情報システム学会 メールマガジン 2010.4.25 No.05-01 [12]

連載 情報システムの本質に迫る
第35回 情報システムのマーケティング

芳賀 正憲

 慶應義塾を創始した福沢諭吉がその著書に、「一身にして二生を経たようだ」と記したことは広く知られています。福沢が二生と言っているのは、封建社会の江戸時代と開化した明治時代をともに生きたという意味で、前者の体験があるからこそ西洋文明の評価も的確にできると自負を述べています。
 80年代末にわが国の工業化がピークを迎え、90年代以降パソコンやインターネットの爆発的な発展で情報化が急激に進んだことを考えると、1970年頃までに生まれた人は、福沢の表現にならって、(工業社会と情報社会の)「二生を生きた」と言ってもよいのではないでしょうか。
 メルマガの委員会で、「わが国において草創期の情報システム開発に携わった方々に情報システムの歴史を語って頂こう」と企画してから、かなりの時間が経ちました。学問の成立要件が、概念・歴史・理論・方策(実践の方法論)にあるとされていて、歴史の中から普遍的なものを見出すアプローチが必須であるにもかかわらず、情報システム学の場合、まだ十分にはできていません。毎月の委員会で、このテーマをいかに発展させるか懸案としていますが、本稿ではその1つのきっかけとして、典型的な工業社会の企業が情報システム会社をつくり、未知の領域でマーケティングをどのように進めていったか、模索のあとをたどりたいと思います。

 N社は、産業の素材を製造する、工業社会の代表的な企業でした。ピークの社員数は8万人におよびましたが、社員の9割が所属している製造事業所が、生産性と品質の向上に全力を尽くす、いわゆるコストセンターに位置づけられていたという、今日のベンチャーとは対照的な特徴をもった会社でした。王様か乞食かと言われるくらい、好不況の変動の激しい業界でありながら、戦後復興から経済成長の時代にかけて、平均的には需要拡大が続く市場だったことが、このような組織体制の維持を可能にしてきたと思われます。結果的に数10年にわたって、社内で「マーケティング」という言葉が使われることはありませんでした。

 80年代の末にN社が情報システム会社(S社)の設立を決断したのは、もちろん、工業社会の終焉と情報社会の到来を予測したからです。設立と同時にS社は、すぐに2つの大きな課題に直面しました。企業理念の確立とマーケティングの必要性です。
 S社は当初、社員数の1割にも相当する強気の新人採用計画を立てていました。折からバブルの絶頂期であり、学生は何社も内定を獲得している状況で、その上(今日、3Kとか7Kと言われていますが)、当時は「SE35歳定年説」などという根拠のないうわさが、学生や教官の間に広がっていました。その中で設立したばかりの会社が多数の学生を採用するには、社会におけるS社の存在意義を、本質的なところから説明する必要がありました。
 S社の企業理念の形成経緯については、すでにメルマガの2008年1月30日号に述べています。理念の中でも核心となったのは、情報システムを文化と等価なものと見なし、システムインテグレーションを「人間社会のもつ文化の高度化への貢献」と定義したことでした。当初、認識していなかったのですが、この企業理念の確立が、後にマーケティングを進めていく上で、決定的な意味をもつことになりました。

 S社がマーケティングを必要としたのは、当然のことですが、事業所がプロフィットセンターとして位置づけられたこと、競合企業が多く、業界に参入したばかりの会社にすぐには多くの注文が来なかったことによります。N社の出身者は、ここで初めて「マーケティング」について学ぶことになりました。

 マーケティングは、利用者のニーズを発掘し、これを企業のもつシーズと、現在及び将来にわたって結びつけていく活動です。過去には企業内の諸機能の1つと見なされていました。しかし今日では、企業の目的を達成するため、さまざまな企業内組織の機能を統合する、企業活動で最も中核的な機能として位置づけられるようになりました。
 マーケティングは、企業の中長期計画を進めていく上で最も注力しなければならない機能です。特に最近では、企業内の1組織を担当する場合も、マーケティングの意識をもって業務を進めていくことが必要と見なされています。
情報サービス産業の場合も、一般的にはN社と同様、過去長期にわたってニーズに追われるように業務を続けてきました。結果として、情報サービス産業におけるマーケティングの概念は十分確立せず、マーケティングの概念を正確に理解しているシステムエンジニアは、きわめて少数にとどまっていました。

 S社のマーケティングに転機をもたらしたのは、オープン化とダウンサイジングの進展です。
 S社の母体となったN社の情報システム部門は、それまで約30年にわたって、メインフレーム系のシステム開発を継続していました。データ保証・信頼性を高度に要求される大型システムの開発が多く、データ保証と信頼性に確信のもてないオープンシステムやダウンサイジングに対する価値観は、きわめて希薄でした。社内全体に、メインフレームの文化が浸透していました。
 しかしS社の一部の人たちは、当時UNIXのワークステーションがビジネスシステムに応用され始めていることに、ただならぬ動きを感じていました。社内の価値観とのちがいに問題意識をもったS社のメンバーは、UNIXについて調査を始め、コンピュータメーカの幹部から次のような情報を得ました。
 「UNIXには、2つの側面がある。コンピュータメーカの技術者やハッカーにとっては、内部の詳細が重要である。しかし、利用者、アプリケーションの開発SE、システムインテグレータにとっては、現在UNIX文化が形成されつつあることが、きわめて重要である。」
 UNIX文化という言葉に、S社のメンバーは敏感に反応しました。S社がそのとき、「人間社会のもつ文化の高度化への貢献」という企業理念を確立していたのは前述のとおりです。米国の人類学者の「文化」の定義が、「人類が発展させた、情報を創造し、伝達し、蓄積し、加工するシステム」であることに由来しています。「UNIX文化が形成されつつあるならば、その高度化に取り組まなければならない」というのが、そのときのS社のメンバーの判断でした。

 そこでまず、UNIXがどのような性格のものであるのか、歴史と今後の動向について調べました。その結果、次のようなことが分かりました。UNIXは、もともと利用者が利用者のために作った基本ソフトです。オープン性がきわめて高く、発表後20年以上経過していますが、その間常に機能的に成長を続けてきています。したがって、現在問題点と見なされていることも、早期に改善されることが期待されました。さらに、当時ガートナーグループが、ワークステーションとパソコンのシェアの大幅上昇を予測していることも分かりました。同グループによると、ワークステーションとパソコンの金額ベースの成長率は、今後5年間の平均が20%以上、その後の5年間も平均10%以上の高い値が続くと推測されていました。

 事業を進めていく上で、その事業にニッチ性(すきまになっていて、他企業との競合が生じない)があるかどうかは、重要な要素になります。S社のメンバーがコンピュータ雑誌で調べたところ、当時拡大するUNIX市場に対して、コンピュータメーカは、上位、中位、下位の代表的企業すべてが、また、大手オフコンディーラー、マイクロプロセッサ・メーカ、それに大企業を中心とした利用者が参入していました。しかし、ソフトウェア・ベンダーは、専門性をもった中堅企業のみ参入しており、S社と競合するようなシステムインテグレータは、まだ企業の方針として本格的には取り組んでいませんでした。したがって、その時点ではまだニッチ性があると判断しました。

 ニッチの市場であっても、いずれは競合企業の参入が予想されます。そのときも、他社と差別化できる要素をもっていれば、受注競争で負けることはありません。そこでS社のメンバーは、次にどのようにすれば、メインフレーム系の企業のS社が、オープンシステム分野で差別化要素をもつことができるかを課題としました。
 最初に、ダウンサイジングの潮流を、どのように解釈したらよいか考えました。ダウンサイジングは、当時その特長が、小型化・コスト削減であると見なされていました。たしかにその側面はありますが、S社のメンバーはむしろこれを、同一コストでの著しい情報処理能力の向上、すなわち能力的にはアップサイジングと解釈しました。
それでは、向上した情報処理能力が何に使われようとしているのか。S社のメンバーは最初に、パーソナルユースでの高度の情報処理を想定しました。乗用車とバスのちがいで、個人単位でコンピュータを使うためには、従来と比較にならないトータルパワーが必要です。次にS社のメンバーは、グラフィックなどユーザインタフェースの改善を考えました。メインフレームでは、到底このようなユーザインタフェースは実現できません。さらに、ネットワークの処理も考えられました。最後にS社のメンバーは、リレーショナル・データベースの広範な使用が可能になったことが、ダウンサイジングの大きな特長ではないかと考えました。

 リレーショナル・データベースは、1970年米国のコッドの発明したものです。発表された当初から、モデルが平明であること、高度な論理的・物理的データ独立性をもっていること、データ操作が非手続き的に可能なこと、分散型データベースへの適合性が高いことなどから、理論的に非常に優れたデータベースであることが明らかでした。それにもかかわらず、性能の悪さのため、メインフレームの時代には、十分使いこなすことができませんでした。
 ダウンサイジングによる情報処理能力の向上により、理論的に優れたデータベースが、現実に広範囲に使用が可能になった―これがダウンサイジングのもたらした画期的な効果ではないかとS社のメンバーは考えました。

 S社では、メインフレームの時代から、デマルコの提唱した構造化分析技法をベースに、一貫開発方法論の体系化を進めていました。実装環境をメインフレームからUNIX環境に変えようとすると、当然一貫開発技術の改善が必要になります。一方、構造化分析技法は、リアルタイムシステムやデータ中心アプローチの進展にともない、データフロー図とともに、状態遷移図やエンティティ・リレーションシップ図(ER図)を活用する最新構造化分析技法に進化していました。
 リレーショナル・データベースは、エンティティ・リレーションシップ図(ER図)からデータベース・テーブルが、ほぼ1:1で定義可能という特長をもっています。そこで、上流工程に最新構造化分析技法を適用し、実装環境にリレーショナル・データベースを使用すると、エンティティ・リレーションシップ図(ER図)を通じて、上下流が一貫して接続されることになります。
 現実にはリレーショナル・データベースは、マネジメントシステムとして商品化されています。これを用いることにより、非常に効率的にシステムを一貫開発するプロセスが実現できます。
 まず要求分析の過程で、エンティティ・リレーションシップ図(ER図)を作成します。ER図からはデータベース・テーブルが、ほぼ1:1で定義できます。実装ではこれを物理ファイルに変換する必要がありますが、それはマネジメントシステムが自動的に行なってくれます。実装のためには、画面や帳票の入出力プログラムを作る必要がありますが、通常マネジメントシステムは、これらを効率的に作成できるツール群を備えています。さらにリレーショナル・データベースは、データ操作時、プログラム機能を制御できるようなメカニズムも、備えるようになってきていました。

 このようにして、システム開発の上流工程に最新構造化分析、下流にリレーショナル・データベースという組合せをすると、きわめて生産性が高く合理的なソフトウェア開発プロセスが実現できることが明らかになりました。そこでS社は、メインフレーム時代に培ってきた構造化分析の技術を発展的に生かしながら、上記したような一貫開発方法論をオープンシステム段階の差別化技術として体系化することを決定しました。

 技術の体系化だけでは事業はできません。情報システムの開発事業を進めていくためには、その技術を確実に駆使できる多数の人材を育成することが必要です。そこでS社は、技術の体系化に併せて、この技術のコースウェア(教育体系)を開発しました。技術の性格上このコースウェアは、要求分析から実装まで一貫したプロセスを、モデルシステムを対象に短期間で実開発しながら学べるようになっています。今日、PBLが全盛期を迎えていますが、S社では、80年代末からPBLを実行していました。
 トップの決断で、新人教育はすべてこのコースウェアで行われるようになりました。それと同時に、メインフレーム技術者からの転換も計画的に進めていきました。
 このコースウェアには、オープンシステム技術の特質とS社の強みが集約的に表現されています。そこでさらにこのコースウェアの営業担当者向けバージョンを作り、営業担当者の教育を行って、受注ルートの開拓を進めていきました。

 オープンビジネスシステムの市場は、予測どおり急速に拡大しました。S社は先手を打って、核心をついた技術の開発と人材育成、受注ルートの開拓を進めていたため、早期に有利な地位を確立することができました。

 ここで、S社のメンバーが進めたプロセスを一般的な形で整理すると、次のようになります。

 企業理念の確立→トレンド(ニッチ)リサーチ→商品戦略策定→研究開発・技術開発→コースウェア開発→能力開発→受注ルート開拓→実開発

 これは、(工業製品ではなく)情報システムに関するマーケティング・プロセスの1つのモデルになると考えられます。

 このモデルに集約された一連のプロセスを進めてきて、S社のメンバーが特に認識を新たにしたのは次の3点です。
 第1に、これまで情報システム開発部門として、システムの実開発のところに注目してきましたが、激変する市場のニーズに的確に応えていくためには、実開発の前に完了しておくべき多くの重要なプロセスが存在するということです。
 第2に、技術開発の後、コースウェア開発→能力開発と進めてきましたが、これらのプロセスは、工業社会の設備投資→工場建設に匹敵するものであり、設備投資・工場建設と同等の価値観で、お金も技術も投入して取り組まなければならないということです。
 第3に、会社が大きくなると、技術、人事、営業、開発などの各部門が、別個の目標とプロセスをもって動くようになりがちですが、本来同一のオブジェクト(管理対象)(今回の場合、差別化可能なオープンシステム開発の方法論)を役割分担して受け渡していかなければならないということです。

 以上述べたプロセスモデルは、当時大きな成果をもたらしました。しかし、今振り返ってみると上記は、マーケティングといっても、いわゆる技術マーケティングの域を出ていません。お客様に満足頂ける、どのような情報システム機能を提供するのか、というマーケティングになっていないのです。

 現在、当学会が進めている、人間中心の新しい情報システム学の体系化では、そこまで視野に入れたマーケティング・プロセスモデルの確立が期待されます。

 この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。皆様からもご意見を頂ければ幸いです。