節電による暑い夏も終わり、過ごしやすい季節がやってきました。読書の秋、少しまとまった読書をしてみたい方や歴史好きの方にお勧めしたいのが、塩野七生さんの『ローマ人の物語』です。『ローマ人の物語』全15巻は、1992年から2006年まで15年間にわたって、毎年1冊ずつ刊行されました。刊行開始の数年間、毎年年末に発売される「ローマ人の物語」を買って、年の初めに読むことを楽しみにしていました。寒さに震えながら、この大きな本を手に、電車やバスの待ち時間に読んでいた光景と、当時若手SEとして参画していたプロジェクトのことを思い出します。しかし、カエサルの活躍を見届けた後、いったん中断していたのですが、10数年ぶりに、先日読み返す機会を持ちました。魅力的な登場人物は数多くいて、また、国家としてのローマの類まれな統治機構や、「すべての道はローマに通ず」という諺に残るインフラストラクチャーの素晴らしさを再認識しました。
個人的には、武人であり政治家であり文筆家でもあったオールマイティなジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)、プラトンが理想とした哲人皇帝となったマルクス・アウレリウス、作家のユルスナールが夢想した賢人皇帝のハドリアヌス等、どの偉人たちの物語も興味は尽きないのですが、その中でも断トツに好きなのが、ハンニバルなのでした(*1)。歴代のローマ皇帝を軸に書きつづられた物語であるにもかかわらず、ローマにとって最大の敵であったカルタゴの一将軍であるハンニバルに魅了されるのでした。
ハンニバル・バルカ(前247〜前183)・・第一次ポエニ戦役でシチリアの総督としてローマと戦ったハミルカルを父とし、第二次ポエニ戦役(前218〜前201)を企画しローマと戦う。戦象と傭兵たちを率いて、16年にわたってイタリア半島に居座り、ローマを悩ませ続けました。ラテン語には「戸口にハンニバルが来ている」という言葉があり、現在のイタリアでも、「危険が迫っている」という意味で使われ、いまだにハンニバルが恐怖の代名詞となっていることがうかがわれます。
この、敵としてはローマ市民を恐怖のどん底に陥れたハンニバルですが、どこに魅力があるのでしょうか。
歴史家ポリビウスは、ハンニバルをこう評しています。
ハンニバルの魅力の一つは、なんといっても戦術面での卓越性です。
何万人という軍隊とともに、象の群れを率いてスペインからイタリアへ進軍します。途中、ピレネー山脈を越え、南フランスに入ると、そこには流れの速いローヌ河があり、この河を渡ります。進軍経路にいる各地の住民を懐柔しながら強行突破した先には、険しいアルプスが立ちはだかっています。このアルプスを、象を連れたハンニバルは越え、ローマに入ります。この前代未聞のアルプスの山越えが、現代でもハンニバルを記憶させることになります。また、この象のアルプス越えを、現代において再現させようとした実験があったようですが、インド象での実験は失敗に終わっています。しかし、ハンニバルが行ったのは、インド象よりはるかに気性の荒いアフリカ象だったというのですから想像を絶します。このアルプスの山越えの結果、5万人の歩兵は2万人に、9千人の騎兵は6千人に激減します。しかし、それで意気阻喪するハンニバルではありません。
アルプス越えをして、ローマ軍と対峙してのハンニバルの訓示はこうでした。
その後、南ローマの地、カンネーでローマ軍を相手にしたパーフェクトな勝利を得ます。2倍の敵を包囲・殲滅した戦術は、現代にいたるまで軍事教育に使われているといいます。
魅力の二つ目は、ハンニバルの戦略面です。
それは、別名ハンニバル戦争と呼ばれる対ローマとの戦争、第二次ポエニ戦争を、スペインの資力・軍事力を背景に、企画・実行したことによく表われています。
本国の支援が期待できない中、単独で、反ローマ連合を画策します。ハンニバルのローマ討滅戦略は、当時の全世界をカバーするグローバルで雄大なものでした。
そのうえで、ローマにあたる。その実行は、イベリア半島にいるハンニバルが鍛え上げた歩兵12万、騎兵1万6千、戦象60の強力な軍隊をもって行う。
奇跡的なアルプスの山越え、カンネーでの圧倒的な勝利にもかかわらず、なぜカルタゴはローマに敗れたのでしょうか?
結論としては、ローマ連合の結束力がハンニバルの予想を超えて強かったこと。また、挟撃を頼むべき、本国からの支援が皆無であったといわれています。
カンネーにおいてローマ軍が一日で消え失せた大災厄においても、ローマは上下一致団結して苦境を克服し、反攻に転じます。また、このローマを「ローマ同盟」の都市が見捨てることはありませんでした。
一方、カルタゴ本国は、「自分あっての国家」という発想しかないハンノー家に牛耳られており、イタリア半島で孤軍奮闘するハンニバルを見捨て、千載一遇のチャンスを逃しました。
前202年の最後の決戦で敗れて後、ハンニバルは19年の余生を送ります。カルタゴの再建に尽くしたのちシリアに亡命、アンティオコス3世の軍事顧問として、再び雄大なプランを構想します。小アジア、シリア、エジプトからカルタゴ、それにスペインを加えたローマ大包囲網の体制の確立を夢想したといいます。しかし、それを実現する場は与えられませんでした。それにもかかわらず、このドンキホーテにも似た気宇壮大さは、現代からみても、私たちを愉快な気分にさせてくれます。
魅力の三つ目は、ハンニバルの政治面です。
第二次ポエニ戦争で敗戦後、ハンニバルはカルタゴ経済の立て直しを担当します。莫大なローマへの賠償金返済のため、行政長官として富裕層への増税と無駄のカットを厳格に実施した結果、財政再建を見事にやり遂げます。事業完遂までの不屈の精神は、軍事面のみならず、政治面においても存分に発揮されたのだと思います。
しかし、上手くいきすぎたため、国内の富裕層に敵を作り、またローマ側に脅威を与えてしまい、失脚させられたのでした。
魅力の最後は、ハンニバルの戦闘面、ことに戦闘時におけるリーダー像です。
ハンニバル戦争を通して、最も不思議なことは、なぜ傭兵たちは、ハンニバルを見捨てなかったのか?、という点にあります。
16年間におよぶイタリア半島での孤軍奮闘の中、カルタゴ本国からの補給もない中で、どうやって3万人の軍勢を維持し続けたのかは、実はよくわかっていません。ハンニバル軍は、言葉も通じ合えないアフリカ・スペイン・ガリアの混成部隊であり、かつ彼らは傭兵でありながら、食糧は不足し、給料さえも十分に払うことができなくなっていたはずでした。
ハンニバルの魅力は、戦術面や戦略面の卓越性にあり、配下の兵士たちに畏敬の念を抱かせたことは間違いないと思います。しかし、それにしても、カルタゴ本国からの支援のない敵地ローマにおいて、金銭面等の報酬を与えられない中においても、なぜ金で雇われたはずの傭兵が見捨てなかったのか?
歴史家リヴィウスは、ハンニバルをこう評しています。
≪危険に際して彼が示した計り知れぬ勇気、と同時に、この上ない判断力。
(*3)
将軍ハンニバルは、一兵士と同じ生活をしました。
また、こういう記述もあります。
≪ − 寒さも暑さも、彼は無言で耐えた。
この光景を目に浮かべると、思わず目に涙が浮かびます。
塩野さんは、ハンニバルのリーダー像を評してこういいます。
≪優れたリーダーとは、優秀な才能によって人々を率いていくだけの人間
自分には決して真似ができはしないのですが、このハンニバルの姿は、理想のプロマネ像の一つであると思っています。
(*1)塩野七生『ローマ人の物語(2)』新潮社 1993年刊
(*2)是本信義『経済大国カルタゴ滅亡史 ― 一冊で読めるポエニ戦争ハンニバル戦記』光人社 2009年刊
(*3)森本哲郎『ある通商国家の興亡―カルタゴの遺書』(PHP文庫)