情報システム学会 メールマガジン 2011.10.25 No.06-07 [4]

連載 オブジェクト指向と哲学
第10回 知識とは何か(4) − 産婆術

河合 昭男
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~Kawai

 前回はプラトンの「メノン」をテキストにして、想起説をテーマに知識とは何かを考えました。知識にはこの世の人生経験で獲得する後天的なもの以外に、輪廻転生を通じて前世や霊天上界(イデア界)で獲得した先天的なものがある。後者の知識はきっかけを与えれば想い起こすことができる。
 ではどうやって想起するのか、それを助けるのが産婆術です。今回のテキストはプラトン「テアイテトス − あるいは知識について」[1]です。ここでは知識とは何かというソクラテスの問いかけに、テアイテトスは産婆術の手助けにより3つの答えを生み出します。

産婆術
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ソクラテス:ところで、僕がわからないで困っているのは、ちょうどそれなのだ。つまり、正に知識であるところのもの、それはそもそも何であろうかということが、僕には自分だけでは充分に把握することが出来ないでいるのだ。(145E)

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 はきもの製造の知識や家具製造の知識など「何かの知識」の例ならばいくつでも挙げることができる。その「何かの」をとった知識そのものが問題なのです。
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テアイテトス:あなたのところから出ている問題を伝え聞いておりましたものですから、調べてみることはもう何度もやってみたんです。しかしどうもだめなんです。と申しますのは、自分でも、自分の言うことが充分ものになっているという自信はもてませんし、また他の人のも、あなたの御注文どおりに言われているのは聞くことが出来ずにいるような始末なのですから。それでいて、他方これが事実また何とも解き放すことの出来ない気掛りともなっているのです。
ソ:ほら、それがすなわち君の陣痛というわけなのだ、愛するテアイテトス、君が空でなくって、何か産むものをお腹にもっているからから起こることなのだ。
テ:さあ、それは私にはわかりません、ソクラテス。ただしかし私は、私の感じを申し上げているのです。
ソ:おや、それでは、おかしいねえ、君は聞いていないのか、僕の母親のパイナレテは大へん由緒のある厳しいあの産婆のひとりだということを。
テ:いいえ、そのことなら聞いたことがあります。
ソ:では僕がこの同じ技術の専門家だということも果たして君の耳に入っているだろうか。
テ:いいえ、いっこうに聞いておりません。
ソ:でも、よく知っておきたまえ、僕はそれなんだから。もっとも他の連中に向かって僕のそんなことを告げ口してはいかんよ。僕にこの技術の心得があろうとは、ここだけの話なんだが、気づく者はないんだからねえ。それで奴さんたちは、知らんものだから、僕についてはこのことを噂せずに、「実にへんな奴だ、あいつのすることはといえば、ただ人間を行詰まらせ(困惑させ)るだけのことなんだ」と言っている。どうだね、きっとこういう噂も聞いているだろう?

(148E)
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知識は感覚
 産婆術によりテアイテトスから生み出された最初の答は「知識とは感覚」です。自分の目で見たり、耳で聞いたり、五感で感じ取ったものを知識と呼ぶということです。ここでソクラテスは、当時すでによく知られていた、プロタゴラスの「人間は万物の尺度である」と、ヘラクレイトスの「万物は流転する」を引き合いに出し、吟味を始めます。
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ソ:君が知識について語ったのは、容易ならん説のようだて。プロタゴラスの説がまたそれらしいんでね。もっともこの同じものを語るのに彼はある違った言い方をしたにはしたんだがね。すなわちその主張には何でもこんなことが言われているようだ。「あらゆるものの尺度であるのは人間だ。『ある』ものについては、『ある』ということの、『あらぬ』ものについては、『あらぬ』ということの」ってね。むろん君は読んだことがあると思うんだが、どうだね。
テ:ええ、もうたびたび読みました。(152A)

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 ここから「知識は感覚」はプロタゴラ説と同じだという議論に入ります。
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ソ:そもそも風は同じ風が吹いていても、僕たちのうちで、あるものは寒気を感じるが、他のものは感じないというようなことが、どうだね、時折あるのではないか。またそれを感じるのにも、ひどく感じる者とそれほど感じない者とがあるのではないか。
テ:ええ、それは大いにあります。
ソ:それでは、そういう場合、そこに吹いているものが、他と没交渉にそれ自体で冷たいとか、冷たくないとかいうことをわれわれは主張したものであろうか。それとも、わがプロタゴラの意見に従って、それは寒気を感じる者にとっては冷たくあるが、そうではない者にとっては冷たくはないとすべきであろうか。
テ:それは後のようにするのがよさそうです。
ソ:ところで、それは両者のおのおのに対してまたそういうように現れているものではないか。
テ:はい。
ソ:うん、ところが、その「現れている」というのは、ひとがそれを「感覚している」ということであろうが。
テ:ええ、それはそのわけです。
ソ:従って、ものの現れとそれの感覚とは、冷たいとか熱いとかいわれるようなものにおいて、またこの類のものすべてにおいて同じなのである。すなわち各人が何らかのように感覚しているところのものは、そのようなものとして各人にまたおそらくありもするのである。
テ:ええ、そのようです。
ソ:従って、感覚には常に(感覚した通りに)「ある」ところのもの(有)が対応するから、それは偽りなきものであって、その点それは知識そっくりなのである。
テ:明らかにそうです。(152B)

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 この後「知識は感覚」について疑問が呈されます。この考え方なら「何ものも他と没交渉にそれ自体でそれ自体にとどまったまま単一であるということはない」となってしまう。あるものを誰かが大と言えば、別の人は小と言い、重いといえば軽いという。
 このようなプロタゴラス説もあれば、ものは「ある」(being)ではなく常に運動していて「なる」(being generated)というヘラクレイトスの万物流転説もある。

ものはただ存在するだけでオブジェクトではない
 「知識は感覚」はある意味オブジェクト指向の考え方に似ています。何かのものがあってもそれだけでオブジェクトとは言いません。人がそれを認識した概念がオブジェクトです。従って認識する人により、あるいは視点により、同じものでも意味が異なります。意味すなわち知識が異なります。
 そこでモデリングを行い、UMLで知識を可視化し、共有します。個人としては「人間は万物の尺度」なので知識は人それぞれですが、システム開発というひとつの目的が定まれば話は違います。知識は共有できなければ共同作業はできません。

状況変化と状態変化
 すでに老年のソクラテスはテアイテトス少年より大きいが、ソクラテスはもはや身長が伸びないので、やがてテアイテトスの方が大きくなるかもしれない。この大小の議論がおもしろい。
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ソ:この僕が、この齢であって、丈がのびたり、あるいはその反対の変化をしたりすることのないものだとすると、1年の間に、若者の君よりも、今は大きくあるが、後になると、別に僕の身嵩がなにひとつ引き去られたわけではではないが、君が大きくなったために、君よりも小さいと僕たちで言うような場合にも見られる。なぜなら、ほら!僕は前にはそれで「なかった」のに、後には、それと「なる」ことなしに、それで「ある」のだから。なぜ「それと『なる』ことなしに」であるかというと、「なりゆく」ことなしに「なる」ことは不可能であり、しかも身嵩の何ものも失わない以上、決して僕は小さく「なりゆく」はずのものではなかったからだ。(155B)

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 プラトンがいくつかの例を挙げながらかなりのページを割いている、このパラドックスのような議論、オブジェクト指向のひとつのキーワードでもある状態とも関連しそうです。
 オブジェクトの状態は2つの形で現われます。(1)オブジェクトの属性の値、(2)他オブジェクトとの関係。
 まず、UMLステートマシン図でソクラテスの言っていることを整理します。ステートマシン図はイベントによるあるオブジェクトの状態変化を表すものです。図1はソクラテスというオブジェクトに注目し、その身長がテアイテトスより大きいか小さいかという状態変化を表します。

図1 ソクラテスの状態変化
図1 ソクラテスの状態変化

 オブジェクトの状態は(1)属性の値で表すことができます。人というクラスに身長という属性を設定します。大小を議論するときはこれだけでは足りません。比較する相手が必要です。図2のオブジェクト図は相手を決めて大小を表現しています。これが状態の(2)他オブジェクトとの関係です。

図2 他オブジェクトとの関係による状態     図3 クラス図
図2 他オブジェクトとの関係による状態    図3 クラス図

 ちなみに図2のオブジェクト図はクラス図では図3のように再帰型で表現することができます。

図4 他の状況変化により状態が変わる
図4 他の状況変化により状態が変わる

1年ほど経過するとテアイテトスの身長がyyy cmからzzz cmに伸び、ソクラテス自身はxxx cmのまま何も変化していないにもかかわらず関係という状態は変化します。自身は小さく「なる」(coming-to-be)ことなしに小さく「ある」(being)ということになってしまいました。

 次回も引き続きテアイテトスの「知識とは何か」を考えて見たいと思います。

参考書籍
[1]プラトン著、田中美知太郎訳、テアイテトス、岩波文庫、1966
[2]Plato, Theaetetus, Penguin Classics, 2004

(注)引用箇所は慣例に従いました。[1]では各頁上、[2]では各頁横に記載されています。