情報システム学会 メールマガジン 2008.3.25 No.02-12 [4]

連載 情報システムの本質に迫る
第10回 電気炊飯器、扶養控除、PDCA あるいは ロジカルシンキングの基礎

芳賀正憲

 科学(学問)とビジネスは、一般に異なったイメージでとらえられています。科学は、厳密で理論的なものとして考えられることが多いのに対して、ビジネスは、理屈どおりにはいきませんよ、もっとどろどろしたものですよ、などとよく言われます。
 しかしこれは、それぞれを異なった観点から見ているのです。ロジック(論理)という視点に立てば、本来両者は共通のプロセスで進められるべきものです。
 残念なことに、わが国には江戸時代まで「論理」という概念が存在しませんでした。この連載の第4回「理想論を言うな!?」で述べたように、論理は、明治になって翻訳語として輸入された多くの概念のひとつです。そのためもあって、21世紀の今日に至るも、論理思考はわが国の社会に定着しているとは言えません。
 明治時代、わが国に「論理」がはいってきた経緯が、今道友信先生の著書「アリストテレス」に書かれています。
 明治7年、西周(にし・あまね)が「致知啓蒙」という本を出しました。
 最初、西の原稿は、次のようになっていました。
 「さて、ロジックてふは、このやまと(日本)にもから(漢)にも昔よりさる学ビのなきものから、人いとあさましく思ふへけれど、そは西洋にては古クより伝はりつる学ビになんありける、かのギリシアのその昔し、アリストットルてふ名立るものしり(儒)になん創まりつるといへり。・・・」
 実際の出版では「サテ、致知学テフハ、・・・」となっていて、まだこの時点では論理学という言葉が使われていなかったことが分かります。出版では「人、イトアサ(嘲)ミ思フヘケレト」のあと「学ヒノ道ニ、心ヲ寄セナム者ハ何ノ学ヒニモアレ、得モ欠マシキ、手ホド(解)キノ学ニテ、・・・」とあり、人々の心にピンと来ない中で、その重要性が強調されています。
 明治17年、西周が書いた論文は「論理新説」となっていて、「西洋ノ論理学ハ旧ク希臘ノ亜利斯度徳ニ創マリ、・・・」とあり、ようやく論理という言葉に落ち着いたようです。
 ただしアリストテレスの著作中では、ロジックではなく、ヂアレクチックとなっていて、これは英和辞典では、論理学、論理的討論術、弁証法などと訳されています。おそらく3つとも等価な意味をもっていたのでしょう。

 問題は、21世紀の今日も、明治時代と変わらず、論理が人々に「いとあさましく」(大変意外なものとして)とらえられがちなことです。文化は、人間がつくりだしたものである以上、生物的な特質をもっています。論理概念も、西欧から移入されてきたため、拒絶反応の対象になっている可能性があります。
 論理がわが国に定着しなかったことについては、むずかしい翻訳語をつくった学者にも責任の一端があります。論理は一般に「帰納」と「演繹」から成り立ちますが、帰納や演繹の意味を正しく説明できる人は、学生にも社会人にも少ないでしょう。
 実は、帰納も演繹も、概念化されなかっただけで、人間の自然の思考プロセスとして、わが国にも昔から存在していたものです。数百年前からある村では、近隣の山の頂に、ある形状の雲がかかると強風が吹き降ろしてくるという教えを伝えていました。この教えは、何十回も強風を経験した古老により、帰納的に導かれたと考えられます。一方、この教えを学んだ村の若者が、山の頂の雲の形を見て、強風の吹き降ろしを予測したとしたら、それは演繹によっています。
 このように、帰納も演繹も、思考プロセスとしてはごく日常的なものです。英語では、帰納はinductionです。Inductionは、IH炊飯器として家庭用品の名称にも使われている、一般的な言葉です。演繹はdeductionです。Deductionは、もともと全体の中から一部を取り出すという意味で、英和辞書では1番目の意味が「控除」、2番目が演繹になっています。
 Deductionも、決して「演繹」ほど分かりにくい言葉ではありません。

 科学とは、観察(すなわち今道先生の言われるrepresentation)で得られた証拠にもとづき、人間、社会、自然の現象を原理的に(つまりターレス的に)説明する仮説の体系です。ここで仮説とは、いわゆる法則や理論を含みます。
 科学の体系は、仮説実証法によって組み立てられます。仮説実証法とは、次のようなプロセスです。
 まず、仮説Aを設定します。次に、Aから何が言えるか、演繹的に考えます。AからBが言えるとします。次に、ほんとうにBになっているか、実験・観察、調査などにより確認します。ここで、2つの場合が考えられます。第1は、観察したところBになっていないときです。この場合、AならばBで、実際にはBでないのですから、演繹的にAが否定されます。すなわち、仮説Aはまちがっていたのです。あらためて仮説を設定し直して再チャレンジする必要があります。
 第2は、調べたところ、演繹的に推論したとおり、Bになっていた場合です。このときは、話がやっかいになります。AならばBで、実際にBになっていたのです。だからといって、仮説Aが正しいと、演繹的には言えません。逆の論理は、一般的には正しいと言えないからです。
 これでは仮説Aは(第1の場合で)否定されこそすれ、(第2の場合)肯定されないのですから、永遠に証明されないことになります。そこで、第2の場合は演繹を断念して、Bの否定例がなければ、帰納的に仮説Aを認めることにします。このようにして提示されたものが、いわゆる法則や理論です。したがって、科学的な法則や理論は、さらに観察や調査が進み、新たに反例が見つかると、いつでも否定される運命をもっています。このため、法則や理論と言われているものも、長い目で見てつねに仮説とされているのです。

 科学は仮説実証法で進めていきますが、ビジネス(仕事)はPDCA(Plan→Do→Check→Act)(計画→実行→検証→改善処置)のサイクルで進めていくのが基本です。PDCAは、デミングの管理サイクルとしてわが国でもよく知られていますが、今日ではプロジェクト管理、品質保証、環境管理など、あらゆる分野にわたって、国際・国内・企業内の各種標準体系が、PDCAサイクルをベースに組み立てられています。
ここで重要なことは、PDCAサイクルが、表現がちがっていても、実体は仮説実証プロセスであることです。
 最初のPlanは計画ですが、計画とは、このような進め方(A)をすれば、目標(B)が達成されるだろうと、頭の中で考えたり、紙の上に書いたりした仮説です。次のDo−Checkは、実際にその仮説(計画)を実行し検証するプロセスです。検証した結果、目標(B)が達成されていなければ、進め方が悪かったのですから、仮説(計画)を見直し再実行する必要があります。これがAct(改善処置)です。目標どおりの結果が得られていれば、仮説としての計画(進め方)の正しさが帰納的に実証されたものとして、その進め方を標準化します。さらに高い目標が達成されるよう仮説(計画)を見直し、再実行することもあります。
 このように、ビジネスも仮説実証法と同等のプロセスで進められることから、論理という視点に立てば、科学とビジネスは共通と言えるのです。
 5000万件の不明データが問題になった年金記録管理システムで開発業者の責任が問われているのには、いくつも理由がありますが、PDCAサイクルの完結しない機能設計になっていることが、最大の根拠の1つです。PDCAサイクルの組み込みは、利用者の方針や仕様提示能力のいかんにかかわらず、管理システムとして必須と考えられるからです。

 仮説実証法はビジネスの基本ですから、どのような業種・業務にも適用されますが、業種では流通関係、業務ではマーケティングや営業関係で、特に意識的に使っていこうとする人が多いようです。
 日経ベンチャーに、次のような例が紹介されています(2001年12月号)。
 人口2万6千人の鹿児島県阿久根市で24時間営業の巨大スーパーを経営するマキオの牧尾社長は、「仮説を立て、実験でそれを証明する」という作業を繰り返すことにより、「成功するはずがない」といわれた店を地域1番店に育て上げました。
 ホームセンターを経営していた牧尾社長は91年スーパーマーケットの設立を計画、ホームセンターの財務データや流通業の各種統計から、初期投資額と人件費を抑えれば、地方都市でも24時間営業の巨大店の採算は十分取れる、という仮説を立てました。
 同業者からは嘲笑されましたが、実験を積み重ねて仮説の検証を進めていきました。まずホームセンターの一角で生鮮食料品を販売してみました。自社に経験のない生鮮食料品の仕入れ能力と粗利益率の確認のためです。粗利益率は、予想以上の20%が確保できました。
 24時間営業についても、実験で検証しました。ホームセンターの閉店時間を毎月1時間ずつ遅らせ、時間帯別の客数や売上高のデータをとり分析しました。その結果、20時〜8時の売上が、8時〜20時の売上の2/3あり、従業員数の削減で十分採算がとれることが分り、24時間営業を決定しました。これ以外にも多数の実験を積み重ねて、仮説の実現に成功しました。

 仮説実証法は、人類が膨大な科学知識を得るに至った優れた方法であることから、教育にも適用されています。
「仮説実験授業」は、1963年に国立教育研究所の板倉聖宣氏が提唱した教授法で、科学上の基本的な概念や法則について仮説実証のプロセスを実体験させることにより、現実の問題に対しても科学的な取り組みができるようにすることを目的にしています。このようにして獲得された能力は、当然のことながら、社会に出たときどのような仕事に従事しても役立ちます。提唱以来今日まで、全国小中高の多数の教員によって研究と実践が続けられ、成果がまとめられてきています。
 仮説実験授業は大学教育にも採り入れられており、その進め方は次のようになっています(http://subsite.icu.ac.jp/people/yoshino/Hypoexp.htm)。
(1) 問題を出す(選択肢を示す)。
(2) 各自、答の予想を回答用紙に記入する(理由を付記する)。
(3) 挙手または色柱によって答の予想を示す(大ざっぱな統計をとる)。
(4) 何人かに答の予想と理由を発表してもらい、討論を行なう。
(5) 討論の後、自分の答の予想を変更することを許す。
(6) 教師が実験、またはデータによって正しい答を示す。
(7) 私のコメントとして、自然界に見られる関連の現象、日常生活における応用例などを話す。
 企業では、愛知県にある独創的な合板機械の研究開発メーカ、(株)名南製作所が、仮説実験授業の概念をベースに社員教育を行なって大きな成果が上がったと発表しています(日本経済新聞2001年4月23日)。

 論理は、PDCA(仮説実証法)のような、ビジネスの基本サイクルを形成するものとして必須ですが、さらにその基本サイクルの中で、思考やコミュニケーションを進めていくための、言語技術の骨格としても重要です。
 ところが、わが国では論理思考が定着していないため、国語教科の中で言語の論理的な表現や解釈が教えられることは、ほとんどありません。このため例えば、A課長がある会議で「設備を改造しないと、この製品の品質は向上しない」と発言し、次の会議で同じ課長が「設備を改造すれば、この製品の品質は向上する」と述べたとき、2つの会議でA課長は同じ内容の主張をしたのか、それとも異なった内容の主張をしたのか、数百人のシステムエンジニアに尋ねると、2/3の人は、2つの主張のちがいを正しく答えることができません。
 このようなことは、国会など国の政策を決める重要な議論の場でもひんぱんに起きています。「構造改革なくして景気回復なし」は、小泉元首相の一枚看板のスローガンで、所信表明演説を初めさまざまな場面で叫び続けられてきました。ところが、議論を深める予算委員会では、最初から「構造改革すれば景気回復する」かどうかを問題にして、野党も質問するし、元首相本人も答弁するのです。ちなみに、早稲田大学の野口悠紀雄教授は、ここ数年の企業業績の改善や株価上昇は、構造改革による側面があるのは事実だが、より大きな原因は、超低金利や円安の継続など異常なマクロ経済政策にあったと説明しています(日本経済新聞2007年12月28日)。
 上記の例などから考えると、日常生活や仕事の中で出てきた事象や対策に関して、それが必要条件か十分条件かを正しく判断して整理するだけでも、その後の成果に大きなちがいが生じることが分かります。必要条件か十分条件かによって、とるべきアクションがまったく異なるからです。
 PMBOK(Project Management Body of Knowledge)は、90年代の後半米国からもたらされたプロジェクト管理の知識体系ですが、その優れた構造と、カテゴリが多角的によく考慮されていることから、ブームのように各企業に採用されていきました。しかし、PMBOKを採用しても、失敗したプロジェクトがいくつか出てきました。ベテランのシステムエンジニアの中には、そのことを取り上げて「PMBOKの採用は、誤りであった」と結論づけた人がいました。
 もちろん、この結論はまちがっています。失敗したプロジェクトの存在は、PMBOKの採用がプロジェクトの成功に対して十分条件でなかったということを示しているだけです。しかし、プロジェクトがプロダクト・プロセスとマネジメント・プロセスから成り立っているのに対して、PMBOKはマネジメント・プロセスのみサポートしているのですから、PMBOKの採用がプロジェクトの成功に十分条件でないことは、最初から分かっていたことです。
 仕事を的確に進めていく上で、論理的に思考し、発言・議論をしていくことがいかに重要であるかが分かります。

 この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。
皆様からもご意見を頂ければ幸いです。