情報システム学会 メールマガジン 2011.9.25 No.06-06 [9]

連載 情報システムの本質に迫る
第52回 原子力ムラはなぜ生まれたのか

芳賀 正憲

 東大大学院学際情報学府博士課程に在籍の開沼博氏が、今年1月に提出した修士論文は、6月青土社から『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』として出版され、高い評価を受けています。福島原発とその関連施設を抱える地域社会の構造と機能が、県を媒介にして政官産学・マスメディアなどから成る中央との関係の中でどのように形成されていったのか、3月11日福島第1原発の過酷事故が起きる前に膨大な調査とフィールドワークにもとづき、すでに詳細に描き出されていたからです。
 この論文を読むと、メルマガの4月号において、また6月に出した情報システム学会の「社会への提言」の中で着目した重要なポイント、なぜ東京電力福島第1で過酷事故が起き、東北電力女川では比較的被害が軽微だったのかがよく理解できます。またこの論文は社会学としての分析にもとづいて書かれており、メルマガの1月1日号で述べたように、今後企業レベルより1次元上の社会的な問題解決をフロンティアとしなければならない情報システム学会にとっても参考にすべき文献と思われます。

 今回の福島第1原発過酷事故が、当初よく口にされていた「未曾有」とか「想定外」という言葉とはうらはらに、いかに多くのリスク警告情報があったにもかかわらず、それらをことごとく無視したために起こったかということは、メルマガの4月号や6月の「社会への提言」で指摘しているとおりです。それ以降も、さらに重大な情報が存在していたことが明らかになってきました。
 百人一首の「末の松山波越さじとは」の「波」として伝えられている9世紀の貞観大津波に関しては、以前から調査が行われ福島第1原発の立地地域に甚大な被害をもたらしていたことが判明したため、2009年に産業技術総合研究所から東京電力に安全対策の必要性が提言されたことは、すでに広く知られています。ところが、それより8年前の東北大学の雑誌「まなびの杜」の2001年夏号を見ると、地質学と古生物学がご専門の箕浦幸治教授の執筆で、仙台湾沖から過去に3回、800年から1100年の周期で大津波が襲来したことが堆積物の調査結果判明しており、最後の貞観大津波からすでに1100年以上経過しているため、巨大津波の発生が懸念されると記されているのです。わずか10年後に懸念は現実化したのですから、上記の調査結果は、今から振り返ると東海地震並みの切迫性を示す情報であったと言わざるを得ません。

 さらに驚くべきは、8月14日NHKで放映されたETV特集「アメリカから見た福島原発事故」の内容です。米国では、福島第1原発に導入したGE製マーク I 型原子炉の危険性が1970年代から指摘され、いくつもの実験やシミュレーションが行なわれていました。世界中に30基以上設置されている同型炉は、廃炉にすべきだとの意見さえ出てきていたのです。交流電源をすべて喪失した場合、4時間でバッテリーが切れ、5時間後から炉心温度が急上昇、6.5時間でメルトダウンが起き、その後水素爆発が起きる可能性のあることが、80年代初頭に明らかになっていました。
 福島でマーク I の建設が始まったのは1967年ですが、まだ米国では同型炉の営業運転も行なわれていない段階でした。当時東京電力も日本のメーカー各社も原子炉に関する経験・判断能力に乏しく、GEの設計に全幅の信頼をおいたフルターンキーでの導入でした。
 そのGEでは70年代半ば、主任技術者の1人が仲間とともに、(現実に福島2号機で壊れた)圧力抑制プールの耐久性に疑問を抱き、安全調査が終わるまでいくつかの原発を止めるよう上司に進言します。しかし容れられず主任技術者は辞職、連邦議会の原発安全に関する公聴会で証言します。このときはMIT教授の、原発で死亡事故の起きる確率は50億分の1、原発は安全だという主張が大勢を制し、元主任技術者の意見は通りませんでした。原発の安全性を強調するMIT教授のレポートは日本にも伝えられ、関係者の間に浸透しました。
 状況が変わったのはスリーマイル島事故の後です。現実にメルトダウンが起きた結果を受け、米国原子力規制委員会により原発の安全性と対策の見直しが始まりました。特にマーク I については深刻な論争が続き、80年代の半ばには規制委員会も水素爆発が起きる可能性を想定していました。しかし電力会社のロビー活動もまた活発に行なわれ、結局1989年にまとめられた対策は、格納容器の圧力が上がったとき放射能レベルを下げて排気するウェットウェルベントを導入することのみでした。当時米国ではすべてのマーク I が地震・津波が少ないとされる東部に設置されていたため、この対策で一応収められたのです。しかし地震・津波の多発地域では安全評価はまったく別であり、廃炉さえ検討すべきだと、米国の規制関係者や研究者は語っています。

 日本には10基のマーク I があり、米国にあわせ1987年から原子力安全委員会で重大事故対策を検討しました。しかし肝心の原子炉電源喪失に関しては確率が低いと考え、またベントをつけているので、考慮しませんでした。
 1992年にまとめた「重大事故に対する安全対策報告書」では、冒頭から、日本では重大事故は現実に起きるとは考えられないほど、発生の可能性が十分小さいと書かれています。結論として、日本では重大事故が起きる可能性はほとんどないが、米国などの対策にならい、ベントを自主的に導入することを電力会社に促しています。
 チェルノブイリ事故の6年後であるにもかかわらず、日本の原子力安全関係者の認識は、13年前のスリーマイル島事故による見直し前の米国の当局者のレベルに止まっていたことが分かります。安全委員会が自ら「安全神話」を文書にして普及させていたのです。

 非常用ディーゼル発電機をバックアップと併せて海側タービン建屋の地下に設置していたことに対して、米国の研究者は、格納容器の設計ミス(容量が小さい)よりさらに重大な信じられない過ちとしています。日本の安全委員会の元部会長は、M9の地震と津波は未曾有なのだから想定しなかったのはやむをえないと語っていますが、米国の研究者は、想定範囲を規定しそれより大きな地震や津波の対策を考慮しない、それこそ大きな過ちであると断じています。

 間もなく大震災後半年を迎えようとする8月下旬になって、福島原発に関し重要な報道がありました。従来福島第1原発の想定津波高さは5.7mで、14mを超える津波は「想定外」と東京電力は説明してきました。ところが明治三陸地震の規模などを考慮すると、福島第1原発には最大10.2mの津波が押し寄せ、遡上高は15.7mに及ぶ可能性があるという試算を、2008年に社内でしていたことが明らかになったのです。
 当時の経営幹部はこの情報を把握していましたが、対策がとられることはありませんでした。試算結果は大震災の4日前に保安院に報告され、保安院は対策をとるよう指導したと言っていますが、当然間に合いません。東京電力は、試算は試算であり、想定ではないという説明を続けています。

 原発の危険性を指摘するこれだけの情報がありながらそれを一切無視してしまう日本の原子力社会とはいったい何なのか、それは戦後成長の中でどのようにして形成されたのか、福島第1原発の過酷事故が起きる前に、もちろん起きることは前提にしないで分析をしていたのが開沼博氏の修士論文です。
 この論文では日本の社会が、政官産学・マスメディアなどからなる中央(いわゆる原子力ムラ)と地方に分けて考察されています。地方はさらに、地方の政官(県レベル)産学・マスメディアなどと、原発とその関連施設を抱える地域社会(もう1つの原子力ムラ)に分けられます。論文では、この「もう1つの原子力ムラ」を主テーマに、「中央と地方」と「日本の戦後成長」の関係が論じられています。

 原子力に限らず、明治以来「中央」は開発と成長を求めてきました。1945年の敗戦まで、その矛先が向かったのは、海外の植民地拡大とそこからの資源獲得です。東北地方に対しては蚕糸業の育成と水田整理事業の着手がなされるくらいで、あとは労働力と食料の供給源として放置状態だったとされています。
 福島県の原発立地地域は、かつて「東北のチベット」「福島のチベット」と呼ばれる貧しいところでしたが、第2次大戦に際して陸軍の練習飛行場が建設され、また近隣地域にはウランの選鉱工場や風船爆弾の基地が設けられるなど、中央主導の総力戦体制に組み込まれていきました。飛行場の跡地では戦後一時、中央資本による塩田事業が営まれました。
 敗戦により海外植民地からの資源獲得が挫折した「中央」は、開発と成長のための新たな「植民地」を国内(地方)に求めることになります。これに対して地方は、戦後の貧困と相対的な未開発の中で発展を望み、民主主義下、中央主導の新たな総力戦体制の中に自らを主体的に組み込んで、中央への貢献の役割を果たしていこうとします。

 福島第1原発の誘致は、その後の原発建設のような反対運動もなく、福島県選出の国会議員や県知事の活動により積極的に進められました。着工は1967年ですが、61年には早くも双葉町・大熊町の両議会で誘致の意思決定がなされています。
 1968年以降の福島第2原発の計画推進にあたっては、公害問題の深刻化、環境に対する意識の高まりから、反対運動が起きます。しかし福島の場合もそうですが、ほとんどの原発建設において、反対運動は地域の人間関係を二分するような絶対的なものではなく、むしろ電力会社にプレッシャーをかけ、地域にとってより有利な条件を引き出すための活動と位置づけられています。
 反対派から推進派への転向もごく自然に行なわれていて、例えば1950年代末からの社会党員で町議・県議も務め、原発反対同盟の委員長だった岩本忠夫氏の場合、84年に離党、85年から20年にわたって双葉町長として原発の立地を推進しました。開沼氏はこれを、「推進/反対」からその前提としてあった「愛郷/非愛郷」へのコード転換と解しています。

 原発の誘致ほど魅力的な地域経済の振興策はありません。かつて「東北のチベット」「福島のチベット」と呼ばれていた福島県の原発立地地域は、1977年には1人当たり分配所得の県平均との格差が、大熊町208%、双葉町130%と、3位の県庁所在地(福島市)の126%を上回り、5位楢葉町120%、8位富岡町116%と、すべての原発立地地域がトップ8にはいっています。
 立地地域では住民の3〜4人に1人(約2世帯に1人)が原発関連で働くことができるようになり、以前のように遠隔地に長期の出稼ぎに出て危険な作業に従事する必要がなくなりました。
 多くの公共施設がつくられ、また東京電力もPR館で「ふれあいフェスタ」を開催、サッカー日本代表が合宿するJヴィレッジを建設し、なでしこジャパンの選手も輩出した女子サッカー部「マリーゼ」を発足させるなど、地域の統合と活性化に努めました。
 多くの施策が奏効し、3月11日まで福島は思いのほか「幸福」に満ちていて、町議会はオール与党状態、地方の原子力ムラでは、政治的にも経済的にも文化的にも安定した秩序が保たれていました。

 このように幸福に満ちた状態のとき、一般的に人々はリスクに対して思考停止に陥ります。住民たちは「みんな感謝してますよ。飛行機落ちたらって?そんなの車乗ってて死ぬのとおなじ(ぐらいの確率)だっぺって」「(原発が危険だとしても)出稼ぎ行って、家族ともはなれて危ないとこ行かされるのなんかよりよっぽどいいんじゃないかっていうのが今の考えですよ」と話していて、また前述の双葉町長・岩本忠夫氏は「スリーマイルやチェルノブイリのような事故につながっていくことは、日本の原発ではまずないと思っているのです。そのように信じて対応していかないと、これからの原子力行政に自ら携わっていくことができ難くなります」と語っています。事実上、地域の原子力ムラで原発の安全性をチェックすることはきわめてむずかしかったと考えられます。
 一方、中央の原子力ムラで東京電力や保安院のチェック能力はどうだったでしょうか。
大津波のような地域に特化したリスクを、遠く離れた中央の意思決定者が実感をもって認識することは困難だったのではないでしょうか。これは社内の試算結果として情報が上がってきた場合も同様です。
 対照的なのが東北電力の判断です。東北電力女川原発では想定津波高さを9.1m、敷地高さを15mとしています。また貞観大津波に関して1990年に堆積物の調査を行ない想定津波高さの確認をしています。このため3月11日の大津波による被害が軽微にとどまりました。これは東北電力の本店が(中央ではなく)仙台にあり、津波研究で多年の蓄積がある大学も地元にあることから、大津波のリスクが実感をもって認識でき対策を打てたからではないでしょうか。
 開沼氏の論文に、東北電力の原発設置に関し興味深いエピソードが載っています。福島県知事が県内の浪江・小高地区に原発を誘致するため、仙台の東北電力に社長を訪ねて陳情します。このときの社長の答えは次のようなものでした。「東北電力は本社が仙台にあるので、宮城県につくらずに福島県につくるわけにはゆきません。」

 中央の原子力ムラも地域の原子力ムラもリスクの認識がむずかしい以上、期待されるのは両者を媒介する県のレベルの対応です。福島県の場合、県知事の対応は今回の事故が起きるまで次の3つの段階があったとされています。
 1988年から18年間続いた佐藤栄佐久知事の任期の途中までは、歴代の知事が福島県における原発立地の強力な推進役を務めてきました。佐藤栄佐久知事も当初はその路線を継続していたのです(第1段階)。
 しかし東京電力のプルサーマル計画に関する約束違反や電力会社のデータねつ造、JCOの事故などが重なったことなどから知事は不信感を増幅、東電との軋轢が深まり、2001年2月知事は「原発もプルサーマルもすべて凍結。全部見直し」を表明し、県独自の検討会を設けて中央任せのエネルギー政策から脱却していこうとします。
 さらに2002年8月、東京電力のデータ改ざんが発覚、しかも内部告発を受けた保安院が2年間放置した上、告発者の氏名を東電に知らせていたことが判明、それまでのトラブルの積み重ねもあり、2003年4月東京電力のもつ原子炉は全基停止するに至りました。
 東京電力のみでなく中央の原子力ムラ各勢力と福島県知事との対立は深まり、中央の政策に抗する知事の姿勢には原発立地を推し進めたい地域の原子力ムラも反発、知事は四面楚歌の中で反中央の方針を堅持します(第2段階)。
 2006年9月、佐藤栄佐久知事は汚職事件に関与したとして追及を受け辞職(のちに逮捕)、その県政は終了します。第3段階、佐藤雄平知事が就任し、中央主導の原発推進政策が復活します。しかしこれまでの経緯から、佐藤雄平県政自体は、中央の動きに積極的な推進も反対もしない状況にありました。原発を推進したい中央の原子力ムラと、これを受け入れたい地域の原子力ムラが共鳴して強力なカップルを形成し、県の役割は消滅したとも見なされています。

 2007年7月、中越沖地震のため柏崎刈羽原発で火災などのトラブルが発生、微量な放射性物質の漏れも起き、原子炉は全面緊急停止、その後長期間の運転休止を余儀なくされました。地震の8日後、日本共産党福島県委員会等は、佐藤雄平知事と東京電力・勝俣社長に、津波対策も含め福島原発の耐震安全性への対応を求める申し入れを行ないましたが、対策はとられませんでした。佐藤栄佐久県政が継続していたら、別の対応がなされた可能性があります。

 振り返ってみると、4年前に大問題になった年金記録管理システムの問題についても、厚労省、社会保険庁、システム開発の元請け会社、協力会社などが「年金ムラ」を形成していたことが考えられます。情報システム学会が今後、多岐にわたる社会的な問題を抜本的に解決していくためにも、開沼博氏の「「フクシマ」論」のように精細な歴史社会学的な取り組みは、参照に値すると思われます。

この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。
皆様からもご意見を頂ければ幸いです。