情報システム学会 メールマガジン 2010.5.25 No.05-02 [7]

評議員からのひとこと
「デンマークにみる『人間のための情報システム』」

国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)砂田薫

 環境対策の先進国であるデンマークのラース・ルッケ・ラスムセン首相が、2010年3月、鳩山由紀夫内閣総理大臣と気候変動問題の意見交換を行うため来日した。同首相は来日中に、東京都内の福祉施設を訪れ、身体障碍者の歩行支援などを行うロボットスーツ「HAL」を試し、「素晴らしい」と何度も賞賛の言葉を発したという。マスコミに流れたこのニュースをまだ記憶に留めておられる方もいるだろう。
 2009年11月、私は国際大学GLOCOMの研究員仲間と一緒にデンマークの電子政府および医療と教育の情報化についてヒアリング調査を行ってきた。そこでお会いしたデンマークの人たちが最も関心を寄せていた日本の技術が、まさにこのロボットスーツ(パワードスーツとも言う)だったのである。日本と同様、デンマークでも介護人材の不足は深刻な社会問題となっている。それを解決する将来有望な技術であると認識されているわけだ。日本人が開発したロボットスーツに対する期待は、おそらく日本よりもはるかに高いのではなかろうか。
 ところで、私たちがそもそもデンマークのICT(情報通信技術)利用を調査しようと考えた理由は、世界経済フォーラムのICT国際競争力ランキングで2006年から2008年まで3年連続1位に輝いたからである(2010年3月発表の2009年ランキングでは3位)。しかも、日本が課題としている、行政・医療・教育の3分野におけるICT活用で、高い得点をマークしていた。米国のようにグローバル市場で活躍する多国籍IT企業があるわけでもなく、日本のように高速ブロードバンドが整備されているわけでもない。それなのになぜ、人口550万人の小国デンマークが常にランキングの上位に入ってくるのか。それが、とても不思議だった。
 このランキングが評価対象としている項目には、情報通信インフラの整備状況やICT供給能力といった技術面だけでなく、個人・企業・政府におけるICTの利用状況、さらにはICTとは直接関係のないものの国際競争力のベースとなる教育・研究開発・規制など制度面も含まれている。2009年も、1位スウェーデン、3位デンマーク、6位フィンランド、10位ノルウェーと、北欧諸国が軒並みランキングの上位に入った。これらの国に共通しているのは、ICTを国家戦略の重要ツールと位置づけ、とりわけ行政・医療・教育といった公的サービス分野では「ICT利用先進国」となっていることだ。ちなみに日本は21位である。要素技術の開発・供給能力がいくら高くても、それらを組み入れた情報システムの設計・構築能力や利用能力までも高いとは必ずしも言えないことがわかる。

 日本がICTの供給能力や普及率を重視してきたのに対し、デンマークはICTによる経済・社会の問題解決や人間の能力の向上を重視してきた。行政機関では、新しい情報システムの導入によって、公務員の大胆な削減を実行することも珍しくない。失業者には3年間に及ぶ手厚い所得補償や再就職のための教育訓練が提供されるので、失業に伴うリスクが日本よりはるかに小さく、解雇も転職も日本より頻繁に行われているようだ。国は、セーフティネットの充実や医療・教育にかける費用を増やすために、2001年から行政の効率化・省力化を徹底させ、国家財政の黒字転換も成功させた。
 かといって、政府の情報システムが効率化だけを目的に導入されたわけではない。市民へのサービスの向上や公的機関が保有する情報へのアクセス権の拡大をめざす観点からも構築されてきた。たとえば、ワンストップの電子政府ポータルサイトからは、納税、住宅、子供の育児・教育、年金など、生活に必要な情報を閲覧したり、電子申請を行ったりすることができる。誰でも簡単に使えるようにするため、利用者の多い民間のネットバンキングのユーザーインタフェースを参考にしたという。
 医療情報システムでは、患者の情報を一元管理するデータベースが構築され、医療機関における事務効率化を図ると同時に、患者は自分のカルテ、処方された薬、さらには古い入院記録までネットから確認できるようになっている。また、病院では、デンマーク語を話せない患者のためにオンラインで通訳者と会話ができるテレビ会議システムが導入されている。学校でも、パソコンとインターネットが導入され、先生と保護者とのコミュニケーションツールとして、また生徒一人ひとりの進捗に合わせた学習ツールとして利用されている。
 デンマークがICT利用先進国になった背景には、小学校からICTに日常的に触れているので市民のリテラシーが高い、所得格差が少なく大半の家庭でパソコンやインターネットを利用している、公的サービス分野の電子化を阻害するような規制がない、政府に対する国民の信頼度が高く個人情報の電子化への抵抗感が少ない(統一番号制が導入されている)など、さまざまな経済的・社会的要因がある。人口も歴史的・社会的背景も日本とは大きく異なるため、デンマークモデルをそのまま日本に持ってこようとするのは無理があるだろう。
 しかし、情報システムの開発・運用面で、ユーザー自身が責任を持って推進する体制を整えている点はかなり参考になるのではないかと考えている。電子政府を例にとると、ワンストップのサービスを提供するために、国の各省庁および地方自治体を横断する形で「デジタルタスクフォース」と呼ばれる推進チームが作られ、財務省内に事務局が置かれている。行政の縦割の弊害をなかなか解決できず、ワンストップサービスが進まない日本と比べると、大きな違いがある。また、日本の感覚で言えば、財務省はさまざまなプロジェクトの予算を抑制する役割を担う官庁であって、プロジェクトの推進役を果たすイメージはないが、デンマークでは、全体調整能力が高く予算を握っている財務省こそ、組織横断的に実行する電子政府プロジェクトの推進役にふさわしいという発想であるのが面白い。
 デジタルタスクフォースでは、2007年から2010年の期間に、電子政府関連の35のプロジェクトを推進し、自らプロジェクトマネジメントを担当してきた。過去の情報システムの事例を蓄積・研究して、失敗しそうな計画については事前に取りやめることもあるという。政府内にITアーキテクトのチームを設けているので、技術的な観点からの判断もユーザーである政府自身が行っているのだ。医療や教育の分野も同様で、ユーザー自身が責任をもって情報システムの開発・運用を行う体制をつくりあげている。むろんデンマークでも開発や運用をシステムインテグレーターに委託するケースは少なくない。しかし、日本の行政機関のように、ユーザーの組織内に情報システム担当を置かないで、外部に丸投げするような方法はどこも採用していない。
 デンマークに見るように、経済的・社会的問題の解決に役立ち、個人の能力や生活の質を向上させるために存在するのが「人間のための情報システム」ではないかと思う。そうであるならば、ユーザー自身が情報システムの開発・運用に責任を持って、主体的に取り組むことの重要性をデンマークから学ぶことができるだろう。