情報システム学会 メールマガジン 2008.9.25 No.03-06 [9]

連載 情報システムの本質に迫る
第16回 朋あり、遠方より来る。また楽しからずや

芳賀 正憲

 黒雲を見て、まもなく雨が降ることを予測する、桐一葉落ちて天下の秋を知る、このような事例は、今日記号現象として理解されています。サブプライム問題は、2007年7月米ベアー・スターンズ傘下のファンドが破たんしたことを発端とし、金融機関の巨額損失が表面化、モノライン危機、ベアー破たん、住宅公社不安を経て、1年かけてリーマン危機に至りました(日経新聞9月16日夕刊)。この問題に対して、発端の時点ですべての対策をとって損失を回避した経済人がいます。記号にもとづく推論能力にきわめて優れていたというべきでしょう。
 人間にとって情報とは、意味をもった1つまたは複数の記号であり、実質的に言語とみてよいことは、この連載で繰り返し述べてきました。情報が意味をもった記号であるということは、記号論こそ情報学や情報システム学の理論的な基礎になることを意味します。
 情報システム学会の関係者がこのことに着眼したのは非常に早く、すでに90年代半ばに、浦昭二先生を中心に進められていたHIS研究会で、現在信州大学におられる中嶋聞多先生の記号論に関するレクチャーが行なわれています。また最近では、「情報システムのあり方を考える」会で、記号論をベースにメディアリテラシーの研究を進められている日本教育大学院大学・斉藤俊則先生の講演が行なわれました。

 多くの学問と同様、記号論の歴史も古代ギリシャにさかのぼり、ヒポクラテスの医学における徴候学が始まりとされています(有馬道子「パースの思想」岩波書店)。しかし、現代の記号論の直接の祖となったのは、スイスの言語学者・ソシュールとアメリカの哲学者パースです。没年がそれぞれ1913、1914年という同時代の人であったにもかかわらず、二人はお互いの存在を知ることもなく、独立してそれぞれ特徴をもった記号論を打ち立てました。
 特にパースは、晩年の約20年を貧困と病苦の中で学界からも離れて過ごしたため、その間膨大な論文を書いたにもかかわらず、死後も長らく知られることがなく、1930年代になって論文集が刊行され、ようやく注目が集まるようになりました。ただし有馬道子「パースの思想」のはしがきには「1970年代のおわり頃、当時にあってもなおあまり知られているとは言えなかったパースの著作」という記述があります。一方、1967年に発行されロングセラーとなった川喜田二郎「発想法」には、パースのアブダクションを意識してKJ法を発想法として位置づけたことが書かれています。今日では、パースは「アメリカが生んだ最も多才で独創的な哲学者」とも称されています。

 このような経緯と言語学との関連、それにフランス構造主義学者の活躍などから、わが国ではソシュールに始まる記号論が広く知られています。
 ソシュールは、言語をモデルとして記号システムの構造を考えました。記号論の1つの意義は、狭義の言語だけでなく、身ぶり、服装、建物、黒雲や桐の葉が落ちる事象まであまねく人間の知覚や思考の対象になるものを記号として取り扱うところにあるのですが、それらも例えば「目は口ほどに物を言う」という表現があるように、言語と等価なものと見なせるので、言語をモデルとして記号論が展開できるのです。
 ソシュールは記号が、記号表現と記号内容の結合したものと考えました。その上で、記号表現と記号内容の関係、記号表現・記号内容それぞれの構造を考えます。これは記号(言語)とりもなおさず人間にとっての情報を、科学していることと同じです。
 記号論の画期的な意義は、それまでは記号(言語)が、事物に対して表現が与えられたもの(例えばある果物に対して「りんご」という名前がつけられた)と見なされていたのを、表現に結びついたある意味をもったものとして対象世界を分割し(その分割結果としてある事物を)見ているのだと考えたところにあります。例えば、日本では兄、弟という分割をしていますが、brotherはそのような分割をしていません。日本語で「らくだ」に相当する単語が、アラビアでは200近くあることはよく知られています。どのように対象世界を分割するかはその社会の文化によっていて、言わば「恣意」であると言語学や記号論では説明されています。
 このように記号(言語)は、ある意味(あるいは意味に応じた価値)をもったものとしてその社会で流通していることになります。中でも企業ブランドは、ビジネスで使われている典型的な価値をもった記号です。一橋大学大学院の伊藤邦雄教授の算定によると、コーポレートブランド価値(2008年)の首位はトヨタ自動車で10兆円を超え、2位のキヤノンの約2倍と大差をつけ、3位は武田薬品工業でした(日経産業新聞2008年6月10日)。
 記号論は、システム機能やデータベース設計をするときの基本的な考え方にもなります。

 ソシュールが記号を記号表現と記号内容の2項で考えたのに対して、パースは記号、対象、解釈項(記号は解釈項を媒介にして対象の意味につながる)の3項で整理しました(彼は、さまざまな概念を3つの要素(1次、2次、3次)で整理することを旨としています)。解釈項はそれ自体新しい記号としてそれと対象をつなぐもう1つの解釈項を生み、それがまた新しい記号として、・・・というように、パースは記号の意味作用を非常にダイナミックにとらえています。
 ここで解釈項は、推論機能と見なされますが、彼は推論をアブダクション、演繹、帰納の3つに分類しています。演繹・帰納に比して、アブダクションは歴史的に長らく忘れ去られていました。これは仮説を推論するもので、前述したとおり川喜田二郎氏は、パースのアブダクションを意識してKJ法を発想法として位置づけました。
 パースが記号を3種類に分類したのは、面白い着眼です。第1はアイコンで、ある事物Xと他の事物Yとの間に認識可能な類似性があり、XがYを想起させるとき、XがYのアイコンと呼ばれます。デスクトップのアイコンはよく知られています。第2はインデックスで、ある事物(事象)Xと他の事物(事象)Yの間に因果関係が存在するとき、XがYのインデックスと呼ばれます。黒雲は降雨のインデックスです。第3はシンボルで、ある事物(事象)Xと他の事物(事象)Yの間に物理的関係がなく、しかもXがYを表わすことが社会的に合意されているとき、XはYのシンボルと呼ばれます。日常使っている言語は、ほとんどシンボルです。

 先月号のメルマガで、スタンフォード大学・言語情報研究センターのキース・デブリン教授が、人間の抽象的思考レベルを次の4段階に分けていることを紹介しました。
レベル1:現在の環境で知覚できる実在物のみを対象として、抽象がまったくない
          (このレベルは、多くの動物が可能)
レベル2:現在の環境で知覚できなくても、既知の実在物なら思考の対象にできる
          (チンパンジーなど類人猿なら可能)
レベル3:実在していない対象でも、実在物の変形や組み合わせとして想像できる
          (言語能力を必要とする。人間のみが可能)
レベル4:数学的思考(まったくの抽象)

 このレベル分けで、上記インデックスはレベル2、シンボルはレベル3ないし4に相当します。シンボルは人間のみが取り扱い可能であるとデブリン氏は述べています(山下篤子訳「数学する遺伝子」早川書房)。

 「パースの記号論は、いまなお未開拓の広大な複雑系の諸問題を解き明かしてゆくためになくてはならない貴重なアプローチ」(有馬道子「パースの思想」岩波書店)とされていますが、ソシュールとあわせ、その全貌を理解するのは容易ではありません。さらに記号論を実際に業務や研究・教育にどのように活かすのか、むずかしい問題です。
 しかしWebの中に、企業の制御技術者だった田沼正也氏が2008年6月に開設された「記号工学研究室」という、記号論に関するすばらしいサイトがあることが分かりました。
ホームページ立ち上げの趣旨を田沼氏は次のように書かれています。
 「私は企業に長年勤務した後、リタイアした制御技術者ですが、システムとくにそのモデリングに興味を持っています。表現とその意味の関係を探求する記号論に触れたとき、モデリングと一脈通じるものを感じ、勉強してきましたが、Daniel Chandlerの『Semiotics for Beginners』を読んだ時、記号論の山なみがぼんやりと見えてきたように思い、翻訳しホームページに掲載しました。それもエンジニアにはバリアが高いと思い、自分なりに要点をまとめ『エンジニアのための記号論入門ノート』を執筆してきました。
 記号論を理工学へ応用する試みは、わが国ではあまり行われていませんが、欧米でコンピュータ記号論や組織記号論など情報分野への応用が地道に進められています。ここでは、理工学分野への記号論の応用を紹介したりまた応用を自分なりに試みてみたいと思い、このホームページを立ち上げました。」

 特に『エンジニアのための記号論入門ノート』は、現場技術者にもなじみやすい豊富な事例をもとに、具体的かつ論理的な説明がなされていて、感銘をもって読みました。
 記号がその意味や対象を分りやすく表現しているかどうかを様相(モダリティ)と言いますが、発信者の意図したことをいかにモダリティ高く表現するかということが、言語技術(レトリック)の役割になります。言語技術に記号論の知見を取り入れることにより、表現のモダリティを高めることが可能になります。『エンジニアのための記号論入門ノート』では、言語技術(レトリック)について基本的な知識を整理する章を設けています。

 様相(モダリティ)に関する章では、わが国で1980年代前半、記号論も一つのベースにして図による意味の表現方法、図の系統、言語としての図を体系的にまとめた「図の体系」という優れたテクストが発行されたこと、しかしそれを発展させた研究がその後継続されていないことが書かれています。それに対してスイスでは、4つの大学が協力し、視覚表現リテラシーに関するプロジェクトを作り、視覚表現技術の整備や教育を着々と進め、元素の周期表にならって、横軸がData, Information, Concept, Metaphor, Strategy, Compound、縦軸が複雑さの度合いで並んだ視覚表現の周期表をつくったという注目すべき事実が記載されています。
 目的に適った、このような優れたWebサイトに遭遇することは、インターネットの醍醐味です。皆様にも一読をお薦めします。

 この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。
皆様からもご意見を頂ければ幸いです。