情報システム学会 メールマガジン 2008.7.25 No.03-4 [3]

会員コラム 「教員養成系大学院での理想と現実」

日本教育大学院大学学校教育研究科 専任講師 斎藤俊則

 みなさま、はじめまして。斎藤俊則と申します。昨年の7月と9月に「情報システムのありかたを考える会」で記号論についての話をする機会をいただきました。それ以来のご縁で、この度はメールマガジンへ寄稿させていただくことになりました。「最近気になること」ということでご依頼をいただいたのですが、今回は私の仕事についての「気になること」を書かせていただきます。
 私は現在、日本教育大学院大学という教員養成系の大学院(正しくは専門職大学院)で講師の仕事をしています。私は情報教育の教育内容および教育方法を専門分野としており、大学院では情報系の科目を主に担当しています。
 この大学院は「社会人経験を持つ教員を教育現場に送り込む」という主旨の元、学習塾「栄光ゼミナール」を運営する株式会社栄光を設置母体に2006年4月に開学しました。もともとは大学卒業後に就労経験を持つ人だけを対象に学生を募集していました。しかし開学3年目の現在では、社会人経験者のみならず教職免許を取得した学部卒業生も受け入れています。

 ご存知の通り、わが国では小中高の教員になるために大学院を出る必要はありません。それにも関わらず、私たちの大学院の開学に始まり、2008年4月には教職大学院制度も始まりました。この流れの背景には、教員の資質向上に対する根強い社会的要求があるのだと私は理解しています。
 ただし問題なのは、「教員の資質向上」といったときに何が(どういった点での資質向上が)期待されるかです。この点は私たちの大学院をはじめとする教員養成系大学院の存在価値に関わる重要な問題です。そして、2年半ほどこの仕事に携わって分かったのは、この点に関する理解のすり合わせは大変難しいということです。

 たとえば先日、職場でこんなことがありました。
 私は来年度春学期からインストラクショナルデザインをテーマとする科目「インストラクショナルデザイン演習」を担当することになっています。この科目は大学院の若手教員が中心となって学内にその必要性を訴えかけ、晴れて実現に至ったものです。
 この科目に関して教務担当の事務職員の方と話をしていて分かったのですが、どうやら彼は、この科目を開設することに対していささか不満があるようです。
 彼によれば、とある会合で顔を合わせた私学の校長先生に来期のカリキュラム表を見せたところ、「インストラクショナルデザイン演習」を指して「そんなわけの分からん科目は現場では役に立たない。現場はもっと泥臭いものだ」といった内容の皮肉を言われたそうです。さらに不幸なことは、当の教務担当職員も実はこの校長先生と同じ気持ちだということです。
 私自身は、今の教育現場では必ずしも身に付けられない、しかし将来の教育現場では絶対に必要となるであろう技能や見識を学生に身に付けさせることが、私たちの大学院の重要な使命の一つだと考えています。「専門職大学院」であっても大学院です。現在の世の中に対して新しい価値を何一つ提供できなければ、いったいどんな存在価値があるというのでしょうか。

 もちろん現実を見れば、学生たちはまず何を言っても教員採用の関門を通らなければなりません。教員としての技能や見識以前に、彼らが教員採用対策の試験勉強に力を入れなければならない事情は十分私にも理解できます。
 また、私は現在の教育現場で行われていることのすべてを否定するつもりもありません。大学院にて、これから教員になる学生たちに「これまでの教育現場で行われてきたこと」を伝えていくことにもそれなりの価値はあると思います。なぜなら彼らはまず「これまでの教育現場」を支えてきた先輩教員たちと協調できなければ、現場では何の仕事もできないだろうからです。
 そういった意味では、教職大学院を含めた教員養成系大学院の教育活動のある部分が「これまでの教育現場で通用してきた価値の反復再生産」に占められざるを得ないことは、私も承知しているつもりです。しかしそれが100%を占めていいかというと、全く話は違います。
 そんな話を先ほどの教務担当職員にしてみたら、「それは学者のエゴだ」と言われてしまいました。あるいは客観的に聞けばそのように聞こえる話を私がしていたのかもしれません。私がいくら価値があると考えても、受け入れる側がそう思わなければ、もちろんそれはゼロに等しいわけです。
 「これまでの価値を公平に評価しつつ、そこに新しい価値を加えていく」というのは、大学院で教育に携わる私が常に心がけていることです。しかし理想と現実がうまくおりあう地点はまだまだ先のようです。