情報システム学会 メールマガジン 2008.2.25 No.02-11 [6]

今道友信先生ご講演記録

2007年12月8日 於 OGIS総研 東京オフィス

 先月号のメルマガでご紹介しましたように、昨年12月今道先生の講演会が開催され、エコエティカ、情報の基本概念、徳目などについて、心に残るお話を頂きました。以下に、当日のご講演記録を掲載します。

 皆様、おはようございます。
 本日はエコエティカについて、情報学と関わりのあることを話すよう承っております。それで一応、題は「エコエティカ」ということに致します。エコエティカの日本語訳が生圏倫理学です。
 生圏とは、人間の生活範囲という意味です。今までの倫理学は、国家の範囲でだけで終わるということがありました。それから少し広がって、グローバルエシックスという言葉がでてきて、世界、地球全体を考える倫理学が大事であると言われておりました。しかし、もともと人間の行為・行動の学としての倫理学ですから、「人間の行為・行動の及ぶ範囲は全部考えなければならないのではないか」というのが、私の若いときからの疑問でした。それで、大げさに言えば、intersiderealという英語がありますが、星座間という意味です。地球も一種の星と考えられますし、太陽系も星座です。すでに星座間という言葉ができている世の中です。もし衛星も星の一種と考えますと、われわれはintersiderealの世界にはいっていると言えます。
 宇宙と言えば無限ですが、われわれが何らかの形で関わりをもつ宇宙の広がりの方にグローバルを超えて進んでいかなければならないだろうということ、それからもう一つは、倫理の問題と考えられていなかった極微の世界、非常に小さなナノスペースとかフェムトスペースの世界というものも、人間のオペレーションの範囲にはいっておりまして、その世界はわれわれの環境というのではなくて、われわれがその世界の環境であるような小さなところまで医学や農学、工学ではいっております。そういうところまで及ぶ倫理学を考えなければならないのではないか。
 そういうことは、1世紀かかるか、2世紀かかるか分からないが、人間として考えなければならないのではないか、ということを1960年代、まだ若い頃に発表いたしまして、1970年頃からはこっそりと講義してもいいかと考え、講義のようなことをしたのです。しかし、残念なことに私の説明の不行き届きもあって、大勢おりました学生が全部離れて行きました。それから同僚からも「何を言っているのだろうか」、「まじめな学者だったのに、何かおかしくなったのではないか」という扱いを受けました。どうしようかと思ったのですが、まあとにかく話をしてみようと、ずっと生圏倫理学と言っていたのですが、それでは外国の学者に論文を書くときに通じませんので、生圏に当たる言葉は、エコという言葉なのですね、エコというのは、エコロジーとかいろいろ使われますが、エコノミヤなどとも使われます古い言葉です。これはラテン語です。それでエティカがエシックスのラテン語ですから、エコエティカというラテン語を作ればドイツ系とかフランス系とか英語系、スラブ系とか言われないで伝統的な言葉になる、そして由緒のある言葉で、エコロジーという言葉を皆平気で使っていますから、こちらもそれではエコエティカとしよう、ということでございます。

 エコというラテン語は、もとを正しますと、ギリシャ語のオイコスです。ギリシャ語のオイコスを、ラテン人はよい意味で怠け者のところがありますから、オイをエとしました。ラテン語ではエコになってしまいました。だから、今皆様が使っているエコノミーという言葉、エコノミヤというのは、その頃できた言葉です、ローマ字で。そしてエコノミヤという言葉は、ノミヤはノモスという、法律とか治めるという意味ですから、もともとは経済という意味ではなくて、経綸、アドミニストレーションという意味でした。ですから、神がなさることだったのですね、エコノミヤは。ですから、そういう伝統に従って、私たち日本人は漢字を使ってものを言いますが、ヨーロッパやアメリカの人は、伝統に従って言うときは、ギリシャ・ラテンの伝統に従いますので、ときどき神のエコノミーは、という使い方をします。
 その一つの例は、橋本先生が最近お出しになった書物が、レミナスという最現代の哲学者に関するもので、彼は、私の若い頃からの友人だったのですが、私より10歳近く年寄りですので、4、5年前に残念ながらお亡くなりになりました。その方の書物には、神のエコノミーという言葉が出てくるのですね。そうすると、初めの頃、神の経済学と訳しておられた方がいます。経済の世界の方が喜びまして、フランスでは哲学者だって経済のことが分かっているのだと言って、いばっておられました。その方に、「お書きにならないように」と私は忠告をしました。幸いお書きにならなかったので、恥をかかれなかった。ぺダンチックな方で感謝されました。神の経綸といっても、競輪ではありません。神が治めるという意味で、そういう古い言葉を使ってエコエティカと名づけました。

 1970年頃から、大学でも少しずつ、それから世界に発信しなければと思って、論文を、日本語の論文をたくさん書いた方がよいのですが、それよりは世界に発信しなければと思って、やっておりましたら少しは理解してくださる方がいて、若い人が多かった。それから、国際会議を組織しようと思って、いろいろ関係している学会をまわって、その学会でまじめそうで、謙虚でなくては皆とやっていけませんから、謙虚というのは人にへりくだることではなくて、人の意見を大事に取り入れて自分の世界で考え直すということですから、そういう人を7人くらい集めて、7人に来られないかと言ったら、1人は国外に出られなかった。
 チェコの人で、パトチカという人でした。私の思い出になる人間でしたが、死後30年、生誕100年を記念して、日本に「思想」という雑誌がありますが、岩波書店から出ていて12月号が「ヤン・パトチカのために」記念号になっています。私は「追憶と敬仰の向うの影」という題で、あまり人の知らないパトチカのことを書いております。もし現代哲学にご関心がおありでしたら、今売られている雑誌ですからお読み下さればと思います。
 パトチカはチェコから出られない。なぜ出られないかというと、彼は唯物論に徹底的に反対していて、倫理が大事だということをプラトンの考えにしたがって言っていた。プラトンというと古いと思う人もいるが、彼はプラトンに基本を求めていて、現代の哲学者でした。非常に注目すべき人でした。
 もう1人、テルトリアンという人はルーマニアから出ることにして、亡命を私は手伝いました。日本に来させて、日本からフランスに行けるようにしました。今もフランスに住んでいます。テルトリアンは実名ではありませんが、生きている間、私は実名を明かすわけにはいきません。彼は今もフランスの社会科学研究所で、私より10歳くらい若いですが、客員教授として勤めています。
 その2人が、7名の中で来られなかった。あとの5名は来ることができた。その5人は、私はほんとうに運がよかったと思いますが、哲学界の指導的人物になっています。それぞれ、いろいろな学会の会長をしたり、そのまた上の哲学の世界の組織がありますので、長をしたり、私がパリの国際哲学研究所の所長に選挙されたとき、副所長にお願いした方も、皆その7名の中にはいっています。
 7人にしましたのは、ちょうどその頃「7人の侍」という映画があって、ラッキーセブンという言葉もありますし、日本に呼ばなくてはならないのですが、なんだか分からない学会に行くからといって、どんな大学もカネを出しませんから、旅費も全部負担しなければなりません。それで7人以上は呼べなかったということもあります。
 7人でも呼ぶことができると、日本人に5、6人、はいってもらい、私どもも入れて15人くらいで会ができます。そのかわり1週間、これを申しますと、うそと思われる方もあるかもしれませんが、ここに証人の1人がおられます(橋本先生)。前から知っているので証人の資格はありませんが、朝9時から始めて夜の11時まで、それを6泊7日行いました。ほんとうにそれができたのです。そういう会でした。
 そのうち、日本人がだんだん脱落してきて、外国人は韓国、中国からもお呼びして、外国人が12、3人、日本人は3、4人ということで、だいたい20名以内でやることになりました。
 そのことについては、私は日本の企業家の中で、ほんとうに私は今でもそのことをお話しようとすると、感きわまって涙が出ますので、あまりくわしくはお話できませんが、東洋紡の社長や会長をしておられた谷口豊三郎という、東京大学工学部の先輩ですが、その方が、私が困り果てて1977、8年頃学士会会報に何か書いてくれと言われたおりに、自分はエコエティカという考え方をもっていて、これからの世界はきっと倫理がいろいろと乱れて犯罪の世紀になっていくかもしれない、そういうとき一番大事なのは、人間の行為の原理をさがす、しかもそれは国民のではなく、人類の原理をさがさなくてはならない、そういうものが必要ではないかという論文を書いたのです。まさか、工学部出身の先輩が読んでくださるとは、思っておりませんでした。
 哲学者の間では、お話したとおり悪評がありまして、名前を見ただけで読まない先生も多かったのですが、谷口さんは読んでくださって、谷口さんの同年代のご友人で、東大の文科系の先生で脇村義太郎という先生がおられますが、谷口さんは脇村先生に電話をかけて、こういう人がいるらしいが、自分はそういう恵まれない学者たちに補助をしたい。国際会議をしたいと言っているそうだが、補助すると言ってくれ。ただ、それがほんものの人間かどうか、犬ではないのですが、君が調べてくれ。脇村先生はえらい方ですが、経済の先生ですから私のことを知っていらっしゃるはずもありません。
 脇村先生のお友だちが、桂寿一先生です。桂先生は、文学部の哲学の教授でした。私が助教授の時代に教授でした。脇村先生が桂先生に電話をかけて、文学部にこういう男がいるかどうか、谷口さんはその人が本物の人間かどうか確かめるために会いたいと言っている、君からも電話をかけてくれと言われて、東洋紡と桂さんの両方から研究室に電話をくださった。
 その頃私たちの研究室には、韓国の留学生が何人かいました。韓国人の大学院の学生が研究室で助手の代わりに当番をしていて、電話を取らなくてはならない。そうして電話を取ったのですが、韓国からの留学生ですから、あまり要領を得なかった。立派な日本語を話すのだが、電話には慣れていなかった。
 「先生、何かトウヨウボウというところから電話がありまして、また桂という人からも電話がありました」と言うのです。
 ちょうどその頃、山の中でセミナをするのがはやっていて、高野山に何々坊という宿坊があり広告がきて、行ったこともあるのですが、結局お寺の宣伝のようなことになっていて、そして畳ですからとても外国人の会議などはできません。そこで、よく電話をくださるところがあったのですが、また坊か、高野山の坊ならお断りだ。それでは桂の方はどうしましょうか。これまた料亭の名前かと思いまして、放っておいたのです。そうしたら桂先生から、今道君、1週間前に大事な電話をしたのに何をしているのだ。料亭だと思いましたとは言えないので、申し訳ありませんでした、電話を取ったのが留学生で、誤解がありました、と言って、大急ぎで谷口さんに電話をかけましたら、学士会館で会ってくださいました。
 そして私が考えていることを申しましたら、谷口さんは、自分は2つのどちらかしかできない。2000人くらい集まる哲学の総会を日本でやったことはないそうだから、もしやるなら、それを1回限り。そのとき、100人くらい外国から招待しなければならないと思う。ホテル代もかなりかかる。一時金はそれくらいしか出せない。
 それとも、自分が理想とするようなやり方でやってもらえるならどうだろう。ご自分の理想というのはどういうものでございますかと言ったら、若い、将来のある学者を集めて、20人以内にして1週間くらい泊りこむのだ。実は、僕が思っているのはそれなのです、と言って、お話しがあったら示そうと思っていた計画書をお見せしました。そうしたら、谷口さんが言われたこととよく似ているのです。私は、若い人だけではなく、世代間もあった方がよいと思ったので、長老級、中堅級、若い人、若い人の方が多くて、中堅が少なくて、長老は2、3人。私自身も長老の中にはいることにして、世界に名のある長老を呼ぶ計画を書いていました。同時に、男女ということ、当時国際会議というと男ばかりでしたので女性の優れた哲学者も入れる計画をお見せしたところ、谷口さんは非常にお喜びになった。
 その頃谷口さんは70歳、私は58歳だったのですが、70までの経験からいって、人間はまじめに生活しておれば70歳までぼけないでできる。あなたは今から2年くらい準備にかかるから、60歳から始めることになるでしょう。60歳から始めて、70歳までは大丈夫です。ほんとうの人間で、しかも70歳まで大丈夫だと認めてくださった。しかも10年間保証しますと言ってくださった。恥ずかしいお話ですが、それまでどこに行っても野良犬のように扱われていた。それが、思いもうけぬことで、お金を願ったのではなくて、こういう学問をしたいという論文を書いて、それを認めて補助をしてくださる、信じられないことでした。よく夢を見ているのではないかといって、つねるということがあるが、私はこのとき夢ではないかと思って学士会館の机の下で足をつねってみました。不覚にも、落涙いたしました。
 谷口さんは、非常に喜んでくださり、君に才能があるかどうか分からないが、真心がある人だ、友人としてつき合いたいと言われた。天下の東洋紡の会長、しかも私よりはるかに年長の方が、そういってくださった。それがもとで、エコエティカの会議ができるようになりました。
 70歳のときに私はご挨拶に行きまして、いよいよ今年が最後でございますと申し上げたら、たしかに70歳まで大丈夫だと言ったが、自分も80歳過ぎてぼけていないから、どうだ、80歳までやらないか、ただし、自分で大丈夫と思っても他の人がみたらどうかな、ということもあるから、後継者を決めておいて、75、6歳頃になったらその人に譲るようにしたらどうか、と言われた。
 それで、イタリアのマリコ・オリベッティかアメリカのペータ・マコーミックか、どちらかを後継者にしよう、そして何かがあったときは、本人には言わないでおいて、ペータ・ケンプというデンマークの人にしようと決めておきました。第一の候補は、マリコ・オリベッティだったが、昨年、ほんとうに元気な男だったが、朝ジョギング中、心臓まひで亡くなった。それで、譲ろうと思う人に譲られなくなった。形式的には私がまだ会長をしているが、まだ若いペータ・ケンプに組織委員長をしてもらっています。
 エコエティカの国際会議は、22年ほど日本でやりましたが、一昨年かその前からデンマークのコペンハーゲンでペータ・ケンプが組織委員長をしている。幹事の仕事は、橋本教授が続けられています。この人はまだ若いので、大丈夫だと思っています。
 だんだん世界的になってきて、昨年、「エコエティカ」というこの本の訳ですが、ドイツ語訳ができて、今英訳が出ることになっています。仏訳も出ます。韓国語訳が最初で、ドイツ語訳が2番目の外国語訳です。これを情報システム学会に、記念に寄付をしたいと思います。お受け取りください。

 それで、エコエティカといいますのは、エコがつきますから、環境倫理学だと言われる方がありますが、そうではないのです。環境倫理学では、環境を自然としているのですが、私の考えでは、自然はもちろん否定できない大環境ですが、私たちの日常生活は、私の言葉では、技術連関と言いますが、テクノロジカル・コンジャンクチャーと言いますか、コヒージョンと言いますか、技術連関になっています。もちろん私たちは、太陽を浴び、空気を吸っているのですから、自然は環境でない、などとは申しませんが、私たちの都市生活の環境は、完全に科学技術的な連関です。
 現代をどう規定するかというとき、私はいつも科学技術が道具であるという性格を維持したまま、日常の環境になって以後を現代という、と言っております。したがって、まだ現代になっていない地域も世界にはあると思います。けれども、日本を含めていわゆる先進国は、1970年以後は少なくとも完全にそういう生活圏内にはいっているのではないかと思います。
 現実に、私たちは忘れていますが、1950年といいますと、科学技術の時代と言っていいと思います、原子爆弾もできておりますから。その当時、大学の中で最も設備がよかったのは東京大学でした。東京大学には、スチームはあったのですが、夏は暑くて暑くてたまらなかった。そして、静かな都市に建てられたのですから、窓は防音装置がなく、窓を閉めてもうるさいのですが、窓は開けないと、さらにドアまで開けないと風が通らない。風を通すようにすると、外の声が皆聞こえてくる。窓を閉めて、汗まみれで講義をしていました。
 金子武蔵先生という、倫理の大先生がおられた。これはまた野蛮な方で、当時そういう先生はおられなかったのですが、服を脱ぎ、とうとうランニングシャツ姿で講義をされた。これは問題になりました。風紀上よくないと。しかも倫理の先生ですから。心理学の高木先生は、蝶ネクタイで黒い上着をつけて講義をされていた。私が教授になった頃は、上着を脱いで講義してもよくなっていました。でも今は、上着を着ないと寒いような部屋が多くなりました。
 それ1つ考えましても、もう働く場所に四季はない、と言ってもよいですね。科学技術が完全に環境になったと言ってよろしいと思います。
 これはまた、話がそれるようですが、申し上げてよいと思います。長塚節という歌人がおりました。農民文学でも有名です。彼の歌に、白埴(しらはに)の瓶(かめ)こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くみにけり、があります。白埴は、白磁の白い瓶です。だから、涼しい感じがします。その瓶は、ほんとうに便利でよいものだ。霧ながら、というのは、これは半分農家のような広い庭でございましょう。それで、夏です。夏、井戸があって、井戸に白埴の瓶を持って水を汲みに行くのですね。だから、背戸の方の杉の木立に霧が流れている。霧が流れている朝に、井戸から冷たい水を汲んで帰る。ですから汲みに行くときも露草の上を踏んでいく。汲むときも、皆様お若い方は見たこともないかもしれませんが、つるべ井戸というのがあったのです。あれも一種の科学技術の応用で、滑車を使って、それでなければポンプで水を揚げていました。どっちみち井戸の水は、夏は冷たいです。すいかなど、井戸につけて冷やしていたものです。ですから、こういう歌を読みますと、夏に冷房装置のない東京近辺の農家ですが、その涼しさはなんとなく伝わってきますし、広い庭を持っていた東京のうちならば、必ず家の中に井戸がありました。そしてその井戸は、私が大学にはいる頃には、飲めなくなっていました。
 皆様ご記憶があると思いますが、昭和20年敗戦の年、あの前後、東京はまだ肥やし汲みがあって、肥やし汲みの自動車もありましたが、牛や馬でもやってきました。牛や馬でやってくる肥やし汲みは、わりあいお金持ちの家に行くのです。なぜかというと、いい家の糞は、質がいいと言うのです。肥やし汲み同志で、場所争いもあるのです。家の方でも、2軒くらい頼んでおくと溜まらないうちに来てくれるというのでそうしていました。そういう時代に、すでに水洗便所を使っていた家もありました、明治時代から。そういう家は、土の中に垂れ流しをしていた。だから、昭和15、6年頃から、高台を除いて井戸水が飲めなくなっていたのです。法律で決まるくらいうるさくなっていて、水道になりました。
 1950年頃、東大の夏は暑くてたまらなかった。今、自然の四季を排除して、人間にとって快適な温度をずっと続けるという、そういう状態になってきました。そういうことを考えると、われわれの生活環境はもうテクノロジカルなつながりと、それから文化環境がありますが、そのようなものになってきています。

 ところが、environmentとかcircumstanceという言葉は、どういう意味かといいますと、circum+sto で、stoというのは立つという動詞で、これの現在形がスタンスになります。キルクムが、まわりを取り囲むという副詞・前置詞です。キルクムスタンスというと、まわりに立っているという意味です。それが英語になって少しスペルが変わりますと、circumstanceになります。だから、circumstanceは、われわれを取り巻いていなければならない。
 それからenvironmentも同じ意味で使われていますが、environnerが今フランス語でも残っています。これは、取り囲むという動詞です。それに男性名詞語尾mentをつけますと、英語でenvironmentになります。これも、われわれを取り囲んでいなければならない。それが環境だという。取り囲んでいるという意味では、科学技術もある意味われわれを取り囲んでいます。
 ただ、科学技術の場合、われわれの生活の場ではないか、行動の場ではないかという考えをもたなければならなくなってきた。というのは、宇宙にまでわれわれの知識が及んできて、われわれを取り囲んでいる世界とかけ離れたところで行なわれているような、雲の動き、大気の流れも取り囲んでいると言っていいのではないか。それらの動きが分かって、天気予報も当たるようになってきました。
 私どもが小学生のとき、ラジオで天気予報があったが、雨の確率とは言っていなかった。夕方雨が降るでしょうと言っていた。そうすると皆、きょうは傘がいらないなと言っていた。天気予報の逆をいっていたら当たるという、そのようなものだった。むしろ、漁夫の直観のようなものがよく当たっていたのですね。今は台風も憐れで、発生のときからずっとつかまっている。
 このようになってきたのと、もうひとつ、われわれの体の内部、取り囲んでいるのではなくて、人間の内部、そのまた内部まで分かってくる。そしてそれと同時にある程度先が分かってくるということがあります。取り囲んでいるものの現状ではなくて、取り囲んでいるものの動きをつかまえる。地震までは予報できませんが、空気の流れは予測できるようになってきた。それは全部、情報機器が発展してきたからだと言ってよろしいと思います。大気の動きをキャッチするのは、人間の眼ではむずかしいが情報機器がキャッチしてくれる。
 そうすると、考えてみなければならないのは、われわれの獲得する情報は、われわれを取り囲んでいる世界を、さらに知的に包括しているのではないか。だから、われわれの環境を超えるものではないか、環境を取り囲む知の世界があるのではないか、ということを考えてみなければなりません。

 ですから、学問というのは、そうだといえばそうなのですが、歴史学とか哲学は、そういう環境全体を超える世界を考えても、それはあくまで観念の世界、実在しないのですが、情報機器がキャッチするものは、われわれを取り囲む世界を知的に超えて包括しているのですが、それは実在的な影響を与えている、ということになります。
 哲学も歴史学も、いわゆる人文科学も知識ですから、ちょうど情報と同じように、われわれを取り囲む世界を包括しているのですが、その包括は知の限りであって、われわれ人間がその知をもとにして、さらに考えなければならない。情報機器によって獲得した知識は、人間に考える必要がないくらい、もう雨は降るのだから傘を準備しなさいと伝えてくれる。もし情報世界で、さらに知的に進歩しようとするならば、歴史の知識、哲学の知識でこういうふうに世界を一括したあとで、どうやったらいいか考えるのではなくて、情報機器の場合は情報獲得の能力をさらに増やすように、さらに正確にするように、機械をつくっていくことが大事です。

 そこで、情報とは何だろうか。哲学者や情報に関係する哲学者にあんまり分かっていない。情報という言葉はいろいろ使われたことがあって、私たちの年代の場合、第2次大戦中にも内閣情報局がありました。奥村喜和男というのがいましたが、うそばかりついていた。この場合情報は、国家が捏造して国民の戦意を保つためのうそだと言える。今日でも正しいのは、スポーツの情報だけではないか。政治の場合、情報の提供者がうそつきなら、それを正直に伝えたらうそになる。そこで、ジャーナリストはいろいろ考えて、自分流のうそを捏造する。フィクションの世界と考えてよろしいのじゃないでしょうか。
 ほんとうの情報とは何だろうと考えると、科学的な情報、これは例えば、今エボラ熱がどこかではやっていて、エボラ熱は今の学問の世界の限りではこのような症状を呈するものであるということを、素人に分かるような言葉に直して発表すると、これは一つの情報である。情報は、人が発するものということになります。
 ここでラテン語にかえって、英語のinformationのもとになったinformoについて考えてみる。残念ですが、日本人が情報という言葉を分析して、分かってくるものもあると思いますが、もともとinformationに関する学問の世界は、informoという言葉を使っていたギリシャ・ラテンの世界につながっていますので、西洋かぶれということではなく、情報とはどんなものだろうかと基礎から考えるときに、informoがどういう意味であるか、考えてみなければなりません。そしてそれを、日本訳で考えるのではなくて、この言葉がどういう意味であったかということを考えてみなければならないのですね。

 今までの学問の知識は、大きくいって2つだったと思います。1つは、representatio、英語ではrepresentation、あるいはexpressio、これはexpressionで表現と訳します。Representationは、再現と訳します。この区別は、情報学にとっても大事だと思います。
 Representatioは、芸術では写生になります。そこにpresentationされているもの、例えばここに白板があるとき、ここに何があるか、どれくらいの大きさのものがあるかというとき、presentationされているもの、ある会社でこれをつくって、われわれがそれを見て、大きさがいくらくらいか測る。そうすると縦・横の寸法が出てくるが、それがrepresentatioです。目で見ると、縦横の比率がちがって感じられることがありますが、測定すると正確にわかる。representationは、科学的な、あるいは工学的な知識のもとであると言ってもよいと思います。それがないと、科学的な記述はできないからです。もともとそれは、自然科学的な領域ではっきりするのですが、人文科学的にrepresentすることもできるのです。人文科学的にrepresentするというのは、これは何と何の材質でできていて、どこの会社で原価いくらでつくったのが販売店にいくらで届き、それをこの会社でいくらで買ったのか、また取引に関わった人は誰か、きちんと再現されると、どのような経済的な動きの中で運ばれてきたのかがはっきりします。
 それだけで学問はできるのですが、もう1つexpressioというのは、芸術や表現、 exは外へ、pressは押すことですから、もともとこれは農業用語です。ぶどう酒をつくるとき、ぶどうを押すとぶどうの汁が出てくる。それと同じように、自分の心の中での思いを押し出したときの絵をexpressioと言いますから、表現主義の絵などは、外にきちんとした形を描くのではなくて、非常に腹立たしくなって、怒っている気持ちのときは、赤と黒を混ぜて描く。そういう絵をいいと言う人もいます。
 Expressioというのは、自分で見て、そしてそこから出る思いを非学問的に述べれば芸術的表現になりますが、学問的にも表現するやり方はあります。例えば、自分はそこに再現されたということで、何メートル何センチということが出てきたけれど、自分はいつ頃黒板ではなく白板が使われるようになったのかが知りたい、という人もいます。しかも、どうして変わったのだろうということも知りたい。そうすると、黒板に白墨で書いていたとき、粉をたくさん吸うと小学校の先生などけい肺になっていた。白板にすると、実際には黒い粉も出ていますが、まあいいだろうということで使うようになったのではないか。世界でそれを調べてみよう、ということで、まず新しい問題を人文科学の人が言うときには、そのような発想もあります。それは、もとは自分は健康でありたいということがあって、そこから出てきたのではないか、それはいつ頃からのことか。そうすると誰かが、健康からきたのではなくて、白板でないと色を示すのに向かないのではないか、だから教育効果から出てきたのではないか、と示すのもexpressioです。
 したがって、学問は今までrepresentatioかexpressioか、どちらかででき上がっていた。どちらをどの分野の人が考えてもよかった。ところが今、ここでこうして考えている学問は情報です。これが何センチということも、黒板から白板に変わった経緯も情報です。representatioもexpressioも情報にはなるのです。しかし、情報はrepresentationでもexpressionでもないのです。それは、informare、informoという動詞からきたinformatio、これはどういう意味かというと、formaの中に入れるということです。日本語の辞書だと、形づくる、形の中に入れるということになるが、ラテン語でformaといったときは、これはもともとギリシャ語のイデアのラテン訳です。イデアは、ギリシャ語で「見られた形」、プラトンは「精神の目で見た形もイデアと呼ぼう」と言った。そうすると、informatioのformaというのは、精神の目で見た形ですから「観念」と言ってもよい。Informatioのもともとの意味は、観念の中に入れていく、ということです。

 そこで考えてみますと、たしかに情報というものは、われわれの知識のもとになるもの、われわれが見たものをrepresentatioやexpressioにするのではなくて、観念の中に入れてしまう、観念化するということです。情報というのは観念化だというと、観念という言葉でいろいろなことが言われていますから困るのですが、情報の中で最も確実な情報というと、数があります。1、2、3という数は、観念です。情報は、もともとギリシャ・ラテンの意味では、観念化されたもの、抽象化されたものということになります。
 よく情報関係の方から私たちは悪口を言われるのです、哲学者は抽象的であると。もともとinformatioというのは抽象化することですから、自分でやっていることの悪口を言っている、と言いたくなることがあります。
 Informatioというのは、あることを観念化することです。私たちの生活環境は、今まで自然のほかに科学技術的な世界がある、文化的な世界がある、といったときに、「物」を考えていた。文化的な世界でも、絵画や書物は物である。しかし考えてみると、私たちの生活環境が情報世界にあるということは、情報世界はわれわれの物の世界を超えた世界である。そしてまだはっきりとは捕捉されていないけれど、私たちの日常生活に大いなる意味がある。また、それこそが人間の行為・行動とかかわりの深い場所であるということを考えてみなければなりません。
 情報社会を考えるということは、あるいは情報だけを考えるということは、それが必ず人間の行為・行動に関わってくるのだとすると、そういう形で観念化されている情報の世界で、倫理が問われなければならない。なぜかというと、われわれが今までrepresentationやexpressionの場としていたその場に、informationという考え方を入れて、これを観念化する。

 昔からある、informationの反対の言葉は、incarnationです。これは、血肉化することです。Incarnationがしょっちゅう使われるのは宗教です。神が人間に受肉したという言い方があって、キリストは神が人間の肉をとった、日本語で受肉と言っていますが、ラテン語でinが使われていますから入肉といったほうがよい、牛肉のようですが。神が物体の中にはいるのが入肉だとすると、物体からformaの世界にはいっていく、抽象の世界にはいっていくのがinformationです。
 神のする仕事が肉化、これは全部の宗教がそうだといってよい。仏教では、現(うつつ)の身体に顕われてくる。仏様が肉をとって顕われる。いろんな言い方でちがいがありますけれど、現し身をとる。宗教では、incarnationが大事です。
 学問では、informationが大事です。Informationは、すべて、物であるものを物でない知恵に還元することだと言ってよいくらいです。そういう言葉の背景をもっているのがinformationだということを心において、情報科学としてはもっといろいろな要素がありますが、もともとそういうものだということを考えると、初めから情報の世界はrepresentationやexpressionという、この世の中のものを人間の側に還元しているように思えますけれど、実はわれわれを取り囲んでいる世界、われわれがいる世界を理解するために、あるいは活用するためにどうするのかというと、観念化してしまう、informatioする。informatioの1つは、記号化だと思います。記号に変えていく。記号化なしには、おそらく情報は成り立たないし、情報機器は、例えば電話機は、0〜9の数字やアルファベットなどを組み合わせてコード化ができてくる。一応記号化した上で、今度は神のように、記号を肉の上にincarnationする。Information、incarnationというのは、面白い取り組みのように思います。
 もともと観念化するということは、この世にあるものをもとにして、ある形に変えていく。しかし、もうそれは、この世のものでないのですから、見ようによっては影の世界だといってよい。例えばこれを見て、コップだという。コップといってもいろいろな形のものがあるし、いろいろな材料でできたものがある。それをコップというもので一括しようというのは、よく考えてみると、ここに光源を置いておいて、ここにコップを置くと、ガラスでも陶器でも同じような影ができる。ちょうどそれと似たようなところがある。
 影とはなんであるかということも考えてみなければならない。影をギリシャ語でスキアといいますので、スキアロジーを考えてみなければならない。スキアロジーというのは、エコエティカを考えたり、エコエティカの1つとして情報のことを考えるときに必要ではないかと思って、スキアロジー、影論、もの学ではなく影学として考えてきました。コップは全部一様な影になる。抽象というのは、つき上げて上のほうにいくという意味がありますが、知覚の世界では影に統一するのもよいかもしれない。だから現実に、私が日本人として立っていて、誰かが米国人として立っている。このとき、私が服のボタンをかけて影を操作して米国人と同じ影にすることもできる。いろいろなことを考えると影論は重要である。情報は、抽象的な記号であると同時に、具体的な影でもあるような気がします。そういう性格は必ずはいってくるものと思います。

 人は都市で何を見るのか。街を歩くと、たしかに世界は、アウグスティヌスが見ていたとおり、教育は世界現象です。アウグスティヌスはキリスト教の世界では忘れられない大学者です。キリスト教の大学者というと皆、白人と思うのですが、アウグスティヌスはミラノで活躍したアフリカ人です。黒人です。親が子どもを教育する。カラスでもウサギでも教育をしている。遊びを通じての教育もある。私は子どもが小さいとき、ウサギを飼ったことがありますが、そのウサギが子どもを産んだ。見ていると、ときどき後ろ足でポンと音を立てて跳ねる。子ウサギは逃げる。親は意地悪をしているのではない。何かあったときに、物陰に隠れる練習をさせているのではないでしょうか。だからウサギでも教育をしている。カラスも鳴いたり、翼を広げて教えています。
 都市で行なわれているすべての営みには学校がある、といってよいと思います。小学校から大学までの学校がある。文字や学問を教えている。ピアノの学校がある。語学の学校がある。駅前留学のように何でもできるような気がするときがあります。特に中央線沿線の荻窪あたりで降りると、ピアノもある、語学もある、生け花、琴、料理、何でもある。自動車教習所。骨接ぎの先生がいて柔道も教えると書いてあります。骨を折っては儲けているのかなと思ったりします。ゴルフ。全部勉強できる。お金があって、ゆとりがあって、多少体力があって才能があると、いろいろなことが学べる。ただ不思議なことに、倫理を教えるところがない。学校も倫理は教えない。道徳の時間があるのですが、いい学校ほど道徳の時間を数学の時間に変えて、入試に受かるようにしているのです。いい高等学校ほど、今君たちのやる道徳は、うかることである、親に孝行になるから、と言う。だから、うかるために、数学や英語をやろうと言っている。
 私は、道徳の副読本を編集しているので、実情をよく知っています。副読本を置いていない学校がある。大学にはいっても、道徳や倫理は学ばない。文学部で哲学科倫理というのは、哲学科にとって哲学は必要であり、倫理専攻で倫理は学ぶが、あとの学科の人は、単位をとるため、定員があいているというので倫理を学びにきます。しかし授業に出ると、倫理はつまらない。ほんとうの倫理を教えないで、カントの倫理やアリストテレスの倫理を教えている。これも大事でやらなければならないが、これだけではどうにもならない。

 「千人のダミアンより一人のハンセン、一人のドーマク」という言葉があります。ハンセン氏病は、伝染力は小さいが、恐ろしいと考えられていた病気でした。肉が腐り脱落していく。末梢神経が利かなくなる。蟻走感が起きる。遺伝するというまちがった情報があり、発病すると兄弟に迷惑をかけまいとして、戸籍を抜いて療養所にはいるということがありました。以前は、特効薬がなく発病した人は気の毒だった。当時は癩という言葉が使われていて、癩文学があった。北条民雄、歌人で明石海人が有名です。
 私が尊敬していた司祭に、岩下神父がおられました。日本の中世哲学研究では、いまだにこの人の本を抜くものはないのではないか、といわれるくらいの学者で、第一高等学校を首席で卒業、大学卒業後、鹿児島にある第七高等学校の教授として赴任しました。卒業後すぐ高等学校の教授になったので、いずれ大学教授になると思われていたが、彼はローマに行って司祭になりました。司祭になって、本も書きましたが、信濃町に真生会館という勉強するところをつくった。われわれ若い者がそこに集まって勉強もできたのですが、彼は全部の人に見捨てられている癩病院の院長になりました。富士山麓の御殿場に復生病院があり、そこの院長になったのです。
 「復生」は、情報にも関係しますが、復活する命、癩病になっても未来があるという気持ちです。キリスト教を信じない人にそんなものは意味がないというのですが、毎日、未来に光があるのだ、という気持ちで接してくれる人がいるのと、そうでないのとでは大ちがいです。明治天皇の皇后だった昭憲皇太后は、こういう人たちにお金を下さって、当時都内に癩病院があったのです。その癩病院、宮中からお金を出して、国家がつくった病院の名前が「慰廃園」です。廃物の廃です。あなたがた、廃れた人だけれど、それを慰める。どうしてそんなかわいそうな名前をつけるのか。しかし当時の人たちの気持ちでは、廃物に近かった。うつすだけで何の役にも立たない、穀つぶしだ。そういう人を慰める。そのような時代に岩下神父は、復生病院とつけられた。
 同じものに、どういう情報をもとに、どういう名前をつけるのか。多分情報科学の中で命名しなければならない場面がたくさん出てくると思いますが、人間に対する愛、人間から希望を奪ったら地獄に落とすようなものだ、ということを考えて見ると、入院先が慰廃園だといやな気持ちになるのではないか。行ってみると川があり橋が架かっていて、その先に「復生」病院と書いてあるのとでは、大きくちがいます。何が復生だと思う人もいるかもしれませんが、廃物を慰めようというのと、そこに待つ人が、同じように復活を待ち望む友として迎えてくれるのとは大ちがいでしょう。
 私は病気に対して臆病でしたが、岩下先生の立派さは、ふだん尊敬していました。高等学校にはいったとき、友だちにだまされたことがあります。君は岩下神父を尊敬しているねというから、ええ、というと、岩下神父がつくったとてもいいところがあるから行かないかという。そこで、信じてついていったら復生病院だった。
 帰ろうと思いましたが、友人の、後に蟻の町でも働く粕谷神父は力が強く、無理に連れて行かれた。皆絶望していると思っていましたが、行ってみると思っていたのとちがう。ちょうど、馬鈴薯の花の咲いている時期でした。あと、1〜2ヶ月したら、またいらっしゃい。私たちの育てた馬鈴薯が食べごろになります。熱湯で煮ますから、心配しないでいいですよと言う。
 そして、きょうは(のどに病気の及んでいない)声のきれいな人たちが歌を歌ってあげるそうですと、岩下神父の後継の千葉神父が言う。せいいっぱい大きな声で歌うように呼びかけられた、僕も歌うからと。
 近づいてはいけないと、よくしつけられていて、子どもまで舞台の上で一定の距離を保っている。あのような拍手を聞いたことがない。手のない人たちの拍手です。涙が出てきてなかなか歌えないが、ここで歌わなければと一生懸命歌いました。聖歌で、歌われていることはうそのような気もするが、懸命に歌ったらほんとうに喜んでくれました。いやかも知れませんけれど、ジャガイモのできたとき、また来て下さいと、ター坊というあだ名のついていた12歳の子どもが言ってくれました。顔にも病気の及んでいた子どもでした。
 モロカイ島というハワイの島に、アメリカ中のハンセン氏病の患者さんが運ばれてきていました。そこには、掘立小屋のようなものしかなかった。ダミアン神父はその話を聞いて、モロカイ島に渡りました。そして実情を見て、これは大変だ、これでは雨露さえしのげないのではないかと思った。彼はベルギーの人でしたが、ベルギーやフランスからお金を送ってもらって、家をつくり、病院を建てて、お医者さんを1人招いた。しかし、お医者さんも、ほかの病気を治せてもハンセン氏病は治せません。
 若いダミアンは、君たち希望をもたなければ駄目だ、と励ましたが、神父さんは若くて顔もきれいで、希望だってもてるだろう、俺たちは国を追われて、名前まで変えてきているのだ、死んだって誰が悼むだろう、と悪く言われる。
 のどを痛めて歌が歌えない、手の障害で詩が書けない彼らにどのように希望を与えられるか、ダミアン神父は、私も同じ病気にしてくださいと祈った。そして毎日のように包帯を変える仕事を続けて、ついに感染しました。ダミアンは感染しても、これで君たちと同じになれる、それが院長の仕事だと、平静でした。これには、どんなに悪く言っていた患者も、頭を下げた。あなたは、そういう気持ちで来てらしたのですか、と言って、ダミアン神父の言うとおりに少しでも希望をもつように努力するようになった。親に見放されたと思っていた人たちも、近況を知らせる手紙を、代筆してもらっても、書くようになった。このようにダミアンに慰められた人たちはたくさんいました。
 しかし、1930年代、とうとうハンセンがばい菌を突き止めました。なぜ発見ができなかったかというと、動物実験ができなかった。動物にはうつらなかった。木下杢太郎というペンネームの、太田先生という皮膚科の医学者がウサギの耳に移植して潰瘍をつくることに成功しました。それを読んだハンセンが発見に至った。そしてドーマクというドイツ人が、抗生物質のあるものが効くことを見つけました。
 抗生物質は、私が高等学校の頃、出てきました。ちょうど、チャーチルが肺炎になって、それが抗生物質のペニシリンで治ったといって、日本中で騒いでいました。私は、高等学校のとき、軍医学校に勤労奉仕に行き、スパイが入手した文献を訳したりしていました。黄金ぶどう状球菌に抗生物質が効くと書かれていた。それに似ていたのか、ハンセン氏病に効く抗生物質が見つかりました。1930年代か40年代の初めの頃のことです。しかし、ナチス政権は、ドーマックが反ナチだったため、ノーベル賞を受けるのを拒否させました。そのため有名にならず、日本人がハンセン氏病が治ることを知るのは、1950年代以降になりました。

 これを見ると、科学技術や社会政策が進んでくると、1000人のダミアンや聖人や優しい人よりも、たった一人の医学者・科学技術者がいる方がよいということになります。ダミアンが聖人だろうとなんだろうと、病気を治すことはできない。しかし、たった一人の、仮にハンセンが、罪を犯すような人であっても(もちろんそんな人ではありませんが)、仕事としてばい菌を発見するなら、それでいいではないか。だから、人間の行動・行為を規定するのは倫理ではない。医者だったら治すことだ。倫理では直らない、だから倫理は無用だ。むしろ科学でいい。そういうことをラッセル、テイラーなどの哲学者が言っています。テイラーは、倫理は、人間の行動を見て、分析すればそれが倫理学だ、価値は要らないと言っています。
 多分、そのような考えがすべての人にいきわたってきたのでしょう。日本でも戦後、飢え死にするような人がいた。だけれども、国家が福祉政策をとれば、飢え死にしないですむではないか。倫理よりも政策だ、倫理よりも科学だ。多分、そのような気持ちがうつっていく、影のようにうつっていきます。

 情報の世界は、先ほど申しましたように、われわれを取り巻く世界よりさらに大きな知の世界、われわれが住んでいるところを取り巻いている新しい世界、そこでの仕事が全部私たちの世界に還って来て、いいこともあれば悪いこともある。だけど、そういう世界で倫理を考えないと、どういうことになるのだろうか。そして、そういうところで倫理を語っても意味がないというかも知れない。なぜかというと、pagan(異端、邪教)とはpāgānus(ラテン語、田舎者、※編集部注:p?g?nusと見えるとき、?はaの上に-(マクロン))のことなのに、どうしてそう言われるのだろうか。田舎物は、隠れることのできない自然の中に、大地に拡げられたままの生産物を置いておくのです。誰も盗らない。町の中で、キャベツよりも安い品物を並べておいてご覧なさい。あ、これは便利だといって、皆盗って行くかも知れません。科学技術の世界は、人が身を隠すことのできる世界です。立派な家がある、コンクリートの家がある。はいって、鍵をしめてしまえば何をしても、誰にも分からない。
 だから、情報の機械が一番進んできた今、一番進んできているのはインターネットや携帯電話の世界ですが、名前を隠し、住所はイーメールでどこの空間にも位置づけられず、通信だけはできる。悪いことをしようとすれば、いくらでもできる可能性があります。そうすると、悪をどうやって防ぐか。隠れ蓑が初めて具体化された時代だと思います。空飛ぶじゅうたんは、20世紀に常識になってしまいました。航空機があります。遠目がねなどと言っていましたが、顕微鏡もあれば望遠鏡もあります。一瞬にして食べられる食べ物、インスタント食品もたくさんあります。昔の物語の不思議なものは全部できていたのですが、隠れ蓑だけはなかった。その隠れ蓑ができてきて、自由自在になってきたのが、情報機器の世界です。
 それが、大きな問題をもっているのだとすると、情報科学の発展による情報機器の出現、いいことはたくさんあります。携帯電話でどれだけいいことができたかというと、橋本先生の学校であるさびしい留学生が、皆と行った箱根の山が楽しかったので、大胆にも1人で箱根に行き、迷ってしまった。そのとき、携帯電話を持っていたので学校の先生に電話して、先生から警察に連絡、警察から本人に「その場所を動くな」と指示して救われた。だから、いいことがたくさんあるのですが、同時に悪いことがいくらでもできる。そうすると、情報科学の世界、情報の世界も、倫理の世界といってよろしいと思います。どのようにしてその悪を防ぐかという機械を考えていくのも情報科学・技術の倫理的な仕事だと思います。
 いろんなことを考えなければいけない。ただ、情報科学はわれわれを取り巻いている世界を包む世界、それはしかし情報機器を通じてわれわれが支配できる世界、だから、バーチャルリアリティといっている世界ではなくなってきている。それは、影の世界からわれわれの世界にはいってきている。
 そのとき、古い道徳を無視してはならない。エコエティカは、新しい倫理をさがさなければならないが、古い道徳の中で出てきた感動すべき話、古い道徳の中で大事にされてきた徳目も大事にしなければならない。だから、倫理学の初歩も、ある程度勉強しなければならないと思います。

 一番大事なことは、4つの大事な徳があるとよく言うのですが、3番目に大事なのは勇気をもつこと。勇気とは何かというと、敵にうしろを見せないことなどと言いますが、そうではなくて、勇気で一番基本的なことは、自分が正しいと思ったことは、ためらわずに言うことです。これは、私の学生時代、私の周囲にはいろんな人がいましたが、誰一人として、太平洋戦争を聖なる戦いと思っていた人はいません。私たちの友人で、学徒出陣といって、皆勉強するために大学にはいったのに、主として文科系の学生が出征したことがありました。機械はすべて国家のためにつくられるといわれた時代です。そんな戦争やめたらどうだ、という勇気のある人がたくさんいたらすんだかも知れません。
 1億870万人、これは20世紀の1986年までに戦死した数の、公の合計です。この戦死者の中には、戦場で死ななかった人ははいっておりません。だから原子爆弾の死者など、広島・長崎の人ははいっていません。1億870万人、もちろん人口は爆発的に増えていますから、戦死者も増えるだろうという考え方はあります。しかし、16世紀、われわれがみて野蛮だったかも知れない時代、人口は少なかったかも知れないが、戦死者は610万人。20世紀、まだ20世紀の終わらない1986年、そのあと統計はありません。とれなくなってきている。
 人権が大事だと言われている、そういう情報が伝わっている時代に、1億870万人、86年間に。どうしても情報の世界で、保全とか安全とか新しい徳が獲得され、確立されていかなければなりません。
 いろんなことをお互いに考える機会をもちたい。それは情報科学ばかりでなく、いろんな科学や倫理学の人が集まって、ときどきフランクに話し合って、来たるべき世界の倫理がどんなものであるか、考えていかなければならないのではないかと思います。
 時間がまいりましたので、これで終わります。