情報システム学会 メールマガジン 2009.1.5 No.03-09 [5]

連載 情報システムの本質に迫る
第19回 情報システム学発展の条件

芳賀 正憲

 東京工業大学名誉教授の市川惇信氏は、システム科学がご専攻ですが、大学退官後、国立環境研究所長、さらに7年にも及ぶ人事院人事官と多様な経験を積まれた方です。昨年(2008年)夏、「科学が進化する5つの条件」(岩波書店)という啓発的な書物を著されました。
 この本を書かれた市川氏の問題意識は、次のようなところにあります。
(1)日本には、なぜ科学が生まれなかったのか?
(2)技術は、旧石器・新石器・金属精錬技術、大建築物など、5万年もの発展の歴史をもっているのに、科学はなぜヨーロッパで17世紀後半に至って初めて、指数関数的に急激な進化を開始したのだろうか?
 わが国は、情報科学はもちろん、「情報」という言葉さえ翻訳語としてしか生み出すことができず、情報技術においてもつねに欧米の後塵を拝している国です。その意味で市川氏の所説は、情報システム関係者にとっても、傾聴に値するものと思われます。

 ここで「科学」とは、市川氏の定義では、モデル(仮説・理論)を設定し、それから演繹した結果を観察・実験結果と比較、一致していればモデルは実証されたとみなし、不一致の場合はモデルを作り直して再び同じサイクルを回していき、そのようにしてモデル体系を発展させていくプロセスです。
 もちろんこれは、メルマガの2008年3月号で述べた仮説実証法と同じものですが、市川氏の説明が画期的なのは、モデル発展のプロセスを生物の進化とまったく同等のプロセスとして位置づけたところにあります。それどころか市川氏は、人類が動物の段階から言語を発達させたプロセス、幼児が言葉を急速に習得していくプロセス、技術発展のプロセスも、やはり科学の進化すなわち生物の進化と同等のサイクルで進められたものと説明されています。
 昨年3月のメルマガでは、仕事の進め方として基本になっているPDCAサイクル、(鈴木敏文氏が提唱され)特に流通業界で行なわれている仮説検証法、板倉聖宣氏が提唱された仮説実験授業を、科学のプロセスである仮説実証法と同等のプロセスとして紹介しましたが、市川氏の説明により、これらがすべて人間の活動として本質的なものであることが分かります。特に仮説実験授業は、能力開発の理想に近い方法論として今後着目していくべきでしょう。

 市川氏の挙げている「科学が進化する5つの条件」は、次のとおりです。
(1)言語能力の余剰
(2)整合的世界観
(3)経験知の獲得を許す社会
(4)目的論ではなく過程論に立脚
(5)文明社会

 (5)の文明社会というのは、農業の生産性が高まり食糧の余剰が生まれ、宗教従事者や知識人、加工業者など、食糧生産以外の専門家の存在が可能になった社会をいいます。さらに、ヨーロッパにおけるラテン語のように、抽象的な表現も可能な広域言語が普及すると、知識人の間でコミュニケーションが活発になり、科学を発展させる一つの条件が整います。わが国の場合は、知識人の数が十分でなく、不特定多数の人を統合できる思想をもつ文明が成立していなかったことが、科学進化の阻害要因の1つになったと説明されています。
 (4)の過程論は、事象が起きる過程を因果関係の連鎖によって説明することです。対照的に目的論とは、自然自体が目的をもってそのようになったと考えることです。キリスト教は、過程論に対して束縛になったと思われがちですが、意外にも「神は2冊の本を書いた。1つは聖書であり、他の1つは自然である」という認識から、神の本の1つを読み解くことが、神に仕える人間にとってふさわしい行為とされ、束縛はゆるいものだったと見なされています。
 一方わが国の場合は、温暖な気候や豊かな降雨などから、砂漠とその周辺にいる人たちに比べてはるかに生き延びやすい環境にあり、因果関係の厳密な探求に対する動機に欠けていた可能性があります。

 (3)の経験知の獲得を許す社会というのは、まさにモデル検証法(仮説実証法)のサイクルを積極的に回し始められるかどうかの重要な条件になります。この点ではたしかにヨーロッパで、長らく神学とスコラ哲学が障害になっていました。市川氏は、デカルトによる真理からの演繹的推論とベーコンによる経験哲学が、知識人をキリスト教の束縛から解放したと述べています。
 それに対してわが国では、百済からの帰化人が高度の技術をもたらして以来(なんと今日に至るまで)、技術こそ文明の象徴であり、技術の習得改良が文明を担う仕事であると認識され、科学に関してモデル検証法のサイクルを回していくことには価値観が向かわなかったとされています。
 技術に関してモデル検証法(仮説実証法)と同等のサイクルが(5万年も前から)回っていたというのは先述したとおりですが、17世紀後半以降、科学が飛躍的に進化を始めるとともに、技術も同様に加速度的に発展しました。これは、技術の仮説実証サイクルの中で、(自然のみでなく)技術のつくる人工物や技術の方法論そのものが科学のモデル検証法の対象となり、そこから得られた成果を新たな技術の考案や改善に活用したため、科学と技術の共進化が実現したと考えられています。科学と技術の仮説実証を、いわばカスケード・サイクルとして進めたことが大きな成果をあげたものであり、このことは今後情報システム学を発展させていく上で、重要な示唆を与えてくれます。

 (2)の整合的世界観とは、自然を、矛盾を含まない存在と考えることです。すべての因果関係の間に矛盾が存在しないことを前提にします。唯一絶対神が天地を創造したと考えるユダヤ・キリスト教社会では、このような世界観が強固に確立しています。そのため科学者たちは、無矛盾のモデル体系を作っていくことに驚くほど執着しており、それが独創的な発見に結びついています。
 それに対してわが国の場合は、素朴な自然観から多神教が継続したため、矛盾があることにそれほどのこだわりをもちません。多くの日本の科学者は、自然が無矛盾であるかどうかに関心はなく、モデル形成とその検証のサイクルを回してさえいれば、科学的な知見を得ることができると考えています。日本に科学が生まれなかった最大の原因は整合的世界観をもたないことにあり、しかもこのことを日本社会は意識していないと市川氏は指摘しています。

 (1)の言語能力の余剰とは、言語によって、目の前に存在している世界だけでなく、抽象的な世界、将来の世界、過去のこと、離れた空間のこと、それに虚構まで表現可能なことです。この能力は、概念化・抽象化能力にレベルの差はあっても、洋の東西を問わず、人類なら皆もち合わせています。
ユダヤ・キリスト教世界で特筆すべきことは、歴史始まって以来、言語と論理と神を同一視し、この世界のことは神の意思によりすべて言葉で記述が可能という、言葉に対する強い信念をもっていることです。このため、2000年以上前から言語技術を発展させてきました。先述したように、ラテン語によって広域社会が成立したことも科学の進化に有利に働きました。
 わが国の場合、言語能力の余剰はないことはないのですが、気がかりな点として、仏教の「梵我一如」により、自然を客体としてとらえるのではなく、自然と自分とが一体となって真理を体得すると考える傾向があり、それが言葉の能力の軽視につながっているのではないかと、市川氏は懸念されています。また、国語の初等中等教育が散文と詩文に偏っていて、それが日本語のあいまいさを生み出しているため、論文形式の作文教育に力を入れる必要があると述べられています。

 科学は、自然と人工物からなる実在世界を言語世界に写像する(つまり今道先生のいわゆるinformation)活動です。技術は、願望・仕様など言語世界を実在世界に写像する(つまり今道先生のいわゆるincarnation)活動です。いずれの活動においても、モデルや技術の内容を表現したり、モデル検証(仮説実証)のプロセスが組織的・社会的に活発に進められるために、数学も含め言語能力の十分な余剰が必要であることは言をまちません。

 以上、科学と技術について述べてきましたが、これらは実在世界を対象としています。一方、人間活動や社会を対象にする人文・社会科学の場合、対象自体が、制度・規則・知識など言語世界の中にあります。すなわち人文・社会科学は、モデルを作る場合、言語世界から言語世界への写像(information)となります。言語世界は実在世界と異なり、その中に矛盾を含んでいます。したがって、人文・社会科学においては、形成したモデルも矛盾を避けることができません。
 また、モデル化の対象としての人間活動や社会は、自然に比べて時間的にきわめて速く変化します。そのためモデルを確立するサイクルの回転が追いつかず、この点からも人文・社会科学では、整合性の取れたモデルの形成がむずかしくなります。このため市川氏は「社会の表層的事柄に関する知識は束の間の説にとどまるほかないであろう」と悲観的に述べられています。

 しかし私たちは、組織は運営しなければならず、企業は経営しなければならず、国においては立法・行政・司法の仕事を続けていく必要があります。たとえ理論的に完璧でなくても、最善を尽くして人間の活動と社会に関して、informationとincarnationを繰り返していかねばなりません。これは、理論知というより実践知の領域になります。
 奇しくも、プラトンに対立したイソクラテスが、言葉を練磨し育成することこそ人間が最も人間らしくなる方途であると考え、レトリック(言語技術)に熟達することにより、実生活の多くの場合において健全な判断をし最善のものに到達できる、フロネーシス(実践知)の涵養をめざしたことが想起されます(メルマガ2008年7月号参照)。
 市川氏の説明により、人間活動や社会とそのモデルが、ともに言語世界に属し、完全なモデルを作ることがむずかしいことを考慮すると、2400年前、理論知を主張するプラトンに反対し、言語技術を基盤にして実践知を涵養することを強調したイソクラテスの洞察力に感嘆します。

 情報システムの対象は、広義には工場の生産ラインのように実在世界にあるものと、人間活動や社会のように言語世界にあるものの両方が考えられます。しかし情報システム学会が対象にしているのは、主として後者だと見てよいでしょう。
情報システム学会では研究対象とする専門分野を、コード表にしてホームページで示しています。大分類として、情報システムの基本概念、外部環境、組織的環境、技術的環境、ネットワーク環境、情報システム管理、情報システムの開発と運用、情報システムの利用、情報システムの教育、参照領域の10分野があります。それぞれがさらに中分類されていますが、参照領域の場合、中分類として行動科学、コンピュータ科学、決定理論、情報論、経営学、言語学、記号論、システム論、社会学、経済学、認知科学・心理学、コミュニケーション、人間工学、IE,図書館情報学、情報社会学、その他が挙げられています。
 ここで参照(学問)領域というのは、Peter G. W. Keen氏が最初に提示した概念で「そこから研究のモデルやアイディアを得る、すでに確立された学問分野であって、その分野をしっかりと学ぶことにより情報システムの研究の質を高めることができるようなものを指している。そして情報システム研究を首尾一貫したものにするためには、まず参照学問領域を明らかにし、情報システムを変えることによって変化する従属変数を定義し、さらに研究を蓄積し伝えていくことが必要であると主張」されています(「情報システム学へのいざない」培風館)。

 しかし実情を見ると、Keen氏の主張にもかかわらず、情報システム関係者の中で、これらの参照領域を「しっかりと学」んでいる人は、必ずしもそれほど多くありません。このことは、人間活動と社会を対象にしてinformationとincarnationを進め、優れた情報システムをつくっていく上で、大きなネックになっていると思われます。
 情報システム学にとって参照領域は、決して「参照」という言葉から連想されるような弱い結びつきのものではなく、ちょうど実在世界における技術と科学のように、カスケード・サイクルで結合し共進化を図っていくべき密接な関係にあると、考える必要があるのではないでしょうか。

 市川氏は、米国において多くのブレークスルーを生み出したエクセレントな研究組織9箇所を調査され、そこに普遍的に見られた管理運営の原則を5か条にまとめています。
(1)広い領域で優秀な研究者を採用する。
(2)異なる背景の研究者を集める。
(3)研究者に明確なビジョンを与える。
(4)研究者に自由に発想させる。
(5)相互に刺激しあうよい雰囲気を維持する。

 市川氏は、これら5か条のそれぞれが、生物の進化の原理に適っていることを検証されています。2009年以降の情報システム学会の運営にあたっても考慮すべき所見と思われます。

 この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。
皆様からもご意見を頂ければ幸いです。