情報システム学会 メールマガジン 2011.3.25 No.05-12 [7]

連載 情報システムの本質に迫る
第46回 数学者の 「社会への提言」 (下)

芳賀 正憲

 邪馬台国は、中国の歴史書・魏志倭人伝に記されている、戸数7万余の日本の王国です。239年中国に使節を送り、翌年中国の使節が同国を訪れました。「倭人伝」は、この中国使節の出張報告をもとに書かれたと考えられますが、旅程の表記に使われた1里が、当時標準の430m前後ではつじつまが合わないこと、記事中に多数出てくる地名と距離・日数がどのような関係になっているのか読み取りにくいことから、さまざまな解釈が生まれ、今まで邪馬台国の所在地については、東日本から九州まで多数の主張がなされています。
 それに対して、金沢大学・半沢英一博士は、「倭人伝」の1里の長さと語法の根拠を、中国古代の数理科学書に求めれば、旅程の記事を整合性高く読み取ることができ、邪馬台国の位置決めが高い確度でできることを見出され、本年それらを立証する著書「邪馬台国の数学と歴史学」(ビレッジプレス)を出版されました。この著書は同時に、多岐にわたる情報を取捨選択して、どのように論理的に組み立てれば精度の高いモデリングができるかを学ぶ絶好のテキストにもなっています。

 最初に、「倭人伝」の1里の長さはいくらで、その根拠はどこにあるのか、なぜこの里単位が使われたのかという問題です。
 旅程記事の中で確かと考えられる地名をもとに、その間の距離から逆算すると、1里は70〜90mになります。ここで半沢氏は、中国の使節が旅程を記録するため、何らかの計測をしながら邪馬台国に至ったと考え、その前提に、「周髀算経」(しゅうひさんけい)や「九章算術」(きゅうしょうさんじゅつ)という当時の数理科学書の知識があることを想定しました。
 「周髀算経」は、紀元前1世紀くらいに編纂された現存最古の中国天文学書で、その中に一寸千里説とも呼ぶべき考え方が示されています。夏至の日、基準地点に8尺の観測棒を垂直に立てると影の長さは1尺6寸になります。そこから真南に千里行くと影の長さは1尺5寸、真北に千里行くと影の長さは1尺7寸になるというのです。
 在野の研究者・谷本茂氏が、地球の半径が6357kmで、太陽光は地球にほぼ平行にはいってくることを前提に、夏至の日に8尺の棒の影の長さが1尺6寸になる緯度を求めると、西安あるいは洛陽の緯度にほぼ一致しました。また、南北千里は、76〜77kmとなり、1里が76〜77mに相当することが計算されました。これは、倭人伝の1里と想定される長さによく対応しています。

 「九章算術」は1世紀後半に編纂された中国最古の数学書で、9章に分かれた問題集から成り立っています。その「九章算術」に、「倭人伝」の書かれた魏代から晋代にかけての大数学者・劉徽(りゅうき)がつけた序文に、一寸千里説と同じ記述があります。また同じく劉徽がつけた付録の中に、陸から海中の島までの距離を計算せよという問題があり、一寸千里説の考え方で解くことができます。
 「倭人伝」に記されている、朝鮮半島南岸から対馬、対馬から壱岐、壱岐から九州北岸までの海上距離がどのように測られたかということは長年疑問でしたが、「九章算術」の付録と同じ、一寸千里説で計算できます。もちろんこのような長距離の場合、対岸を見通すことはできませんが、地上に垂直に立てた8尺の棒の影の長さを、出発地と到着地で測り、1寸縮んでいたら千里南下したと判断すればよいと半沢氏は考えました。

 しかし1里の長さは度量衡の単位ですから、文献に根拠が存在するだけでなく、制度として採用されていたかどうかも問題になります。これについて半沢氏は、古代史研究家・秦政明氏の考察をもとに、次のような見解を述べられています。
 中国の王朝には、自らの天命に即し、前王朝の暦・法律・度量衡の制度を改め、新たに制定する「受命改制」の思想があります。魏の場合、蜀・呉との間で独自性を発揮する必要があり、特に漢を継いだという蜀に対抗するためにも、復古主義が強調されました。このため、237年に行なわれた受命改制で、古来の思想・一寸千里説にもとづく単位が、(三国志的状況が終わるまで短期間ですが)採用されることになりました。中国(魏)の使節が邪馬台国を訪れる3年前のことであり、このため「倭人伝」の距離が一寸千里説にもとづく単位で記述されたのです。

 1里の長さの問題が解決したので、次は、「倭人伝」の記事は、どのようにしたら整合性高く読み取ることができるかという問題です。
 ポイントは、書かれている距離や日程、方角は正しいという前提のもとに、実際に移動した主線行程と、参考までに記した周辺諸国までの距離や(移動したと想定したとき)かかる日数(傍線行程)を区別して整理することです。このとき、各地点間の実際の移動距離の総和が、総移動距離として記されている1万2千余里に等しければ、整合性は確保されたと考えます。

 「東行不弥国(ふみこく)に至る百里」と「東南奴国(ぬこく)に至る百里」のように、「至る」に先行して動詞(行など)があるかないかで、実際(主線)行程と傍線行程を区別して整理する発想は、歴史研究家・古田武彦氏の、優れた功績ですが、残念ながら中国の史書に根拠を見出すことができません。しかし半沢氏は、先に挙げた数理科学書「周髀算経」と「九章算術」の中にその区別を発見しました。
 まず「周髀算経」には、先行動詞のない「至る」があり、距離による位置関係を表わしています。また「九章算術」でも先行動詞のない「至る」は、移動を伴わない単なる距離を表わしていますが、こちらには動詞が先行した「至る」もあり、移動するイメージが表現されています。

 驚くべきことに「九章算術」の第八章「方程」では、世界ではじめて連立線形方程式の消去法による解法が展開されています。消去法を行なうには、マイナスやゼロを取り扱う必要がありますが、同書でマイナスの数は「負数」、ゼロは「無入」と書かれています。一般に、ゼロは6世紀インドで発見されたとされていますが、そのはるか前、中国でゼロの概念が提示されていたのです。
 ギリシャの古代数学が、厳密に抽象的な論理の発見に関心を注いでいたのに対して、中国では徴税や土木工事、旅程の計算などに関連し、具体的な量を数で表現して取り扱い、面積・体積の計算や測量技術を発達させ、連立方程式の一般論まで展開していたのは、数学の歴史における偉大な業績と言えます。
 ただゼロの記号まではできていなかったので、ゼロは算籌(さんちゅう)(計算のための竹の棒)では棒を置かないこと、言葉では「無入」で表現されていました。「倭人伝」の旅程で、不弥国(ふみこく)のあとは「南、邪馬台国に至る」とあるのみで、距離の表示がないため、この間の距離はゼロ(隣接)というのが古田氏の主張ですが、半沢氏は記入のないこと(「無入」)からその根拠を明確にされました。

 このほかにも、最初船で出発した後、朝鮮半島のどこで上陸したのか、「方三百里」のように300里四方と近似された島内の通過距離をどのようにカウントするのか(600里、すなわち半周とカウントする)など多くの検討を加えられた結果、中国使節が実際に移動した主線行程と各地点間の距離をすべて確定することができました。その合計は1万2千余里となり、「倭人伝」に総移動距離として記されている1万2千余里に一致しました。

 主線行程と距離が判明したので、次はいよいよ邪馬台国所在地の確定です。
 中国の使節は、壱岐から海を渡り、「末盧(まつろ)国」に上陸、「伊都国」に陸行しています。江戸時代、新井白石が末盧国を松浦郡(唐津市)、伊都国を糸島郡(前原市)と推定して以来、これが通説になり、支持する研究者も多いのですが、壱岐と松浦郡の距離は50km程度で、76〜77km強とする「倭人伝」の記事に合わない、また伊都国は末盧国の東南と書かれているのに前原は唐津の東北にあることなどから、半沢氏はこの通説をまちがいとされています。

 半沢氏の推定した中国使節の行程は次のとおりです。
 使節は壱岐から70数km渡海し、博多湾岸に上陸しました。ここには邪馬台国と同時代の西新町遺跡があり、末盧国の第一候補になります。そこから30数km太宰府地峡を南東に進み、筑後平野に出て、福岡県小郡市に至りました。ここに伊都国があったと考えられます。そこから東に7〜8km行ったところが不弥国で、邪馬台国はそのすぐ南にありました。現在の福岡県朝倉市(旧甘木市)です。
 実は「倭人伝」に、不弥国からは南へ水行二十日で投馬国に至るという記事があったため、隣接する邪馬台国も海岸部になければならないという説がありましたが、内陸部からでも筑後川を利用して十分水行が可能であると半沢氏は判断しました。
 甘木に関しては、古事記や日本書紀をもとに邪馬台国の所在地であったと主張する高名な研究者もいるのですが、「願望の過去」を表わした神話は論拠にならないと半沢氏は批判しています。
 考古学的には、甘木周辺で箱式石棺が出土しています。「倭人伝」に「その死には棺あるも槨(かく)(棺を入れる外箱)なく」と記述されており、整合しています。

 周知のように、1世紀半ば、後漢の光武帝が倭奴国王に金印を贈り、その金印はのちに博多湾岸・志賀島で発見されました。2世紀初頭、後継者と目される倭王が、後漢に朝貢したことが記録されています。1世紀博多湾岸に集中していた弥生遺跡が3世紀には筑後川流域に中心を移しており、倭奴国後継の王権が3世紀前半甘木に存在したという想定は自然なものであると半沢氏は述べています。

 最後に半沢氏は、邪馬台国がその後どうなったか論じています。

 3世紀の後半から6世紀にかけて、日本では秋田・青森以北と沖縄を除いて、吉備地方が起源とみなされる前方後円墳が急展開していきました。その総数は数千基にも及んでいます。圧倒的な労働力や鉄資源が大和・河内・和泉に集中していたこともあり、同時期最大の前方後円墳はこれらの地域でつくられていました。その被葬者が倭王であり、日本列島の広い範囲が、これらの地域を中心に統合状態にあったと考えられます。(その政治的統合には、前方後円墳の前方部を使った共通の(首長埋葬)祭祀の採用が大きな役割を果たしたと推察されています。)
 このようなことから、邪馬台国の所在地を大和地方とする主張は多く、例えば、奈良県の箸墓(箸中山)古墳を卑弥呼の墓とする見方が存在します。しかし「倭人伝」には、卑弥呼の墓は径140mと記載されているのに、この古墳は280mの大前方後円墳であり、また徇葬(じゅんそう)者百余人と記載されているのに、その痕跡がありません。「棺あるも槨なく」と書かれていますが、箸墓(箸中山)古墳は、この時代の特徴から木棺を収めた竪穴式石槨である可能性が大です(陵墓のため未調査ですが)。
 前期の前方後円墳からよく出土する、239年・240年の元号を銘刻した三角縁神獣鏡が、魏が卑弥呼に与えた銅鏡100枚の一部で、卑弥呼が各地の首長に配ったものではないか、配布の中心大和に邪馬台国があったのではないかと考える歴史家も多くいます。しかし、中国の図録や博物館の収蔵物に三角縁神獣鏡はまったく見当たらず、またこの鏡がすでに500枚出土していて、もとは数千枚あったと考えられること、工人の渡来を伺わせる銘文のある鏡が出てきたこと、文様に中国鏡にない要素があることなどから、日本に来た中国の鏡工が、王権の要求で大量生産した可能性が高くなりました。

 「倭人伝」等に見る邪馬台国のその後は次のとおりです。
 邪馬台国には、狗奴(くぬ)国という敵対勢力があり、それに対抗するため中国王朝の権威を必要としていました。そのため247年の戦争をきっかけに、中国の使節が再び訪れました。
 卑弥呼の死後、男王が立ちましたが、国が乱れ、13歳の少女・壱与が立ってようやく治まりました。狗奴国との戦闘やその後の内乱収拾、壱与の擁立などに中国使節が大きく関与しています。
 「晋書」によると、266年壱与とみられる倭の女王の使節が晋に来て貢献しています。

 史書に記録された邪馬台国の歴史はここまでですが、見るとおり、この国は弱体政権でした。エネルギーに満ち溢れた前方後円墳王権にかなうべくもありません。
 考古学的にも九州は前方後円墳時代の創出に動いた形跡はなく、逆に遅くとも4世紀前半には前方後円墳分布圏に組み込まれています。
 邪馬台国は、もちろん東遷するだけのエネルギーも、九州で独立王権として存続するだけの力もなく、3世紀末には前方後円墳王権に併呑されたのではないかと半沢氏は推測しています。あわせて、邪馬台国の脅威となった狗奴国とは、前方後円墳王権またはその前身であり、箸墓(箸中山)古墳は狗奴国男王の墓ではないかと洞察を進められています。

 歴史は社会システムの状態遷移ですが、多くの史料情報を検証した上で推論を積み重ねて、説得力の高いモデルを組み立てられる半沢氏のアプローチには、いつもながら啓発されます。

 この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。
皆様からもご意見を頂ければ幸いです。