情報システム学会 メールマガジン 2010.1.1 No.05-09 [15]

連載 プロマネの現場から
第33回 『繁栄』・・2011年新年にあたって

蒼海憲治(大手SI企業・金融系プロジェクトマネージャ)

 昨2010年は、サブプライム問題から4年経過し、ITシステム投資そのものは若干回復基調にあるといわれながら、ここ数年のトレンドであるオフショア開発やニアショア開発の定着によるエンジニアの実質単価の切り下げが進みました。従来の受託開発からサービス化への転換途上のため、ITベンダとしては厳しい状況にあるのかもしれません。
 しかし、昨年は、チリ鉱山での落盤事故とその後の33名全員の奇跡の救出劇があり、助かった人だけではなく、見守った世界中の人々に勇気が与えられました。地下に閉じ込められた作業員とそのリーダーの心境に少しでも思いを致すなら、どんな状況下にあっても、前向きに取り組まなければと思い直します。

 最近読みごたえのあった本に、マット・リドレーさんの『繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史』がありました。著者は、生物学関係の科学啓蒙書を多数発表されている方です。リーマンショック以降の総悲観論の中、生物学的視座に立った上で、人類5000年の歴史というスパンではなく、人類が人類となる前にさかのぼって10万年のスパンで俯瞰しています。この10万年の間、人類は大きく力強く前進し続けてきたし、また、人口爆発、食糧問題、エネルギー問題、環境汚染等があろうとも、これからも必ず良い方向へ前進し続けるはずだと語ります。

 今よりも昔の方が暮らしやすかった。たとえば、昔の生活には、素朴さや静謐さ、豊かな人間関係や立派な徳や高い精神性があったのに、現代人にはそれらが失われてしまったのではないか、という人もいるかもしれません。未来に対する悲観論、その裏返しの過去への憧憬について、マット・リドレーさんの『繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史(上)』には、次のようなたとえ話が示されています。その内容は、とても衝撃的です。

 まず、1800年頃の西ヨーロッパか北アメリカ東部を想像してみてください、といいます。読み進むにしたがい、なんとも牧歌的な場面が脳裏に描かれます。

≪木骨造の質素な家の炉辺に家族が集まっている。
父親が声に出して聖書を読むなか、母親が牛肉とタマネギのシチューを装おうとしている。赤ん坊は姉の一人があやし、長男はテーブルに置かれた陶器のマグに水差しから水を注ぎ、彼の姉は厩で馬に餌をやっている。
外では自動車の騒音は聞えないし、麻薬のディーラーも見当たらず、
牛の乳からダイオキシンや放射能が検出されることもない。
まったくのどかで、窓の外では鳥が鳴いていて・・≫

 と続くところで、リドレーさんは突然、「待った! 現実はそれほど甘くない。」と遮ります。

 ≪一家は村でも豊かなほうだが、父親の聖書の朗読は気管支炎による咳でたびたび
 中断する。
 肺炎の予兆で、この病気のために、やがて彼は53歳で亡くなる。≫
 それでも、イングランドの平均寿命は40歳だったので、幸運な方だといいます。
≪赤ん坊は天然痘で亡くなる。今、この子が泣いているのも、じつは天然痘のせいなのだ。≫
≪長男が注いでいる水は牛のような味がする。
 汲んできた小川の水を牛たちも飲んでいるから。≫
≪シチューは灰色で肉は筋だらけだが、いつもはオートミール粥だから、
 これでもごちそうだ。・・
 この季節には果物もサラダもない。
 ロウソクは高価なので、明かりと言えば、燃える薪の放つ光ぐらいだ。≫
≪家族のなかで演劇を見たり、絵の具で絵を描いたり、ピアノの演奏を聞いたりした
 ことのある者は一人もいない。≫
 学校の授業は、牧師の教える退屈なラテン語のみ。
 父親は生涯で一度だけ村を出て、町に行ったことがあるが、その時の旅費は1週間分
 の賃金に相当した。他の家族は、半径2、30キロの範囲を出たことがない。

 衝撃の描写が続くのですが、自給自足が基本であった1800年時点の経済統計をみれば、これに近い状態だったのだと思います。

 1790年のイギリスの農業労働者は、食糧に75%、衣料と寝具に10%、家賃に6%、暖房費に5%、照明と石鹸に4%使っていた。・・ここに娯楽や医療や貯蓄はない。
 一方、2005年の平均的イギリス人であれば、家賃に20%、自動車・飛行機など交通費に18%、住居関連に16%、食べ物・外食に14%、医療に6%、映画・音楽など娯楽に5%、衣料に4%、トイレタリー・化粧品・散髪に1%、貯金に11%を使っているといいます。
 現在の先進国に住む平均賃金を得る人々の生活は、太陽王と呼ばれたルイ十四世よりもはるかに豊かになっているし、また、どんなにお金があったとしても、技術革新そのものがなされる以前は、現在の衣食住環境を得ることは不可能でした。
 世界レベルでみると、貧困問題は依然深刻ですが、過去20年間を見ても、金持ちはさらに金持ちになったが、貧乏人はそれ以上に豊かになっている、と指摘されています。
 日本においても、数年前、昭和30年代ブームや「三丁目の夕日」が流行りました。個人的には、映画も西岸良平さんの原作も、とってもヒューマンでほのぼのとして大好きなのですが、実際には、犯罪率や貧困率は、現在の日本の方がいかに改善されているか、比べるまでもありません。

 また、この本でリドレーさんは人類最大の謎と呼ぶ東西10万年を通じて人類が発展し続けた理由を考えています。
 この「文明を駆動するものは何か?」に対する答えを、ズバリ人類の繁栄は、分業・専門化・交換にあったからだ、と結論づけています。

≪人間は交換によって「分業」を発見した。
 努力と才能を専門化させ、互いに利益を得るしくみだ。・・

 専門化は革新(イノベーション)を促した。
 道具製作用の道具を作るために時間を投資することを促したからだ。
 それが時間の節約につながった。
 そして繁栄とは端的に言うと節約された時間であり、節約される時間は
 分業に比例して増える。
 人間が消費者として多様化し、生産者として専門化し、その結果、
 多くを交換すればするほど、暮らし向きは良くなってきたし、
 これからも良くなるだろう。≫

 専門化し、それによってテクノロジーの革新が引き起こされ、さらに専門化が促進され、交換が可能になる。そして、進歩が生まれる。テクノロジーと習性が人間の体より速く進化する、というカタクラシーを手に入れた。カタクラシーとは、交換と専門化によって自発的に起きる秩序を指すハイエクの造語ですが、このカタクラシーが拡大し続ける、といいます。

 IT業界における「分業」について、参考になる提言があります。昨年5月に、高度情報通信ネットワーク社会推進戦略本部より出された「新たな情報通信技術戦略」や、経済産業省産業技術環境局の情報電子標準化推進室による「情報経済革新戦略と標準化―新成長戦略への取り組み紹介―」によると、今後のIT基盤は、クラウドコンピューティングとなることがベースになるであろうことを明確に意識されています。その上で、IT業界構造そのものも再編が進む、といいます。
 現在の産業構造は、元請けベンダ(SI)の下に、膨大な下請けベンダがぶらさがる「受託開発型の多重下請構造」となっています。しかし、今後の産業構造は、顧客のニーズに合った多様なサービス・コンサルティングを提供する「総合SIベンダ」や「データセンタ業」とともに、個別サービスやプロダクトを提供する「アプリベンダ」「受託開発」「運用/保守」を担うベンダ、さらに、「SaaSベンダ」、「地域密着型コンサル」、「BtoCベンチャー」など、様々なプレイヤーが「協業関係」を作り、ユーザ、ユーザ企業へサービスを提供するかたちになるのではないか、と提言されています。
 今後、自社の得意分野を踏まえて、どういう道を選択するかが問われているのだと思います。

 最後に、マット・リドレーさんの著書『繁栄』の原語タイトルを直訳すると、「合理的な楽観主義者」となります。つまり、事実を知って楽観主義であるべきだ、というアドバイスになっています。

 IT産業やITを用いた世界の明日をどう形作っていくかについて明確なビジョンを持ち得ていないのですが、「合理的な楽観主義者」として目線を上げて一年間過ごしていきたいと思っています。