(承前)社会(経済)システムを正確にidentifyしていこうとしたコルナイの、集権的計画化モデル開発以降の重要な仕事として、この稿では2つの研究、「反均衡」と「不足」をとり上げます。
「反均衡」によってコルナイは、現代経済学の主流をなす新古典派理論の中核、ワルラスの一般均衡理論に批判を加え、また「不足」によって、社会主義制度下においては、物資やサービスの不足が恒常的に起きることを示して、東西の経済学界に衝撃を与えました。特に後者の「不足」は、1980年に出版されたものですが、ハンガリー国内で「「不足」が不足」と新聞が報じるほどのベストセラーになり、体制崩壊の9年も前に、体制の内部から、社会主義経済の失敗を見通すものになりました。
ワルラスの一般均衡理論では、企業は最大利潤を求めて活動します。一方、家計は、効用を最大化するように支出をします。ここに、企業と家計の需給均衡をもたらす価格が存在し、一定の条件下で最適均衡が形成されます。これは、市場で需要と供給がマッチするすばらしい状態とされていました。対照的に、需要に対して供給が不足したり、供給過剰で在庫が増えるのは悪しき状態と見なされます。ワルラスの理論は、アローやドブリューによってさらに数学的に洗練され、「美しい」とさえ表現される厳密な論理の体系になりました。
しかし、中央集権的計画化経済が実現不可能であることをすでに見出していたコルナイにとっては、均衡理論を核とする新古典派理論もまた疑問の対象になりました(新古典派の主流に属すると自認していたにもかかわらず)。イギリスやスイスなどで何カ月も過ごした経験も、問題意識の基盤になりました。西側世界では、多様な商品が店頭に並べられており、さらに新商品がどんどん出てきます。これは東側世界との大きなちがいです。
資本主義と社会主義の、2つの大制度を比較したとき、なぜ資本主義が効率的なのか、2つの制度を統一的に説明し、世界をどのように変革していったらよいのか、一般均衡理論でもまだ解明ができていないのではないかと、コルナイは考えました。
コルナイたちの完全計画化モデルが、完全市場を前提にしたワルラスの一般均衡モデルと対照的であり、前者が、「完全集権化が完全に機能する」ことを理論的に証明したのに対して、後者が「完全分権化が完全に機能する」ことを理論的に証明したものであることは前月号で述べました。ともに均衡状態が存在し、一定の条件下でどちらのモデルも最適状態に到達します。
つまり、理論的には集権化と分権化のどちらでもO.K.ということになります。しかし、どちらも現実を無視しているから、社会主義と資本主義のちがいを統一的に説明できないのです。
ここでコルナイは、両者のちがいのカギは、情報の取り扱いにあると考えました。集権化のモデルでは、多段階のヒエラルキーの上下間を、計画化指令やそれに対する報告などの情報が行き来します。分権化のモデルでは、システムを構成する諸単位間を、主として価格の情報が流れます。どちらのモデルも、正確な情報が流れることを前提にしています。しかし、どちらの体制においても、その情報は歪められています。
それにもかかわらず、社会主義と、私的所有・自由営業を基本とする資本主義では、その取扱いにちがいが現れます。前者では、党中央や政府の指示自体、合理性と一貫性を欠いている上、多段階の組織を経て(義務的に渋々)なされる報告はそれぞれの思惑によって歪められ、そのような情報にもとづいて上部でなされた意思決定結果がまた多段階の階層を下りて行きます。
後者では、正確な情報の獲得は、市場に直面する各企業にとって最大の関心事項であり、各企業は英知を集め周到に収集した情報を自らのために最大限活用して事業を発展させようとします。ここに社会主義経済との間に、大きな起動力の差が生まれます。
いずれにしても、需要と供給が等しく均衡する状態はあり得ません。資本主義経済のもとで各企業は、少しでも多く売るため、余剰生産能力と在庫をもちます。需要より供給が多い状態になります。買い手側が優位となり、均衡があるとすると、供給>需要の状態で買い手主導で均衡します。各企業間で競争が生まれ、これが技術の発展と新製品開発の原動力になります。
それに対して社会主義経済のもとでは、コルナイ自身が日々体験していることですが、売り手が優位にあり、売り手が買い手を選ぶことができます。需要>供給が常態になっていて、体制下の政治・経済システムにより不足が再生産され続けています。不足状態でシステムが均衡しているのです。
ここで、一般均衡理論のもつ意味をあらためて考えてみます。需要と供給がほんとうに等しく均衡し、売り手と買い手の優位性にバランスが取れると、新技術や新商品開発の動機もなくなり、経済の発展も望めないことになります。「反均衡」ではそのように言及されていますが、ほんとうにそうでしょうか。
コルナイ自身は、自伝を書いた2005年の時点で、抽象モデルの役割に再考を加え、現実を無視していることが決して批判の対象にはならないことを強調しています。彼は、抽象モデルの役割として、次の2つを提示しています。
一般均衡理論の場合に即していうと、第1には「情報が不確定で歪曲されていれば、市場メカニズムが経済を最適状態に至らせることは絶対にない」という警告です。つまり、この理論は市場を擁護しているのではなく、むしろそのリスクを示しているのです。第2には、現実の市場経済が理想からどれだけかい離しているか、比較対照するための基準の提供です。これにより、現実の情報がどれくらい不確定で歪曲されているか明らかにすることができます。コルナイはこの観点から、次の「不足」の研究に取り組みました。
実際問題として資本主義経済で各企業が余剰生産能力と在庫をもつことは、経済全体の観点ではムダです。各企業は、明示的な均衡状態をつねに保ちながら、潜在的な需要に対応するように新技術や新商品を開発して生産能力を高め、よりハイレベルの均衡状態をつくり出すことによって、自らの事業の発展を図るべきでしょう。このような意味で、抽象モデルとしての一般均衡理論は、ワークデザインにおける理想システムや、システム開発の構造化分析における本質モデル(論理モデル)に匹敵すると言えるのではないでしょうか。
経済システムについての本質モデルである点では、コルナイたちが開発したモデルも同じです。コルナイたちのモデルが確立したことで、かえって社会主義経済の実現がむずかしいことが明らかになりましたが、それと同様の観点で、一般均衡理論から自由な市場の礼賛を読み取るのはまちがいであることが分かります。
これらのことから、純粋な理論をベースに現実的な結論を引き出したり、経済政策への応用を考えるときは、慎重の上にも慎重を期すようコルナイは警告を発しています。これは、理論の創始者ではなく、特に教育者や研究者に対して言えることです。理論が説明するものはいったい何なのか、その理論は、どんなテーマの研究を促し、どんなテーマの研究を阻害するのかなど、教育者や研究者はあらためて振り返ってみる必要があります。
考えてみると、抽象度が高く広範な意味をもつ「情報」概念(モデル)の創始者は、残念ながらわが国に存在しません。2000年以上前から、主として西欧の、大衆といってもよい、たくさんの人たちによって形成されてきたものです。わが国は、19世紀の半ば以降少しずつ、この数10年は活発に、研究と教育に参画してきました。「情報」という概念(モデル)で説明されているものはいったい何なのか、コルナイの警告に耳を傾ける必要があります。
「反均衡」の出版は、直ちに大きな反響を呼びました。ケネス・アローやハーバート・サイモンは、ノーベル賞の受賞講演でこの著書に言及しました。国際的な専門誌には、38本もの書評が掲載されました。しかし、数年経たのちには、引用が少なくなりました。
この要因について、フランス出身の著名な学者が「共通の知識になると、それ以後はとくに触れられなくなるものだ」と弁護していますが、コルナイ自身は、「反均衡」による批判は核心を突いていて、また、有意義な提案もしていたが、創造的な理論の提示までしていなかった、いわば半製品を出したからだ、と謙遜しています。
「反均衡」に比べ、1980年出版の「不足」の評価は圧倒的でした。ハンガリーの経済学文献における引用頻度ランキングによると、1978年までの5年間では、1位がマルクス、2位がレーニン、3位がコルナイでした。それが1983年までの5年間では、コルナイが1位となり、次の5年間も同様で、コルナイの引用はマルクスの2倍に達しました。
コルナイが「不足」を書いた目的は、コルナイも所属している社会主義体制下で慢性化している不足経済現象の原因と帰結を見きわめ、社会主義制度の機能について包括的な描写をすることにありました。換言すると、不足現象の解明を通じて社会主義制度の本質に迫ろうとしたのです。
ここで不足現象とは、需要より供給が少ないことだけでなく、そのために仕方なく代替物を購入することや、行列するなど、製品やサービスの入手に苦労する現象も含んでいます。不足現象は、家計部門だけでなく企業部門など、ほとんどすべての分野に発生します。もの(資材・部品・半製品・製品)やサービスだけでなく、労働力分配や投資などでも不足は慢性的に起きています。
資材などや労働力の不足は、労働生産性に影響を及ぼします。不足経済では売り手市場になるため、売り手と買い手の間に不合理な上下関係が生まれることが避けられません。売り手市場で企業間に競争がなくなるため、技術革新を進める基本的な動機が失われてしまうのは、不足経済の最も大きな弊害です。
不足現象には多くの要因が関与し、複雑な因果メカニズムによって生じますが、最大の要因はソフトな予算制約にあるとコルナイは考えました。「ソフトな予算制約」の概念は、その後西側世界に伝えられ、経済学における重要な概念として発展していきます。
「予算制約」とは、もともと家計のミクロ経済理論で使われている概念です。家計が支出しようとしたとき、処分可能な収入と貯蓄の合計額が制約となります。これが予算制約です。
一方、社会主義経済下では、国営企業は赤字でも最終的に国家が救済します。したがって、支出が予算を超えることは必ずしも制約にならず、損失が大きな問題にはなりません。これがソフトな予算制約です。
実際にハンガリーの若手経済学者が、国営企業の主要な金銭的データを長期にさかのぼって分析した結果、企業利潤は複雑な経路で何度も再分配され、収益を上げている企業から損失を出している企業に移転していることが分かりました。いわば、収益企業が罰を受け、損失企業が報酬を受けていたのです。
ハードな予算制約のもとでは、企業は存否をかけて必死に生産性・収益性の向上に取り組みます。しかしソフトな予算制約のもとでは、過大な投資計画を立て、無責任な発注を繰り返し、一方、低い生産性を容認しがちになります。現場の改善より上部機関との関係を良好に保つことが重要視され、ロビー活動に精を出すようになります。メルマガの本年2月号で、社会主義体制下では、働く人全員が"公務員セクター"に置かれるため、問題解決に取り組むモラルが低下することを述べました。実はそれと同等のことが企業そのものに起きていたのです。
結果として、製品やサービスの産出面でみた企業の在庫は枯渇しているのに、投入側の資源面でみた在庫は、(ムダに)積み上がっていることになります。のちに他の学者により、(産出財在庫/投入財在庫)を不足の指標にすることが提案されました。
ソフトな予算制約の概念は、その後、数学モデル化されました。スウェーデンの若手経済学者は、温情主義で損失企業を助けると、企業セクターは発注における慎重さを失い、結果として需要が膨れあがることを証明しました。プリンストンの学者も、ソフトな予算制約と企業の投入財需要の増加との間に存在する理論的連関を証明し、これをコルナイ効果と名づけました。その後、予算制約のソフト化問題は、ゲームの理論によっても説明されるようになりました。
「不足」の出版は、大きな反響を呼びました。校閲(検閲)者の一人は「アダム・スミスが資本主義を描いたように、「不足」は社会主義を描いている」と評しました。まずハンガリー国内で飛ぶように売れ、英語、フランス語、ポーランド語に翻訳されました。中国語版は、非文芸部門の年間ベストセラー賞を受けました。ロシア語訳は、まず非合法で流通、ゴルバチョフ政権により合法化されました。
校閲(検閲)を通過するため、あえて記述をしていないにもかかわらず、多くの人がこの本から「体制転換が必要」というメッセージを受け取りました。エリツィン時代首相代行を務めたこともあるロシアのガイダルは、「1980年代の誰もが、市場社会主義の不可能性を証明するコルナイから最大の影響を受けた」と賛辞を呈しています。合法的に出版したこの本が、献身的な多くの非合法出版物と相互に補完しあいながら、体制転換に資することができたのではないかとコルナイ自身考えています。
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盛田常夫訳「コルナイ・ヤーノシュ自伝」と、1990年盛田氏がインタビューした記録をもとに、3回にわたって、コルナイが社会(経済)システムをどのように分析しidentifyしていったか、たどってきました。結果を見ると、経済を中心とした社会が、いかに1つの情報システムとして分析されているかということが分かります。人間の社会が言語と思考によって動かされている以上、これはある意味、当然の結果です。同じことが、社会科学・人文科学が対象にしている、他の多くの分野について言えるのではないでしょうか。
今まで情報システム学では、経営学、社会学、経済学などを参照領域として扱ってきました。しかし、上の結果を見ると、これらの領域は情報システム学のサブセットであり、例えばハンガリーの経済は、情報システムのインスタンスとして位置づけるのが適切なのではないでしょうか。今後、新情報システム学の体系を研究していく上で、考慮すべき観点と思われます。
この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。皆様からもご意見を頂ければ幸いです。