旧知の本メールマガジン編集長から「矢野さんが提唱するサイバーリテラシーと情報システム学会の理念は似たところがある。サイバーリテラシーについて連載してみませんか」とのお誘いを受けた。なるほど、情報システム学会の理念には「真に人間中心の情報社会を実現することに貢献する」と書いてある。
わが意を得たり(^o^)、と引き受けたのは、あるいは軽率だったかもしれない。私は技術の専門家でも、法律の専門家でもない。一介の編集者である。いささか逡巡気味ではあるが、編集者として、あるいはジャーナリストとして、ここ30年、情報社会の周辺を徘徊してきたことだけは確かである。情報社会のリテラシーとしての「サイバーリテラシー」を提唱してすでに10年近くにもなる。せっかくの機会をいただいたのだから、サイバーリテラシーの観点から気になっている現代社会のあれこれを書きつけて、情報社会や技術の最先端におられる諸兄姉のご意見をお伺いしたらどうかと思い直した。
当方が愚問を発し、読者諸兄姉の賢答をお願いする「愚問賢答」方式ですね(^o^)。どうかよろしく。サイバーリテラシーについては、折々に説明もしますが、詳しくはサイバーリテラシー研究所のウエブ(http://www.cyber-literacy.com/ja/)や拙著『サイバーリテラシー概論』(知泉書館、2007)を参照してください。
なお私のメールアドレスは、yano■cyber-literacy.comです。(編集部注: メールアドレスの @ は ■ に変更しています。)
もうだいぶ前の話になるが、東京証券取引所をめぐるみずほ証券の株誤発注事件は、その直前に明るみに出たマンション耐震強度偽装事件と並んで2005年を象徴する出来事だった。
みずほ証券の社員が人材派遣会社株の売り注文を「61万円で1株」とすべきところを「1円で61万株」と入力ミスし、東証のシステムが取り消しを受け付けなかったために、すべての売買が成立、最終的に買い戻した分を除き、みずほ証券は約400億円の損害を受けた。
巨大システムが人間の手作業とは桁外れに早いスピードで物事を進めて行く現状を、人びとに強く印象づけたが、いくつかの証券会社は誤発注を奇禍として大儲けをした。最初に、このようなシステムの上に乗って巨利を得ることの是非を考えてみよう。
事件が起こった翌朝、たまたまフジテレビの番組「とくだね!」を見ていたら、メインキャスターの小倉智昭氏が証券会社に対して「武士の情けも義理人情もなにもない」とつぶやき、ゲストの女優、高木美保さんが間髪をいれず、「そんな人とは結婚したくない」と言った。与謝野馨金融担当相(当時)が「誤発注を認識しながら、間隙をぬって自己売買で株を取得するのは美しい話ではない」との談話を発表したのも同じような感情に基づいていただろう。
証券会社は利益を返却すべきだという意見もあり、一時はそのような動きもあったが、すでに行われた取引をなかったことにするのはシステム的に不可能で、その後どう処理されたのかはよく分からない。
一方、これは正常なビジネスルールにのっとったもので、” 敵失”に乗じて利益を得たとしてもなんら不都合はないという意見も強かった。これはこれで筋の通った意見でもあるが、やはりひっかかるところがある。
証券取引所が場立ちで賑わっていたころなら、こんなミスは起こらないだろうし、たとえ言い間違えたとしても、誰もがその場で誤りを認め、それで終わったに違いない。ケアレスミスが巨大システムではとんでもない暴走を起こすということである。
だから、この問題を最近(2010年7月)横浜市の大学院大学で取り上げ、学生たちの意見を聞いたところ、ほとんどの学生が「正常なビジネスで、なんら問題ない」と答えたのにはいささかショックを受けた。そういう考えはあっていいけれど、全員がそうだというのがひっかかる。今の若者たちは、現実世界がサイバー空間に乗っかっており、多くがシステムに動かされているIT社会の現状を、もはや所与の環境と考え、その中で最適解を見つける生き方になじんでいる。しかも、そういう傾向は年毎に増えているように思われる。こういう状況をどう考えればいいのか。これが第一の愚問である(情報システム学会のめざす「人間的なシステム」との関連ですね)。
事件を別の側面から見てみよう。
ほんのちょっとした、だれにでも起こりがちなコンピュータ入力ミスで、あっという間に会社に400億円の損害を与えてしまった当の本人はどう責任をとればいいのだろうか。その後の人生はどういうものになるのだろうか。彼あるいは彼女(若いエリート女子社員だとか、下請け社員だとかの噂が流れた)が定年まで在籍しても、給与総額は400億円の百分の一を上回るかどうか。ここでは会社にかけた損害を賠償するという、ある意味でまっとうな考えはまったく意味をなさない。まさに打つ手なし、である。
かつてエコロジーの世界で、「等身大の技術」ということが言われた。大型船でマグロを一網打尽にするのではなく、食べるに必要な分だけ一本釣りしながら自然のおすそわけにあずかるという共生の知恵だったが、いま問題なのは、コンピュータという精神機能拡張の道具が、私たちを途方もない世界につれて行き、そこでは「等身大の精神」が危機に瀕していることである。従来の倫理を支えてきた社会システムに地すべり的変動が起こっている。
この点は、マンション耐震強度偽装事件にも共通している。設計の中核部分である「構造計画書」の数値が偽造されたが、偽装の張本人である一級建築士をはじめ、設計事務所、建物を建てた建設会社、事業主である販売会社、背後の経営コンサルタント、計画書の審査を担当した民間検査機関など、関係者は責任のなすりあいをするばかりで、だれも安全維持の責任を痛切に感じていないようだった。
ここでも、一つの行為がもたらす結果があまりに膨大なために、建築士にしても、欠陥マンション量産業者にしても、犯した罪の責任をとりようがない。逆に言うと、責任のとりようのないことを何の痛痒も感じずに行える状況に置かれている。株誤発注事件はうっかりミス、マンション耐震強度偽装事件は人為的な「偽装」だったけれど、引き金の軽さと結果の重さという点では、よく似た構造をしている。
こういう社会システムに支えられていると、コツコツものを作り上げるといった仕事のありようが、どうにも馬鹿らしくなってくるのは否みようがない。誤発注事件に乗じて一挙に20億円を儲けた若者もいたのである。
こういう状況をどう考えるか、というのが第二の愚問である。