情報システム学会 メールマガジン 2010.9.25 No.05-06 [9]

連載 システムの肥大と人間の想像力
第2回 TigerTextと 「情報の時効」

サイバーリテラシー研究所代表(サイバー大学IT総合学部教授)
矢野 直明

 2010年春、アメリカで「タイガーテキスト」というアイフォン(iPhone)のアプリケーションが話題になった。日本ではまだ利用できないようだが、このソフトウエアを使って送ったメールは、送信者が設定した期限がたつと、自分の端末からも、相手の端末からも、さらには特別に設置されたサーバーからも削除される。存続期間は送信者が設定できるし、相手が読んだら1分後には消えるように設定もできる。
 ふだん私たちがやり取りしているメールは、送信者が削除しても、相手が保存しておけば存続するし、プロバイダーなどのメールサーバーには一定期間、保存されている。タイガーテキストを使って送信したメールは、サイバー空間から完全に削除できるというのが工夫である。
 このアプリケーションを開発したベンチャー企業、X Sigma Partnersの創業者、ジェフリー・エバンズは開発の意図を、「しゃべるように気軽に書いたテキストが、文脈から切り離されて、思いもよらぬ形で本人を直撃することがよくある」、「ビジネスや一般のメールのやり取りでも、相手の端末からすぐ削除してもらいたいと思うことは多い」などと述べ、2010年2月の製品発表会では、太陰暦で今年の干支がトラであることに言及し、「タイガーテキストで送ったメッセージは本物のトラと同じように追跡が難しい」と語ったらしい(1)。
 米CNNテレビは有名なドラマ「スパイ大作戦(Mission:Impossible)」を持ち出して紹介した。ドラマの冒頭、現場のスパイたちに「おはよう」で始まるテープで指令が伝達されるが、「君、もしくは君のメンバーが捕えられ、あるいは殺されても、当局は一切関知しないからそのつもりで。成功を祈る」と続く録音の最後は「なおこのテープは5秒以内に消滅する」というセリフだった。
 「タイガーテキスト」という命名は、プロゴルファー、タイガー・ウッズのセックス・スキャンダル発覚前だと製造元は言っているが、タイガーという名前と発表のタイミングから、このアプリケーションはタイガー・ウッズのスキャンダルとの関係でメディアを大いににぎわせた。
 タイガーテキストを使ってメールを送れば、ウッズのように、特殊な関係になった相手に送ったメールの内容を、後に対価を得て暴露されることもないわけである。同ソフトで送られてきたメールはコピーしたり、転送したり、保存したりできない(工夫すれば、もちろん別に保存できるが、ふつうにタイガーテキストを使っていれば保存できないようになっている)。

 「サイバーリテラシー」では、デジタル情報環境であるサイバー空間のアーキテクチャーの特徴を以下の3点に絞り、これを「サイバーリテラシー3原則」と呼んでいる。
  第1原則 サイバー空間には制約がない
  第2原則 サイバー空間は忘れない
  第3原則 サイバー空間は「個」をあぶりだす
 今回のテーマに関係するのは第2原則である。
 日常、私たちが発言したことは、ほうっておけばすぐ忘れられる。しかも、回りにいるごくわずかな人にしか届かない。それを記憶するためには、何度も反復するなり、メモをとるなり、録音するなり、ビデオに収めるなり、なんらかの努力を払わなければならない。そういった努力の一環として、さまざまな出来事を記録し、多くの人に伝えるためのメディアが発達したが、アナログの時代では、新聞は1日たてばせいぜい包装紙代わりに使われるだけで、ラジオやテレビは聞きっぱなしが普通だった。だからこそ私たちは「ひとのうわさも75日」、「旅の恥は掻き捨て」などと、安心していられたわけである。情報を記録し、伝達し、保存するためにこそ大いなる努力が必要だった。
 サイバー空間だと、これがまるで逆になる。いったんデジタル化された情報は、ほぼ永久に消えない。しかも瞬時に遠くまで伝えられる。サイバー空間上の自分の発言を削除しても、その情報はすでにコピーされ、どこかに保存されているだろうから、並大抵の努力では削除できない。いや完全に消し去ることは、すでに不可能だといっていい。サイバー空間では、情報を記憶、あるいは記録することにはほとんど努力を必要とせず、逆にそれを削除するためにこそ大いなる努力が要請される。
 「サイバー空間は忘れない」ことは、サイバー空間のたいへん便利な特徴だが、一方で、これがプライバシーなどやっかいな問題も生んでいる。しかし、技術で作られたサイバー空間を技術で変えることは不可能ではないはずである。私たちは、そろそろサイバー空間のアーキテクチャーそのものを抜本的に考え直してもいいのではないか。たとえば、サイバー空間の情報にも「時効」を設定できないだろうか、というのが今回の愚問である。
 タイガーテキストは、メールだけという限定はあるものの、「サイバー空間は忘れない」という「アーキテクチャー(コード)」を一部「サイバー空間も忘れる」ように書き換えたとも言えるだろう。ハワード・スターンのような色事師は、タイガーテキストをすばらしいツールだと宣伝したし、タイガーテキストで人びとはより容易にうそをついたり、人をだましたりするようになると、いささか心配気に論評した人もいる。そういう点も含めて、何かいい方法はないものかと思うわけである(2)。
 私は、サイバーリテラシーの課題として「現実世界の復権とサイバー空間の再構築」を挙げ、サイバー空間との接触で揺れ動く現実世界とサイバー空間のあり方を、より豊かなものに再構築することが大切だと考えている。

 この連載は、愚問を発し読者諸兄姉の賢答をお願いする「愚問賢答」方式で進めようとしています(^o^)。サイバーリテラシーについては、折々に説明もしますが、詳しくはサイバーリテラシー研究所のウエブ(http://www.cyber-literacy.com/ja/)や拙著『サイバーリテラシー概論』(知泉書館、2007)を参照してください。
 なお私のメールアドレスは、yano■cyber-literacy.comです。


(1)「送信済みメッセージを削除するiPhone向けアプリ発表、米ベンチャー」(2010年2月27日、http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/it/2702726/5410610
(2)New York Timesの以下の記事は、「サイバー空間は忘れない」ことをテーマに、それに対抗する、あるいはそれを緩和するためのさまざまな技術的、法律的な試みをリポートしたものとしてたいへん興味深い。(Jeffrey Rosen The Web Means the End of Forgetting Published: July 21, 2010)