stoewer氏が初めて欧州人としてプレジデントを務め,昨年は,初の女性プレジデントが誕生しました.Samantha Robitaille博士です.ご両人とも人格者であり,また広く深い知識をお持ちです.それぞれと,わたしはサシで食事をさせていただいたことがありますが,話がいつまでたっても尽きることがありませんでした.

 そして,バブル崩壊後の日本産業界は,新商品開発や新ビジネス立ち上げどころではなく,どうやって倒産を防ぐかに必死でした.米国の産業界からは2000年を迎えるシステム・エンジニアリングを応用した新商品が発表されてきました.

 さて,日本でのシステム・エンジニアリングは・・・・
 これについては次号書かせていただきます.