情報システム学会 メールマガジン 2009.6.25 No.04-03 [11]

連載 情報システムの本質に迫る
第25回  感性と論理の対話

芳賀 正憲

 来る7月11日(土)、「情報システム人材の育成―感性と論理の新たな対話を求めて」と題するシンポジウムが慶應大学で開催されます。
 基調講演をされる佐伯先生を学会のメンバーでお訪ねしたとき、先生は、シンポジウムのお知らせの要旨にも書かれているように、気配りや感性の情報取得とその処理が置き去りになってきている現状を憂慮され、アフォーダンス知覚や状況論をベースとした「共感システム処理」の重要性を強調されました。一方学会のほうでは、小林義人氏のメルマガ連載にも繰り返し記されているように、わが国社会における言語技術や論理思考能力の欠如に大きな問題意識をもってきています。
 「感性と論理の新たな対話を求めて」というテーマは、当日の佐伯先生と学会メンバーとの、まさに対話によって組み立てられたものです。シンポジウムではこのテーマに関して、「新たな」展開が期待されますが、それでは感性と論理の対話に関して「今までは」どのように考えられてきたのか、一度振り返っておくことは、シンポジウムの意義を高めるためにも重要と思われます。

 DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビューの2009年7月号で、「不確実性に克つ「科学的」思考」が特集されています。その中に「行きすぎた標準化を問い直す アートすべき時、科学すべき時」という、ダートマス大学客員准教授ジョセフM.ホール氏等の論文が載っています。
 この論文では、トヨタ生産方式を(科学的な)業務標準化の代表例として挙げ、「その成功ゆえに標準化は、行きすぎてしまった。科学的なプロセス管理より、個人の経験、人間ならではのスキルや能力といった「アート」の力のほうが優れた成果をもたらす領域がある」として、アートを用いるべき時と、そうではない時を見極め、アートを生かすインフラ(研修プログラムを含む)を用意し、アートと科学の線引きを定期的に見直す方法を示しています。
 アートが求められるのは、例えば原材料の質など、所与の条件がその時々で異なったり、顧客がそれぞれ独特の成果物を望んでいるなど、働く人に臨機応変の対応が要求される場合で、論文では、会計監査やヘッジファンドの運用、新規事業開発、工業デザインなど8つの分野が、アートの必要な分野として挙げられています。ソフトウェア開発も、顧客と何度も打ち合わせ、相手のニーズに応えるよう機能を見極めなければならないとして、対象分野の1つにはいっています。

 一般に人間がまわりの状況を認識するプロセスは、フランスの学者オギュスタン・ベルク氏の提示した「露点」モデルによって、適切に表現することができます。
 すでにこのメルマガの2008年8月号で紹介しましたが、人間は、まわりの世界をまず感覚でとらえ、次にそれを分析して概念化していきます。そのどこかの段階で内容を言語に結晶(コード化)させます。そのタイミングを、気温が下がったとき水滴が生じる温度になぞらえ、露点と名づけています。ベルク氏によれば日本語は露点が高く(したがって感覚に近い概念がコード化されているが、それ以上概念化が進んでいない)、多くの欧米語は露点が低いとみなされています。

 認識を的確なものにするためには、最初にまわりの世界を感覚でとらえる段階で、本質を確実につかむことが必要です。そのために今まで、どのような方法が考えられてきているでしょうか。
 まず想起されるのは、現象学です。現象学では、ものごとの本質をとらえる独自のプロセスを確立しました(竹田青嗣「はじめての現象学」参照)。
 現象学でいう本質とは、あるものごとが、日常生活における人間の実存にとって持つ、経験的な意味の核心です。「〜とは何か」、ものごとの原理や本質を、最終的には言葉で認識するために、次のような本質直感のプロセスが考えられました。

(1)あるものごとに関して、学問上の定義や辞書的な意味を取り除く。
(2)ものごとの客観的な意味ではなく、自分の生にとって持つ意味を、内省によって取り出し、適切な言葉で表わす。
(3)この意味(本質)は、他の人にも妥当するかどうか内省し、人間一般にとって妥当するように取り出す。

 ベルク氏の露点のモデルに即して考えると、私たちは成長の過程ですでに多くの概念(言葉)を習得していますから、露点のかなり低いレベルでものごとの認識をしたり、それらについて思考したりしています。上のプロセスの(1)は、そのような低いレベルの露点をいったんご破算にし、出発点にもどして、あらためてその意味をとらえ直そうという挑戦です。(2)、(3)によって再度露点を下げ、妥当な言葉を取り出すことになります。
 人間は言葉を通じて世界像を作り上げていますが、人間や社会の間で世界像が異なっていると対立が生じます。(3)において、言葉によって共有できる新たな世界像を見出し、異なった人間・社会間で共通の認識が得られるようにして、最終的に人間・社会間の関係を今よりはるかに調和のとれたものに編み直すことこそ、本質直観の壮大な目的と言えます。このことから本質直観は、「共感システム処理」の実現を企図するプロセスの1つと考えられます。

 現象学は西欧で生まれたものですが、わが国で提唱された、仏教由来の思考法に「内観法」があります(のちに宗教色は除かれました)。日経ベンチャーの2000年8月号によると、内観法は、自分自身を省みるプロセスを体系化したもので、浄土真宗の修業をしていた吉本伊信氏が1953年に提唱し、吉本氏の弟子が全国に広めたものです。受講者は道場で、衝立で四方を囲んだ小部屋にはいり、他人の立場で物事を考える訓練をします。(Wikipediaには、内観法は、自分の心を直接掘り下げるのでなく、他者をいわば鏡として外から自分を客観視する点が特徴で、認知の枠組みの転換がもたらされ、一週間の集中内観により、しばしば劇的な人生観、世界観の転換が起こると記されています。)
 上記日経ベンチャーでは、「経営者はなぜ決断を誤るのか 達人に学ぶ「正しい思考」の法則」が特集されていますが、方法論として比較的確立されていて中小企業経営者の間でもポピュラーな方法として、内観法と論理的思考技術が、常日頃活用している経営者とともに紹介されています。

 感性による認識の的確さを、さらに積極的に強化しようとする考え方の1つに、陽明学の「知行合一」があります。
 メルマガの2009年1月30日号でも述べたように、「知行合一」は、企業の中などで、「知識をもつだけでなく、実行することが大切だ」「言行を一致させよ」という趣旨で訓示などに使われることが多いのですが、王陽明がこの言葉に込めた意味は、それとは大きく異なります。
「知」は、認識information であり、「行」は、実行 incarnationですが、朱子学では格物致知、すなわち広く知を致し事物の理を究めてこそ実践が可能、つまり認識が先、実行が後と考えていました。それに対して王陽明は、致知の知を良知であるとみなし、知は行のもと、行は知の発現であるとして、知と行を同時一源のものととらえました(広辞苑)。つまり、心と現実世界が直結していて、両者の間でincarnation とともにinformation もコンカレントに行なわれると考えたのです。換言すると、実行をすることによってこそ、真の認識が得られるという考え方です。
 それは大いによいことですが、残念なことに、逆に認識が同時に実行に結びつくのですから、そこに概念的な知あるいは論理との間の対話の余地が少なくなります。そのことが、メルマガでも述べたように、多くの陽明学心酔者の悲劇的な最期をもたらし、一方、山田方谷はプラトン的な朱子学の考え方を思考プロセスの中に併せもっていたため、大きな業績を残すことができたのではないかと考えられます。
 西欧の場合、メルマガでも述べてきたように、イソクラテスを始祖として、言葉を練磨し育成することこそ人間が最も人間らしくなる方途であると考え、言語技術に熟達することにより、実生活の多くの場合において健全な判断をし、最善のものに到達できる、そのような人になることをめざしてきました。すなわち西欧では、言語技術を鍛えることによって、心(感性)も鍛えられるという考え方がかなり濃厚にあったと言えます。そこに、実行を極度に重視する陽明学とのちがいがあります。

 ここで再びベルク氏の露点モデルの中に、information ―incarnationのプロセスを位置づけてみます。露点の概念はもちろんinformationのプロセスの中で定義されてきたものですが、ここでその概念を拡張して、露点をincarnationの出発点として考えてみます。わが国の場合、平均的に露点のレベルが高いですから、概念から現実世界までの距離が短く、よい意味でも悪い意味でも「思い」が行動に直結しやすいことが分かります。それに比較して欧米の場合、概念から現実世界まで距離が長く、その間にさまざまな露点のレベルの概念(言語・情報)が含まれる可能性があります。その結果、多種の選択肢の中から多様な評価基準で施策を選びながらその実現を図っていく余地が大きいと思われます。

 実行や言語技術によって強化された感性による認識、それに引き続いて進められる十分な概念化を包含したinformation ―incarnationのサイクルとして、今日最も優れたプロセスは、野中郁次郎・竹内弘高両氏によるSECIモデルではないかと考えられます。
 両氏は、組織的な知識創造モデルとして、人間の知識が暗黙知と形式知の相互作用を通じて創造され拡大されるという前提にもとづき、SECIモデルを提唱しました。SECIとは、共同化、表出化、連結化、内面化の英語の頭文字をとったものですが、両氏によって書かれた「知識創造企業」(東洋経済新報社)によると、共同化とは経験を共有することによってメンタル・モデルや技能などの暗黙知を創造するプロセス、表出化とは暗黙知を明確なコンセプトに表わすプロセス、連結化とはコンセプトを組み合わせて1つの知識体系を創り出すプロセス、内面化とは形式知を暗黙知に体化するプロセスです。
 表出化と連結化が形式知化、内面化と共同化が暗黙知化のプロセスになっています。もちろんここで、形式知は概念化・論理化された知識、暗黙知は経験や感性を含む人間ならではのスキルや能力に相当します。

 GMの破たんが目前に迫った5月20日、野中氏は日本経済新聞の経済教室で「米自動車危機」を日本の自動車産業と対比して分析し、「実践知(フロネーシス)の軽視が米自動車大手の衰退を招いた」と結論づけています。
 野中氏は、デトロイトの自動車殿堂に掲げられた本田宗一郎の2枚の写真をもとに、1枚目の写真では「(本田氏が)現場であらゆる手がかりを統合して対象に「棲(す)み込み」、乗り手の視点で「よりよい」プロトタイプを洞察する(経営者であったこと)」、また(彼により)「対象に深く関与し自己を超越して得られる気づきは、徹底した言語化により本質を究めた言葉として表出化され」たことを述べています。さらに2枚目は、「開発現場でエンジニアと目線を合わせ、床の上に設計のポンチ絵を描きつつ対話している場面」ですが、そこに「エンジニアとの暗黙知と形式知の必死の相互変換、真剣勝負」を見てとっています。

 この稿の最初に挙げたハーバード・ビジネス・レビューの論文では、トヨタ生産方式を(科学的な)業務標準化の代表例として挙げていますが、日経の経済教室で野中氏は、トヨタのトップが、トヨタ生産方式の本質はマニュアルではなく、「暗黙知と形式知のスパイラルアップの実践的プロセスの中にある」と語ったことを紹介しています。

 一方GMの経営者には、「全身で直感する現場性(アクチュアリティー)からの発想が欠けて」おり、「論理整合的な命題から結論を導く演えき的手法では、実践知と共鳴せず、新たな知を付加できない」と、その問題点を指摘しています。
 結論として野中氏は、「GM衰退を、あえて1つの言葉で統合すれば、「実践知の作法の退化」により、現状の変化や課題を洞察し自らも主体的に変化し続けるというフローの経営ができなかったということではないだろうか」と述べていますが、日本の自動車会社についても、「実践知に過度に頼るあまり、その知の本質を論理でとことん突き詰め不変性(原文のまま)を持つ形式知にする作業を怠ってきた企業も多い。スパイラルアップには、両者のダイナミックバランスを組織に埋め込むことが要求される」と警告を発しています。

 野中氏は実践知を高質の暗黙知と考えているので、上のような表現になっていますが、メルマガの2008年7月号で述べたように、SECIモデルで発展する知識と同様、実践知も暗黙知と形式知の往還の中にあると見てよいのではないでしょうか。

 感性と論理の対話も、今まで、暗黙知と形式知の往還の中で成り立っていたと考えられます。両者を統合する実践知(フロネーシス)の涵養が、やはり私たちにとって究極の課題と言えそうです。

 この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。皆様からもご意見を頂ければ幸いです。