概要:私の研究室では,約10年前から学生による実社会連携型PBLを試みてきた.要求仕様の明確化のために,プロトタイプを構築して,お客様にヒアリングしている.しかし,「お客様のご意見が『感想』なのか『要求』なのか分からない」のでいつも困っている.お客様もこちらの学生も,何となく「感想=要求」と理解するのだが,「本当にそうなのか」との疑念は取れない.最近,この現象は,アニミズム(多神教)文明である日本民族固有の問題であり,曖昧な「感想」を,一神教が生んだコンピュータに変換するには,文化的ギャップに対する認識,特に「ことば」の問題を再認識する必要があるのではないかと思えてきた.本稿では,文化ギャップの問題をユング心理学者・河合隼雄の「中空均衡構造」モデルに基づいて考察したい.
私の研究室では,約10年前から学生による実社会連携型PBLを試みてきた.要求仕様の明確化のために,簡単なプロトタイプを構築して,お客様にヒアリングするアプローチを用いている.しかし,「お客様のご意見が『感想』なのか『要求』なのか分からない」のでいつも困っている.お客様もこちらの学生も,何となく『感想=要求』と理解するのだが,「本当にそうなのか」との疑念はぬぐえない.
最近,情報システム学会のメールマガジン[14]では,アニミズムである日本文化と情報システムについて印象を述べた.お客様からのヒアリング結果が「感想」のように見えるのも,アニミズムの問題のように思える.要求仕様の場合には,特に,「日本語」の特性が問題となる.そこで,本稿では,文化ギャップの問題を,ユング心理学者・河合隼雄の「中空均衡構造」モデルに基づいて分析したい.
カール・グスタフ・ユングは,分析心理学(通称・ユング心理学)の創始者として知られる.ユングは図1に示したように,人間の意識を3階層に区分する.即ち,1)我々が通常「意識」と呼んでいる意識できている「自我/意識」,2)個人的無意識,3)集団的無意識,の3つである[1].特に,この集団的無意識という,ある民族・集団に共通的な「無意識」を設けた点にユング心理学の特徴がある.ユング心理学では,これを「元型」と呼ぶ.そして,この元型は,しばしば,神話や宗教という形でイメージされるとする.
我国の代表的なユング心理学者は,ユングのもとで学んだ河合隼雄(元文化庁長官)である.河合隼雄は,日本の「元型」のイメージを求めて,日本の神話を研究した.そして,日本の神話は,その中心に常に無為の神を持っていることを見いだす[2].即ち,日本人の心の構造は,統合の論理ではなく,均衡の論理であるとする.「力もはたらきも持たない中心が相対立する力を適当に均衡せしめている(文献[3],p.47)」とする.要するに,中空の卵の殻のように,真ん中には何もなく,それぞれの部分は,隣近所との「おつきあい」を重要視してバランスしている.古くからの日本人の重要な価値観である「和を以て貴となす」(聖徳太子17条憲法・第一条)にも一脈通じるモデルである.
情報システムの要求分析では,ヒアリング結果を「ことば」で表現する.本稿では,河合隼雄の中空均衡構造と「ことば」の関係を考えてみたい.
上記の中空均衡構造を含めて,なぜ,「感想」をお客様が語るのかを考察したい.
最初に要求を表現している「日本語」が持っている性質を考えたい.長い縄文時代を通じて,日本人は「文字」を持たない民族であった.日本人は自らが文字を発明することは無かった.結果的にではあるが,「漢」から「文字」を輸入することとなった.「漢字」は,中国の文字であるから,中国語の「概念」は,正確に「漢字」あるいは,漢字を組み合わせた単語に対応している.しかし,日本人の場合は,漢字を用いてはいても,中国における意味(概念)をそのまま継承することはできない.結果的に,漢字が持っている意味は,中国におけるそれと,日本のそれが異なるものとなった.しかし,そうはしても,完全に日本古来の概念と対応するものに,漢字を変更することはできなかった.ただし,「訓読み」という,ユニークなアプローチを導入して,一定量の補正は試みている.
同じ題材を扱っていても,中国人と日本人の感性・論理が大きく異なることを,森本哲郎[4]は,以下の蕪村の句を例として紹介している.
愁ひつゝ岡にのぼれば花いばら 蕪村
蕪村は,望郷の詩人であった.理由は定かではないが,故郷を離れて放浪の旅を続けているが,故郷に戻ることができなかった.その蕪村にとって,「花いばら」は,故郷の村に咲いていた花であった.放浪の旅の途中,望郷の念にかられ(遠くが見えると思ったのであろうか?)ふと,思い立って,そこにあった岡に登った.すると,そこには,故郷の花である,「花いばら」が咲いていたのである.
この句を読んだ中国人の日本文学者は,こう質問したそうである.「それで,結局,蕪村さんの望郷の念は癒されたのですか?それとも,より強くなったのですか?」.そんなこと,日本人にはどうでも良いのである.日本人にとって大事なのは,この句を読んでの感性の追体験であろう.望郷の念をセンサの様に測ることは,日本人には意味がない.
このように見てくると,以下のように理解される.即ち,輸入品である漢字が持っている「概念」は日本古来の概念とは違っていた.その結果,漢字が持っている概念「単独」では,表現したい縄文時代から受け継いだ「感性」を表現できない1.
この状況に,日本人の「元型」である「中空均衡構造」はフィットした.表現したい「和の心」である「概念」「感性」は,単一の漢語では表現できない.そうなれば,周辺をペタペタ貼って,全体として,何となく,「意味」を分かってもらうしかない.日本語は,曖昧だと言うのは,あくまでも,単語=意味が十分通用する,中国や一神教の国々から見た話である.中空均衡構造としては,曖昧ではないのであろう.外国製の文字を用いて表現するには,たくさん持ち出さないとダメなだけである.
そのように認識すると,なぜ,日本語には主語がないのか推定できる.主語(名詞)+述語(動詞)の組み合わせは,その「ことば」が示す範囲に,意味を過度に明確に規定する.そのように,特定の単語に依存して意味を表現することを,日本人はさけてきたのではないだろうか.
上記のように,日本人が対象物を周辺から眺めている様子は,例えば,三浦つとむの言語過程説に示唆をうけた吉本隆明の主張でもある[5].吉本は言う.
意味をたどってみれば,ほとんど<ここに美しい花がさいています>というような,単純なことしか云われていないのに,どうして感銘を与えるのかということが疑問でならなかった.(中略)わたしは,詩歌の動きを,極端に言えば,一字,一字たどり,それごとに,背後にある作者の認識の動きを,推量してみることにした.そして意外にも,わずか31文字といった表現が,めまぐるしいほどの,認識の<転換>からできあがっていることに気づいた(文献[5],吉本隆明の解説から引用).
「単純なこと」を表現するために,認識の視点を31文字の間にあちこち動かす必要はないだろう.この詩歌が表現したい「意味」「感性」,おそらくは,縄文の時代から持ち続けてきた日本人の感性・概念が,ひとつの文字では表現できず,中空均衡構造の中で,「感じてもらう」ことしか,できなかったのではないだろうか.
以上,言語の問題を見てきた.しかし,アニミズムと一神教の違いは,他のところにも現れているように思える.
例えば,一神教の民族では,「信仰告白」は極めて重要である[6].他の神様に「浮気」していると困るからである.一方,アニミズムの民族の場合は,「私だけを信仰しているか?」などと神様は問いかけても意味はない.どうせ,他の神様に浮気しているのは自明なのである.キリスト教でも一神教のひとつとして,信仰告白は重要である.カトリックの祈りである「ロザリオの祈り[7]」でも,主祷文の前に,使徒信条を唱える.使徒信条は,信仰告白である.
一方,アニミズムの民は,「私はこのように信じている」と表現する必要性はない.中空均衡構造から言えば,むしろ,当たり障り無く,すべての神に都合のよいことを言っていたほうが安心である.加えて,本来の大和民族の概念とは合致しない「漢字」をつかって「意味」を表現するしか無かったのである.そうなれば,中空均衡構造的に,周りをぺたぺた貼って,なんとか,その「中核」を感じてもらうしかない.日本語の主語の省略は,主語+動詞の組み合わせがもつ,強い意味的な規制を回避するため,本能的に,日本人が用いてきた戦術なのではないだろうか.
これに対して,一神教の世界では,概念とことばとの対応は明確である.以下はヨハネによる福音書[8]の有名な出だしである.最初から,ことば,すなわち概念があって,すべてが進む.
第一章 はじめにみことばがあった.みことばは神とともにあった.みことばは神であった.
音楽に目を転じてみたい.西洋クラシック音楽は,トップダウンな多楽章構成を持ち,主題の提示と,そのバリエーションを主たる戦略としている.これに対して,日本の音楽はしばしば「『間』を聞く音楽」と呼ばれる.石井宏[9]は,以下のような,興味深い指摘をしている.まず,フェルマータである.フェルマータに対して,日本人は「音を延ばしている」と感じ,西洋人は「音楽が停止している」と感じるそうである.もともと,西洋音楽は,肉体的な脈動(ビート)を元としており,ビートの無い自然音は音楽とは見なさない.これに対して,日本音楽はビートフリーであり,自由に休拍や「間」をいれることができる.ひとつの原因は,日本語が,自由に引き延ばして可能な言語だからであろう.例えば,「なつくさや」と発音しても,「なつぅくさぁやー」とゆっくり発音してもよい.結果として,ビートに無関係に,歌詞の区切りが歌の区切りとなり,その区切りは休符というような一定の長さをもつものではなく,「間」と呼ばれている.中空均衡構造はここでも生きている.
前置きが長くなった.情報システムのための要求分析手法について,考えたい.上記のモデルが正しければ,日本人の特性として,以下のことが言える.
このことを前提として,マインドマップとKJ法について考えてみたい.ただし,著者は,マインドマップやKJ法の習熟は決して十分ではない.以下の分析は,以上述べた理論的枠組みを用いて,マインドマップやKJ法の構造から得た結果である.以下の分析結果が,正しいかどうかは,今後,検証してゆく必要がある.
図2には,マインドマップのサンプルを示した.マインドマップは,可視化するとの意味で,大きな効果があるが,本稿では,あえて,このツリー構造に着目したい.
明らかに,マインドマップは,デバイド・アンド・コンカーのトップダウン構造を持っている.セントラルイメージを中心にして,つぎに,そこから,メインブランチが流れ出す.これは,POA(プロセスオリエンテッド分析),DOA(データオリエンテッド分析),OOA(オブジェクトオリエンテッド分析)の中では,POAに近い.
しばしば,マインドマップでは,利用目的に応じて,このメインブランチをテンプレート化して用いられている.しかし,中空均衡構造に照らして考えれば,以下の分析結果が得られる.
次にKJ法について考えてみる.KJ法[11]は,上記のマインドマップのようにトップダウンのデバイド・アンド・コンカーのアプローチは取らない.ボトムアップに,似ているものを集め,「カードに語らせる」.
図3にKJ法のイメージを示す.図3は,慶応大学・大岩研究室のWebサイトから引用させていただいているが,この図の説明の中に,カードのグループの中に中空の部分があり,分析が進むと共に,埋まったという意味の説明があるのが興味深い.
中空均衡構造から見て,KJ法を利用するためには,以下の点に注意すべきことになる.
(1) ヒアリング結果の分析では,ユーザの「要望(感想?)」をそれぞれカードにすることになる.そして,類似したカードを集めてクラスタリングする.良く知られた,発散フェーズである.KJ法では,発散フェーズは,比較的,方法自体は習得しやすいと言われている.
(2) 問題は,一般的に,習得が難しいと言われている収束フェーズである.中空均衡構造に従えば,KJ法の利用者がやるべきことは明確である.グループ化されたカード達を眺める必要がある.そして,ひとつひとつのグループの声に耳を傾けながらも,全体からそれらの真ん中の中空部分にあるものが何かを「感じ取る」必要がある.それが,ユーザが表現したかった,そして,ひとつの単語では表現できなかった(しばしば,ユーザも意識できていない)「意味」である可能性がある.すくなくとも,中空均衡構造のモデルでは,KJ法で行われていることは,そのように理解できる.結果的に,得られた「中核」はひとつの「ことば」=「漢語」では表現できない.ストーリとして「語る」しかないであろう.
近年,質的研究[12]が注目され,情報システムの分析でも,利用されるようになってきた.しかし,以上の分析に従えば,言葉が持っている概念と,現実社会で注目している概念が一致している「はじめにことばありき」の一神教の国々とは異なり,日本の場合には,ヒアリングした結果の文章をカテゴリー化したのみでは,本当の中空部分を取り出すことは簡単ではないのではないだろうか.欧米の質的研究のアプローチを鵜呑みして利用することには疑義がある.
その意味では,カードをカテゴリー化し,しかも,中空部分にあるものを考慮し得るKJ法のほうが,日本の文化に合致した「質的研究」である.KJ法は創造性があるというように従来から言われてきた.それが本来のKJ法の利用方法とは思われる.しかし,情報システム開発におけるヒアリング結果からの要求分析では,KJ法は「ほんとうにユーザが望んでいる要求」を,カード全体が持っている「意味」として,引き出すツールとして利用できる可能性が高い.カードとしてはまだ得られていない「中空部分」は「創造」と言うよりは,「混沌をして語らしめた」アニズム文化が求めている「意味」なのではないだろうか.KJ法を,要求分析ツールとして,もっと活用するべき[13]ではないかと考える次第である.
【参考文献】
2010年3月25日 情報システムと日本文化 上 アニミズム
2010年4月25日 情報システムと日本文化 下 オブジェクト指向と哲学
1 キャタピラ基本英語など,英語圏では,語彙を制限した英語が開発・利用されて来た.日本語でも同様の制限日本語の試みはあるようであるが,上手く行ったという話しは聞かない[15][16].日本語の単語が持っている意味の曖昧性はしばしば指摘されることである.しかし,多少調べてみた範囲では,日本語単語の意味の曖昧性を正面切って論じた研究はあまり見られない.村田[17]は共起関係から,英語のquestionとproblemは概念が明確であるのに対して,「質問」「問題」は他の単語との共起が不明確であることを論じている.研究室の学会発表練習でも,学生が最後の結論のところで,「本研究には以下の問題があります」などと言って,「問題」のオンパレードをやり出して,教員があわてることがよくある.これも日本語の持っている意味の曖昧性を示す例と思われる.