プラスチック・ワードという言葉があります。ドイツの言語学者ペルクゼン氏の提唱した概念です。古くから使われている日常的な言葉が、専門分野の用語として使われるようになり、それが再び日常言語に返されたとき、歴史的な意味は失われ、さりとて新たな正確な意味が理解されているわけではなく、専門性による権威のみを身にまとって、一見説得力をもつ先端的で便利な言葉として、世の中を席巻して使われるようになります。そのような言葉をペルクゼン氏は、人工的で多様に形を変え多くの場所に登場するが実質は空虚な材料になぞらえ、プラスチック・ワードと名づけたのです。
代表的なプラスチック・ワードとしてペルクゼン氏は、アイデンティティ、価値、基本的ニーズ、構造、コミュニケーション、システム、情報、モデル、問題、ソリューション、マネジメント、近代化、発展(development)等々を挙げています。情報システムの関係者にとって、言葉の意味があいまいなまま広く流通することは、どのような言葉であっても見過ごせませんが、「情報」がプラスチック・ワードと認定されていることは特に「問題」です。しかも、糟谷啓介訳「プラスチック・ワード」(藤原書店)が出たのは昨年秋のことですが、原書が出版されたのは1988年のことであり、そのときすでに「情報」がプラスチック・ワードとして認定されているのですから、言葉に対する西欧の人たちの「問題」意識の高さが伺えます。
同書では、ラテン語から派生した「情報」という言葉が、ドイツに伝わり、現代においてプラスチック・ワード化した経緯が詳しく述べられています。
古典ラテン語でinformatioは、「教育、伝授、指示」あるいは「想像、表象」を意味していました。中世ラテン語で、これに「調査」「探求」が加わりました。今日に比べると、動詞的な意味が重きをなしていたのです。
中世では、ラテン語からドイツ語の分枝ができはじめ、神秘主義者たちはin-formatioをinbildungeなどとし、「魂への(神の)組み込み」という字義通りの意味で使っていましたが、後に「心に刻む」という軽い意味になり、近代初期には「想像する」「想像力」を指すようになりました。
ラテン語からの借用語informationは、19世紀初頭までドイツ語の辞書にほとんど現れていません(20世紀になってもこの語を載せていないドイツ語大辞典がいくつかあります)。1801年、借用語辞典に登場したときの語義は、「教授、指示、教育」の3つでした。1840年以降の大辞典では、それに「調査、探求、知らせ、報告」を加え、7つの定義を載せた事例があります。1922年発行のハイネの辞書で、「教授、教育」「裁判調査、探求、問い合わせ」「知らせ、報告、査定」の8つの定義をしたのが、意味の幅としては最大でした。
定義から明らかなように、informationは、行為やプロセスから行為の到達点(結果や対象)まで幅広い意味をもっていましたが、力点は行為やプロセスにおかれていました。しかし1970年代以降、意味に根本的な変化が起きたことが辞書に反映されています。「教授、調査、探求、指示、査定」などの定義が姿を消し、代わりに「ニュース」が登場し、意味の主眼は結果や対象に完全に移行しました。
このような意味の変化は、1950〜1960年代、サイバネティックスや情報科学において、informationが主として情報量の観点から取り扱われ、歴史的な多様な意味を喪失して日常言語に返還されたのが原因だと、ペルクゼン氏は指摘しています。日常言語の中で情報が、集められ、持たれ、与えられ、分配され、交換されるものとして取り扱われることは、それがあたかも定量的な物質であるかのように見なされていることを意味します。1981年に出版された辞書では、「情報」と組み合わさった複合語が、情報需要、情報氾濫、情報欠乏、情報ギャップなど59語記載されていますが、これらの複合語も、「情報」が人間的側面を喪失した物質的実体として取り扱われるようになったことを表わしています。このようにして「情報」のプラスチック・ワード化が進みました。
情報社会になって、わが国でも「情報」は頻度高く用いられています。例えば最近1年間の日経新聞朝夕刊で「情報」のはいった記事は、10,696件ありました。一方、「自動車」のはいった記事は6,570件でした。Webサイトになると、その差はもっと大きくなります。
Googleで日本語のページを対象に「情報」の検索をしたところ、7億3千7百万件の記事があることが示されました。それに対して「自動車」は、6千6百万件でした(いずれも10月20日調べ。日経記事件数は日経テレコン21による)。
当然のことですが、「情報」は日常言語としてだけでなく、教育・研究機関や産業界で学術用語・専門用語としても用いられています。しかし、日常言語・専門用語を問わず、「情報=コンピュータ」という誤解や「情報は形がない」という先入見にもとづいて認識されていることは、この連載で繰り返し述べてきたところです。
「情報はなぜビットなのか」(日経BP社)という書籍は、情報をコンピュータにどのように処理させているのか、具体的に分りやすく説明していて評価の高い本ですが、いくつかの大学や短大で、この本を「情報基礎」や「情報学基礎」のテキストや参考書として用いている点には注意が必要であることを先々月のメルマガで述べました。
この本では、第1章の最初の演習として、次のような問題が載っています。
「『オバケのQ太郎』という漫画には、毎日三食とも必ずラーメンを食べている小池さんというキャラクターが登場します。小池さんが今日何を食べたかは、情報と呼べるでしょうか?」
この問題には、「変化するパターンの中から選択できるものなら情報です」というヒントがつけられています。正解は、「小池さんは、いつでも必ずラーメンを食べているのですから、まったく変化がありません。したがって、小池さんが今日何を食べたかは、情報とは呼べません」ということです。ヒントにもありますが、この書籍では最初にシャノンによる情報の定義として、「変化するパターンの中から選択できるもの」という説明がなされているので、このような正解になるのです。しかし、「今日も予定通りラーメンを食べた」という事実は、ギネス認定のため記録するか、健康管理のため医師に報告するか、あるいは単に記憶に留めるかのいかんを問わず、一般的には立派に情報であると見てよいでしょう。
変化がなくても情報と見なせる事象の例はいくらでも挙げることができます。
「情報とは変化である」という定義は、ある研究会で産業界のベテランの人が強く主張するのを聴いたことがあります。変化が、情報の中でも際立ったものであることはまちがいありません。これは「情報=コンピュータ」と見なすのと同様で、記号論で言われる、優性と見なされたものが全体を表す(manが人間を表わす、beeが蜂を表わす)無徴化(ただし情報の場合は錯誤)がなされたと見ることができます。
informationの中にformがあるのに、わが国で学者や産業界のベテランがなぜ「情報は形がない」と考えてしまうのか、興味深い問題です。これには文化が関係していると思われます。
この点については中部大学教授の柳谷啓子氏が書かれている、英語話者と日本人がそれぞれコミュニケーションをどのようにとらえているのか、比較が参考になります。
英語話者は、「考え(あるいは意味)は物体である」「言語表現は容器である」「コミュニケーションは送ることである」と見なしているという、アメリカのレディという言語学者の説があります。つまり英語話者は、「一方の端にいる話し手が、言語表現という容器に、考えという物体を詰め込んで、もう一方の端にいる聞き手に、パイプラインを通じて送っている」ととらえているというのです。レディ氏は、get one's thoughts acrossやgive ideas、put concepts into wordsのような言語表現からこのことを立証しています。
(英語圏ではないですが、ペルクゼン氏は当初、プラスチック・ワードではなく、組み合わせてさまざまなものをつくることができるブロック型の玩具にちなみ、レゴ・ワードと名づけていたのです。しかしレゴが商標登録されていたので断念しました。)
一方わが国でも「考えは物体である」「コミュニケーションは送ることである」という見方がないことはないのですが、それよりも「いい考えが浮かぶ」「言葉にならない」「本音を漏らす」「よどみなく話しつづける」「立て板に水」など、日本語話者は、考えをふわふわした気体ととらえ、それが液体である言葉に変化するものと見なしているふしがあります。それを容器に入れて送るのではなく、そのもの自体がパイプラインを流れていくととらえているのではないかと柳谷氏は述べています(柳谷啓子「メタファーで世界を推しはかる」:<はかる>科学(中公新書)所載を参照)。考え(概念)にしろ言葉にしろ、気体や液体としてとらえているのですから、「情報は形がない」と判断するのは言わば当然と考えられます。
「情報」はinformationの翻訳語として取り扱われています(広辞苑)。「理想」を初めとして、翻訳語の多くがその本来の意味と異なってわが国で流通していることは、この連載の第4回で述べました。上記したように、「情報」も決して例外ではありません。
西欧において「情報」はプラスチック・ワードとされています。わが国の場合、それに翻訳語としての意味の変形が加えられ、2重にプラスチック・ワード化が進行していると言えます。現に「プラスチック・ワード」を翻訳された糟谷啓介氏も、同書の訳者あとがきの中で、「西洋語の翻訳語である明治以降の漢語は、プラスチック・ワードではないのか」「日本語はすでに100年以上前からプラスチック・ワードの問題に直面していたのではないか」と述べています。
今日、情報関係の研究・教育に従事する人は多く、また業務として専門的に「情報」を取り扱っている人もおびただしい数に上っています。「情報」を名称に含んだ学会も、枚挙にいとまがありません。このように「情報」が多用されているにもかかわらず、専門家の間でさえその意味が正しく理解されず、認識が共有されていないことは大きな問題です。
原子や分子の概念が正しく共通認識されないで、物理学や化学の発展はありえません。情報システム学会が情報システム学の確立をめざすためにも、「情報」の概念を明確にすることは必須の前提になります。
きわめて広範囲の視点と歴史的な考察から「情報」の定義を行なった画期的な事例として、社会学者の吉田民人氏によるものがあります。吉田氏は、最広義・広義・狭義・最狭義の4段階に分けて、進化史的な科学的情報概念を構成されました。
最広義の定義は、「物質エネルギーの時間的・空間的、定性的・定量的なパタン」というものです。この定義について吉田氏は、物質エネルギーを質料に、パタンを形相に対応させ、「質料と形相」というアリストテレス的発想の近代科学的継承であると述べています。また、情報量は、パタンの生起確率をベースにして定義されるとしています。
広義の定義は、生物的自然と人間的自然のみを範囲とするもので、「任意の進化段階の記号の集合」です。ここで記号とは、「パタン表示を固有の機能とする物質エネルギー(記号担体)によって担われるパタン」と定義されているものです。RNA・DNAが典型例ですが、神経網パタンなども該当します。「記号列」と定義されるコンピュータ用語としての情報は、記号の意味解釈を別にすれば、ここで定義された「記号の集合」という広義の情報に最も近いとされています。
狭義の情報は、人間的自然のみを範囲とするもので、「シンボル記号の集合」と定義されます。その中で最狭義の情報は、自然言語としての情報で、「伝達されて一回起的な認知機能を果たし、個人または集団の意思決定に影響する外シンボル記号の集合」と定義されています。自然言語としての情報だけに、この定義は、「外シンボル記号」「伝達」「一回起性」「認知」「意思決定への影響」という常識的な要件で構成されています。
このような情報概念の考察をベースに、吉田氏は近代科学を次のような6類型に分けられました。
1)法則科学(実証科学)
2)シグナル性プログラム科学(実証科学)
3)シンボル性プログラム科学(実証科学)
4)法則科学に対応する設計科学
5)シグナル性プログラム科学に対応する設計科学
6)シンボル性プログラム科学に対応する設計科学
ここでシグナル記号は、DNAや神経記号などを意味し、シンボル記号は典型的には言語です。上記で1)2)3)は、それぞれ物理・化学的自然、生物的自然、人間的自然に対応していて、4)5)6)の例としてはそれぞれ、伝統的ないわゆる工学、遺伝子工学、政策科学や社会工学が挙げられます。
吉田民人氏の科学の分類では、生物的自然と人間的自然を対象に、進化するプロセスにおける記号の集合に関して、記述、説明、予測、設計、選択をするプログラム科学が提唱されたことに画期的な意義があります。情報の定義が「質料と形相」というアリストテレス的発想の近代科学的継承であることとならんで、上記の体系は、自然学などの「観照」、ポリスの学などの「実践」、詩学などの「制作」という大きく3つの分類で当時のすべての学問を整理したアリストテレスの学問体系の現代におけるバージョンアップと言えるでしょう。
以上のような内容を含んで執筆された吉田民人氏の「情報論的転回」(国際高等研究所報告書1998-012)は、情報システム学会としても今後の活動の基盤として、熟読玩味すべき文献と思われます。
この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。
皆様からもご意見を頂ければ幸いです。