「群盲、象を撫でる」という諺は、表現に適切さを欠きますが、インド発のエピソードとして西欧の子供向けに書かれた哲学のテキストにも紹介されています。わが国ではこの諺が、全体像の分からない凡人の愚かさを示しているのに対して、西欧のテキストでは盲人が、優れた科学者も含め人間すべてを表わしていて「一人一人の認識が限られていても対話や弁証法によって真実に近づいていくことができる」という、前向きの説明に用いられているのが対照的です(青土社「ベレーニケに贈る小さな哲学」)
わが国では「情報」や「情報システム」が、さまざまな誤解や偏見により、あたかも「象」のような存在になっています。このうち情報については、その実体が言語であることをこの連載の第3回で述べました。そこで以下には、情報システムの概念構成をどのように考えたらよいのか、試案を示したいと思います。
一般にものごとの構成は、パーティションとレイアで表現することができます。パーティションとは平面(X軸、Y軸)の分割です。情報システムの場合、パーティションとして、行政、金融、製造、流通などの業種や、研究開発、能力開発、ラインプロセスの実行などの業務により分類することが考えられます。
問題は、Z軸に沿ったレイアの構成です。分割には自由度がありますが、マジカルナンバー7±2(Miller氏)の原則から、7つに分けることにします。7階層のお手本としては、すでにOSIの基本参照モデルがあります。
試案として示す情報システムのレイア構成は、次のとおりです。
(1)理念(哲学・倫理)層
(2)コントロール層
(3)インテグレーション層
(4)ソリューション層
(5)モデリング層
(6)言語(情報)層
(7)物理層
この構成ではレイアを、まず大きく(理念から言語までの)論理層と物理層に分けています。この分け方は非常に重要です。わが国では一般的に論理と物理を渾然一体にして考える習慣がありますが、それによって情報をコンピュータと同義に考えてしまうなど多くの誤解が生じています。今年出版されたソフトウェア工学の専門書の中に「たかだか60数年の歴史しか持たない仮想世界のIT」という記述があります。物理的なコンピュータとソフトウェアが同一視され、クラス概念のルーツがギリシャ時代にまで遡るという歴史が無視されています。
今日コンピュータ・ネットワークはきわめて大きな機能をもつようになりましたが、情報システムにおいてはあくまでも物理層における1つの要素です。現在でもなお、ビジネスにおいて紙やインク、会話において声帯や空気などの物理的媒体が、重要な役割を果たしていることに変わりありません。
象は超低周波を使って、10km離れた相手とも会話ができるそうです。2004年のスマトラ沖地震では、津波から発生する超低周波を事前にキャッチし、仲間に知らせ合っていち早く避難したため、タイ・スリランカとも象の被災はゼロでした。距離に限界はありますが、象は人間よりはるかに早く、インターネットシステムを作っていたと言うことができます。
情報システムの論理層は、言語(情報)が基盤になるという前提で構成しています。情報の実体が言語であることは、すでに述べました。言語の役割は、現実世界をモデリングして、思考やコミュニケーションを効果的に進め、問題解決を容易にすることです。
「象」という文字は、ほんものの象を模して作られました。また、象はあまりにも目立つ大きな形をしているところから、「かたち」という意味も表わすようになり、さらに「かたどる」すなわち「モデリングする」という意味まで含むようになりました。象をザウ(ゾウ)と発音するのは、身体の壮大なところからきています(学研「漢字源」、角川「漢和中辞典」)。
一般的には言葉は、例えばdogのように、必ずしも実物の形態や発する音などを反映したものではありません。しかしその場合も、言葉が対象にしているもの・ことをシンボル化して表現していることに変わりはありません。
通常の言語に、図式や数式など広義の言語を加えると、さらに複雑な事象の詳細なモデリングが可能になります。
トヨタ自動車のハイブリッドシステムは、画期的な技術開発として数々の賞に輝きましたが、基本仕様の決定はモデルによるシミュレーションによって行なわれました。ハイブリッドシステムは、公表されているものだけで80種類ありました。トヨタでは、その中で有力と考えられる10種類について原理を中心に検討、4種類の候補を選び出し、詳細なシミュレーションによって燃費などを評価した上で仕様を決定しました(板崎英士「革新トヨタ自動車」)。
ビジネスなど人間活動のモデル化は、新聞記者が事実関係を文章化するときと同様、5W2Hの問いに答える形で行います。情報システムの要求分析技法として長らく主流の位置を占めていた構造化分析では、特にWHAT、WHEN、HOWに重点をおいて整理し、それぞれエンティティ関係図、状態遷移図、データフロー図を用いてモデル化します。
前回も触れましたが、人間活動のモデル化では、現状をありのままに描く物理モデルを抽象化して、その本質を表現した論理モデルを作成することが重要です。
今、社会的に大きな問題になっている年金記録システムで、524万件のデータに氏名などが抜けていたことに関して、受託したシステムインテグレータは次のように述べています。「(当社は)受託に先立ち、社保庁にデータの不備があることを報告済みだった。当時、社保庁の依頼で(当社は)データの事前調査を実施した。このときカナ氏名などの不備を社保庁に指摘したが、不備記録もオンライン・システムにそのまま収録し、移行後に補正を実施していくという方針が示され、不備記録を含めてそのまま移行した」9月21日nikkeiBPnet ITpro)
つまり、SIとしてデータ不備は十分認識していて発注元の役所に指摘もしたが、役所から方針が示されたのでそのとおりに実行した(だからSIに落ち度はない)という主張です。ほんとうにそうでしょうか。このSIの説明には、役所の背後に存在し、データの不備によって大きな被害を受ける真のユーザ、国民に対する配慮が欠けています。
このケースは一般的に、尽くすべき対象が複数あり、それらの間に階層関係と矛盾が存在している問題としてモデル化されます。このようなモデルの問題は、過去にも多数例があります。
830年前、平重盛は絶大な力をもつ父清盛が上皇を軟禁しようとしたことから「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」という問題に直面したのでした。年金記録システムの問題で、SIがどのように行動すべきだったか、重盛の事例から明らかです。重盛はジレンマに苦しみながらも、必死に父を説得して忠義の道を全うしました。
年金記録システムの問題は、物理的にきわめて複雑な様相を呈していますが、論理的には江戸時代以前に考えられたモデルで容易に判断が可能な、単純な問題であるとも言えます。
この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。
皆様からもご意見を頂ければ幸いです。