情報システム学会 メールマガジン 2010.11.25 No.05-08 [7]

連載 システムの肥大と人間の想像力
第3回  「あいまい領域」 の構築

サイバーリテラシー研究所代表(サイバー大学IT総合学部教授)
矢野 直明

 横綱白鵬の連勝記録は63で止まった。双葉山の69連勝に届かなかったわけである。これを報じた日本経済新聞のスポーツ欄に、双葉山が70勝を達成できなかったときのエピソードが紹介されていた。
 陽明学者の竹葉秀雄氏が気遣って電報を打った。「サクモヨシ チルモマタヨシ サクラバナ」。これに対する双葉山の返電が「ワレ イマダ モッケイニアラズ」だったが、記事によると、そのあと双葉山は竹葉氏に「サミシイデス スグオイデコウ」と打電したという(1)。
 ここに心を打たれる。
 偉丈夫がその大きな体に、深い悔恨とかすかな安堵感を背負って坐っている。通信手段が電報だったことは、自分と対話する十分な時間を与えたことだろう。ケータイと違うのはそのところである。
 昔、「めぐり逢い」(1957年公開)というハリウッド映画があった。年配の方は懐かしく思い出すだろうが、ケーリー・グラントとデボラ・カーが競演したメロドラマである。豪華客船の甲板で出会った美男美女が一目で恋に落ちて、数か月後にマンハッタンのエンパイアステートビル屋上で会う約束をする。しかし、彼女は現れなかった。傷心の男は鬱々たる日々を過ごすが、数年後にある劇場で図らずも観劇中の彼女に会う。性急に詰問する彼に、彼女は困惑しつつもよそよそしい態度をとる。やはり心変わりしてしまったのか。立ち去ろうとする彼は、そのとき、彼女が車椅子に乗っていることに気づく。
 彼女は約束の日にビルの下まで来た。屋上では彼が待っているはずだと、それこそ上の空で道路を横断した彼女は、車にはねられ重傷を負う。恋人たる資格を失った彼女は、その後も彼に連絡しなかった。まったくの偶然が、2人を再びめぐり逢わせたわけである。
 ケータイ時代にはこういう話は起こりようがない。だからいまメロドラマは生まれにくい。障害が大きければ大きいほど私たちの感情は高ぶるが、便利なツールがそのせつなく甘い、あるいは狂おしい絶望といった心的過程をカットしてしまう。「あっ、そういうことだったの」で終わりがちである。
 今回の愚問は、現代IT社会は深いところで私たちの心のひだをなくしてしまうのではないか、ということである。それは心の「ため」がなくなるとも、倫理観の喪失とも言えるだろう。「サイバーリテラシー3原則」を補足すれば、サイバー空間はあいまい領域をなくしてしまう。
 たとえば、村木厚子厚生労働省元局長が無罪になった郵便不正事件で、大阪地検特捜部の主任検事が証拠書類を改ざんしていたが、そのポイントはフロッピーディスクだと言えなくもない。
 フロッピーディスクに入っていた偽の証明書の作成日時は2004年6月1日だったが、これは同年6月上旬に村木局長が上村係長に証明書を作成するように命じたという捜査の筋書きに合わなかった。そのため、検事は今年7月に日付を6月8日に書き換えた。
 事件の見立てと証拠が食い違えば筋書きの方を再検討するのが当たり前なのに、逆に証拠の方を書き換えたわけである。押収した紙の書類のデータを、工作の痕をまったく残さずに書き換えるのは難しいが、電子メディアでは加工が自由自在で、しかも加工された痕跡もまたふつうには残らない。ここが味噌である。もう一つ、証拠として提出されないデータを書き換えて、ほどなくして被告側に返還したのも味噌といえば味噌で、別ルートで紙の捜査報告書が法廷に提出されていなければ、彼の思惑通りに運んだかもしれない。
 結論的に言えば、フロッピーディスクという電子メディアだったからこそ、検事は改ざんに安易に手を染めた可能性が強い。もちろんこういうことが電子メディア以前になかったという保証はないが、ここでは、証拠資料の扱いは慎重でなくてはいけない、事実を重んじなければいけないという捜査の鉄則、あるいは検察官の職業倫理が、フロッピーディスクという電子メディアによって薄められていく側面に注目したい。

 同じころNHK記者が相撲協会への家宅捜索情報をケータイ・メールで当の相撲協会関係者に教えるという事件もあった。危うい情報を証拠が残るケータイ・メールで送るというのは理解に苦しむが、ケータイ・メールだからこそ安易に一線を越えた可能性もある。
 手紙を書いてポストに投函するまでに時間がかかるという現実世界の制約は、途中で思い直すという行動の歯止めを生む可能性があるし、電話で話したり、直接会ったりしようとすれば、やはり通報を躊躇するかもしれない(躊躇しないかもしれないけれど(^o^))。
 子どもが本屋の店頭でアダルト本を見ようとしても、店主や周囲の目が気になって、見ようとして見られないわけではないけれど、どうも見づらい。だから見ないことで、一定の社会秩序(倫理)が保たれる。ウエブ上ではそういうしがらみがない。アダルトサイトには、18歳以上と以下を選択する段階を設けているものが多いが、ただのクリック1回の差である。これでアダルトサイトから未成年者を排除する歯止めをかけることは難しい。

 IT社会においては、心の「ため」とでもいうべきしなやかさが失われがちである。こう言うと、細かいことを気にしすぎるとか、便利なツールを使うことを規制すべきでないという反論が出るだろうし、一方では、法による取り締まりを強化すべきだという意見もあるだろう。子どもたち(デジタルネイティブ)には新しい感性が育ちつつあるのだと達観する見方もあろう。しかし、便利だが暴走もする「技術」と、強制力はあるが対策としては後手に回りがちな「法」の間に、個人一人ひとりの自律的な「倫理」の領域を確保することがいよいよ重要ではないだろうか。
 『サイバーリテラシー概論』の冒頭に掲げた応用倫理学の先駆、加藤尚武の以下の文章は、サイバー空間に「あいまい領域」を創造する重要性を指摘していると思われる。
「素朴な自然主義への復帰はもう不可能である。人間は自分で自然を設計し直さなくてはならない。人工的に反人工的な自然を保持しなくてはならない。本当の自然らしさを設計しなくてはならない。この逆説に耐えて実践的に切り抜けることが,科学/技術のゆくえにまつ人間の責務である」


(1)この記述はウエブの記事にもある(http://cherrychan.exblog.jp/12281028/)。双葉山に木鶏の故事を最初に伝えたのは安岡正篤で、打電も安岡宛であるとの説もある。また、私が記憶していたのは「我いまだ木鶏たりえず」という文章で、ここでの電文とは少し違うが、この辺は詳らかにしない。
(2)加藤尚武『価値観と科学/技術』(岩波書店、2001)。

 この連載は、愚問を発し読者諸兄姉の賢答をお願いする「愚問賢答」方式で進めています。賢答をお待ちします(^o^)。なお、コラムへの感想を1通いただきました。ありがとうございました。サイバーリテラシーについては、折々に説明もしますが、詳しくはサイバーリテラシー研究所のウエブ(http://www.cyber-literacy.com/ja/)や拙著『サイバーリテラシー概論』(知泉書館、2007)を参照してください。
 なお私のメールアドレスは、yano■cyber-literacy.comです。