1.ソフトウェアの法的保護をめぐる動き
WIPO(世界知的所有権機関)のパリ同盟において、1971年頃からソフトウェアの保護について検討されてきた。1978年にはソフトウェア保護のためのモデル条項が発表され、1979年にはソフトウェアの法的保護に関する第1回の専門委員会が開催され、1983年6月には、第2回の専門委員会が開催されてソフトウェアの国際的保護のための特別条約が提唱された。
第2回の専門委員会では、WIPOの提唱した特別条約について31の参加国及び25の関係団体により議論された。最初に主要国の意見が既存条約における保護の適否を検討することになり、本中間答申の発表段階ではソフトウェアの国際的保護のための特別条約についてまだ具体的な検討に入っていなかった。また、WIPO(ベルン条約所管)とUNESCO(万国著作権条約所管)の合同委員会が1984〜1985年に開催され、ソフトウェアの国際的保護が議論されるが、同答申ではその結論はかなり先と考えていた。
2.ソフトウェア保護のためのルール作りの提唱
産業構造審議会情報産業部会では、WIPOのこれまでの検討経緯と我が国のソフトウェアの保護制度を関係各国に向けて積極的にアピールをするため、国際的にもソフトウェアの特質と取引の実態にあったルールを構築することを求めている。当面は、UNESCO(万国著作権条約所管)の合同委員会WIPOとUNESCOの合同委員会(1984〜1985年)に我が国独自の法制を紹介して、国際的保護のための特別条約の制定において我が国が主導的立場に立つことを提唱している。
3.提言
本中間答申では、すみやかにソフトウェアの法的保護を図るための次の措置を求め、提言している。
4.総評
このように本中間答申は、日本主導でのソフトウェア(法制においてはプログラム)の保護を国際的に認知させることで、それに基づいた国際ルール作りを提言している。ただし、ここにも通産省(現経済産業省)の国内コンピュータ産業の保護の一面が全くなかったとは言い切れない。国際的な競争力を備える産業として、保護育成してきた通産省が当時のコンピュータ先進国であるアメリカを意識することは不思議な話ではない。昭和57年に発生した日立・IBM事件(IBM産業スパイ事件)、富士通・IBM事件も少なからず影響を受けた本答申は結局、日の目を見ることはなかった。「日米貿易摩擦の象徴的存在」となった通産省案になぜアメリカがそこまで反対したのか、中山信弘東大名誉教授は次のように見解を示している。
ただし、現在のネットワーク化された社会、特にクラウドコンピュータを前提にすれば、保護期間を長く保つ意味はそれほど重要でははなく、ソフトウェアに対する保護主義的な法制は、自国のソフトウェア産業の国際競争力を失わせる結果にもなりかねないものと考えられる。また、その後、プログラム特許やビジネス方法の特許が日本でも容認されるようになった。よって、通産省案のような特許法に類似した法規範になっていたとしても、プログラムに関しては現在の著作権法による法的保護と大きな差があったとは考えにくい。ただし、システム設計書、フローチャートやマニュアルなどの保護を考えれば、著作権法によるソフトウェアの保護法制で良かったのかもしれない。
引用・参照文献