情報システム学会 メールマガジン 2010.8.25 No.05-05 [7]

理事が語る 「不安とシステム開発」

理事 石井信明(文教大学)

 2010年度より、情報システム学会の理事に選出されました、文教大学の石井信明です。よろしくお願いいたします。理事として学会に貢献できることがあるのか、正直なところ自信はないのですが、まずは、「理事が語る」への寄稿をいたします。まとまりのない内容で大変恥ずかしいのですが「不安とシステム開発」について、述べさせていただきます。
 いきなりどうでも良い話ですが、約半年前に、家電量販店でインクジェットプリンターを購入しました。通常の仕事で使うことを考えると、カラー印刷ができ、スキャナーがあれば緊急時にはコピーもできるので、それらがそろった製品の中からお買い得なものを購入する予定でした。しかし、店員さんに商品説明をしてもらい、迷ったあげく少し予算オーバーの製品を購入しました。それには、他の製品よりも感度の良いスキャナーが付いており、ネガフィルムのスキャンができるとのことです。また、無線LAN機能があり、ケーブルをつながなくても良いので離れたところからでも印刷ができ、大変便利とのことでした。
 プリンターそのものは大変良いもので、全く不満はありません。数万円のものとは思えないほど、きれいに、素早く印刷できます。しかし、購入時のポイントであったフイルムスキャンは2,3回試したものの、無線LAN機能は現在のところ使用せず、USBケーブルでパソコンと接続しています。
 今回のプリンター選定では、将来使うかもしれないとの考えから、フイルムスキャン付きのものにしました。また、パソコンと離れた場所にプリンターを設置する状況が将来あるかもしれないと考え、無線LAN機能のあるものを選びました。しかし、デジタルカメラの普及した現在、ネガフィルムをスキャンする必要の生じることはあまり多くはありません。また狭い研究室では、USBケーブルで接続する方が簡単です。それにもかかわらず高機能なものを選定したのは、将来使うかもしれない、使うとしたら今から準備しておかないと結局は損をするとの「不安」からでした。
 ここで少し考えたのが、システム開発でも、今回のプリンター選定と同様なことをしてきたのではないかとの、自らの反省です。大学に移るまで、企業でいくつかのシステム開発に関わってきましたが、将来使うかもしれない、無いと困ることになるかもしれないとの考えから、結局は当面使うことのない機能を盛り込んだシステムを開発してきたように思います。それらは、あるときは顧客からの要望であり、あるときは開発者としての先を見越したと思える判断からでした。また、将来あるかどうかわからないシステムの用途、あるいは、拡張への要件などを持ち出し、システム開発に不案内なユーザー企業の不安を知らないうちにかき立て、機能変更と追加予算をもらったこともあったかもしれません。
 たとえば約20年前、2台のワークステーションと20台あまりのPC、10台あまりのPLC (Programmable Logic Controller)をLANにつなげた製造管理システムを開発したことがあります。当時は、製造業の自動化技術とともに工場ネットワークの通信制御手順としてMAP (Manufacturing Automation Protocol)が話題となり、工場でLANを使うことが始まっていました。ワークステーションを2台にしたのは、サーバーの二重化を行うためです。それをすべて手作りで開発しました。たしか、2台のサーバーがお互いのサーバーの稼働状況を監視し合い、異常を感知すると異常のあるサーバーをシャットダウンし、再起動後に停止中の差分データを転送する仕組みだったと思います。この仕組みを作るのに、テストを含めて大変苦労をした記憶があります。
 サーバーが1台では、サーバーダウン時の工場の稼働に支障がある、また、その際の監視データを記録できないとの「不安」から、このような仕組み作りに時間とお金をかけることになったと記憶しています。しかしながら、苦労して作った二重化の仕組みが実際に役立つ場面はありませんでした。もともと製造管理システムが無くてもPLCの機能で動いていた工場ですし、稼働データが多少の期間無くなっても、出来高が記録できれば管理上大きな問題にはなりません。実際に二重化の仕組みが動く状況が生じていたら、希にしか動かない機能が動作したために現場はかえって混乱したかもしれません。
 少し話題を変えると、システム開発におけるベンダー選定についても、「不安」という観点からいくつか不合理な意思決定が行われているのでは無いでしょうか。自らの経験から言うと、システム開発では、大手の元請企業が自らの手で開発に深く関わることは希のように思います。多くの場合、下請け、孫請けが開発に深く関わっています。もちろん元請企業が基本設計を行い、プロジェクトマネジメントに責任を持っていますが、これらの部分も、実体としては下請企業に依存している場合もあるのではないでしょうか。その場合、ユーザー企業は大手の元請企業をスキップし、下請企業と直接契約をした方がよりよいシステムをより安価に手に入れることができるかもしれません。しかし、ユーザー企業がなかなかそのような判断をしないのは、運用期間も含めた将来への様々な不安を考えると、経営が安定し信頼がおけると思える大手の企業に発注したいという判断が働くためではないでしょうか。冷静に考えると、この判断もあまり合理的でない場合があります。いくら大企業であっても、システム開発を担当していた社員が異動あるいは退社してしまえば、開発したシステムのことはわからなくなります。かりに設計資料が整理されていても、結局は、実際に開発を担当した下請企業に対応をお願いすることになります。ユーザー企業は、継続的な保守をしてもらえないのではないかとの「不安」から、結構な費用となる保守契約を大手の元請企業と結びますが、実際の保守の対応は、やはり下請企業になることも多いようです。冷静に合理的な判断をおこなえば、小規模でもしっかりとした技術と実践的なプロジェクトマネジメント能力のある企業を選び、長期的に付き合う方がより多くの利益を期待できるとの結論になると思います。
 このようにシステム開発では、将来の不安を軽減することへの要求が強く働くことがあり、冷静に考えると合理的とはいえない意思決定を行う場面が頻繁にあるように思います。すなわち、将来への漠然とした「不安」に基づき、システム開発の本来の目標を達成するために必要な投資以上の投資をする「不合理な判断」をしてしまうことです。近年の経済学では、従来から基本としていた期待効用仮説に対して心理学的要素を取り入れた「プロスペクト理論」が提案され、そこでは、人間が負のリスクに対して敏感な行動をすることを示しています。たとえば保険会社の経営が成り立つのは、人間の負のリスクに対する敏感な行動が関係しているようです。システム開発は、このプロスペクト理論が良く当てはまる分野ではないかと思います。
 それでは、システム開発において合理的な意思決定を行うにはどうすればよいでしょうか。それには、ユーザー企業も開発者も、システム開発への漠然とした「不安」を少なくすることでしょう。結局のところユーザー企業においては、開発委託先企業の技術力とプロジェクトマネジメント能力を自ら見極める力を持ち、システム開発プロセスをリードする努力を惜しまないことが重要といえるでしょう。それが難しいのであれば、自らの側に立ってシステム開発をリードしてくれる、信頼のおけるコンサルタントを起用することが有効でしょう。またシステム開発企業においては、自らの利益の根源を見つめる必要があるかと思います。ユーザー企業の不安の受け皿として注文を頂いているとしたら、実績と信用力のある国内市場では通用しても、海外市場への進出は難しいでしょう。
 大変生意気なことを、勝手な考えとして書いてしまいました。ご意見、ご批判を頂けると幸いです。

以上