38年の歴史をもつ情報処理技術者試験は日本のIT人材育成で重要な役割を果たしてきた。2000年からはアジア諸国でも同試験が実施され,資格の相互認証が行われている。それから7年経った現在,アジアの情報処理技術者試験の状況はどうなっているのか。アジアと中南米のIT人材育成の分野で各国の大学や政府機関で講義や技術援助の経験を持つ平塚亮三氏にご寄稿いただいた。平塚氏は経済産業省関連の事業で各国へ派遣され現地の人材育成に関わった経験を持ち,現在はIPA(情報処理推進機構)のIT人材国際化審議委員会の委員もつとめている。
1969年に通商産業省が始めた情報処理技術者試験は日本のエンジニアの登竜門として定着し,応募者通算累計が1367万人以上という国内最大の国家試験となりました。このメルマガ読者にも情報処理第二種(現基本情報技術者)や初級シスアドなどの有資格者が大勢居ると思います。2000年には当時の平沼経済産業省大臣が「アジアITスキル標準化イニシアティブ」として,我が国の情報処理技術者試験をアジア各国へ広め,合格者の日本と相互認証を行うことを提唱しました。
その結果,日本の14試験科目区分のうち,基本情報技術者(FE)試験などで各国と相互認証が締結されることになりました。
2000年の提唱以前から,日本に追随してIT資格試験を実施していた国には中国,韓国,インド,シンガポール,台湾があります。この既存の試験制度を持っていた国々を本稿ではAグループと呼ばせていただきます。それ以外の,日本のIT資格試験制度を移入する形で実施する事になった国々をBグループとすると,フィリピン,ベトナム,タイ,ミャンマー,マレーシア,モンゴルがあります。今後当然Bグループは増えるでしょう。
これらA,Bグループ各国の統計情報その他については,末尾に参考資料をお付けしますのでご覧下さい。また,興味有る方は,日本の試験実施団体であるIPA(情報処理推進機構)のサイト http://www.jitec.jp/1_18else/_index_else.html もご覧下さい。IPAは一対一の形態で相互認証を締結し相手国を一国ずつ増やしてきました。
これらの資料からIT資格制度の普及度を比較できます。最古の歴史を持つ日本は別格として,中国,インド,韓国の3国の実績が突出しています。その他の国は,どうもドングリの背比べと言った案配です。またIT資格制度の趣旨も国家毎に様々です。インドでは学歴の無い人に理工系大卒の資格や博士号を与えるための試験研修制度という位置付けですし,シンガポールでは技術系公務員向けの試験です。合格率もFE(基本情報技術者,旧第二種)レベルで,日本が約16%なのに対し,中国が約50%,モンゴルが3%と差があります。シンガポールのPM(プロジェクトマネージャ)では毎年100%合格します。
したがって,Aグループでは試験制度の趣旨背景が国家毎に異なり,相互認証の維持に多くの努力が必要だと理解していただけるでしょう。
IPAでは,IT資格試験制度のアジア普及とIT標準の適正普及を目指し,新たにIT資格試験を始める国々を援助し,相互認証を進めてきました。このBグループでは,前述のAグループに比べ,等質の試験制度を開始し維持することが出来ています。試験科目区分は日本と同一で,日本から提供された問題,採点基準,集計用ソフトウェア等を使用します。とはいえ当初は相互認証が個別に締結された事もあり試験日がまちまちで,試験問題は同じ年でも国ごとに異なっていました。
IPAは2005年11月にBグループ各国を召集し,各国間での統合相互認証の実施を会議で決定しました。更に2006年から春夏年二回同日に同一問題でアジア共通統一試験(IT Professional Examination)が実施されるようになりました。このアジア共通統一試験のために該当7ヶ国代表によりITPEC(IT Professionals Examination Council)という協議会が年に二回集められています。試験問題と解答例は当初全て日本から英文で提供されていましたが,ITPEC発足後は各国持ち寄りが少しずつ進められています。今後各国試験実施団体が経験を積んで様々なノウハウを磨いていくことでしょう。ITPEC内では一対一ではなく参加国全てで資格が認証されます。
しかしながら,各団体の得ている国家予算や受験料収入は乏しく独立運営は全く不可能です。Aグループの中韓印は別として各国の実施機関はことごとく経済的基盤が脆弱です。特にBグループでのIT試験制度を継続させるには,そもそもの提唱元である日本からの何らかのサポートが不可欠です。日本の経産省はBグループ国からの日本への要請に応じ,ほぼ毎年日本人講師を派遣し受験者向けセミナーなどを複数回実施しています。1試験科目で6週間程度の講習会です。さらにBグループ国のうち,受験者増加傾向が見られるフィリピンとベトナムに対しては要請に応じて(筆者を含め)日本人専門家が派遣され,数ヶ月間の技術援助を複数回数行っています。
これらのITPEC協議会,派遣講師,派遣専門家らの努力により少しずつ受験者が増え,試験への認知も高まってきました。しかし成功例と見なされているフィリピンやベトナムで年間受験応募者数がやっと千人を越えたところです。かつて日本で初めてIT試験が行われた1969年の初年度受験者数が約5万人だったのに比べ見劣りします。
Bグループではこの相互認証資格試験の立ち上げに対して,政府機関はエンジニア育成に弾みが付くことを期待しました。学生やエンジニアたちは合格して日本企業や日系企業で仕事をしたいという期待を抱きました。日本発祥の資格がやってくるということで,誰もが日本に対して強みがある資格のはずだと認識しました。また企業経営者は,合格者を大勢雇用して日本企業からのオフショアリングを捉えたいという期待を抱きました。ところが現時点では裏切られているというしか言えません。
このメルマガ読者の方々で,日本と外国の間でIT資格の相互認証がなされていることを知っていた方はどれほどいらっしゃるでしょうか。企業経営者でオフショアを考えている方,人事担当者で外国人エンジニアを人選する方ではいかがでしょうか。アジアのIT資格試験制度を相手の技術力の評価目安にしていますか。日本国内で全く認知されていないのであれば,出先機関の日本人も認知していません。現地の日系企業は合格者の期待を裏切ってきました。せっかく合格しても日系企業の採用に反映されないのです。
筆者が主に活動してきたベトナムでは,筆者が派遣され広報教宣指導,講習した期間に受験者も合格者も倍増しました。しかし残念なことに昨年秋か
ら減少し始めています。
受験者が増えない理由がまだあります。試験問題情報がアジア各国で出回っていないのです。日本のような過去問題集や対策本,対策カリキュラムなどが存在しないのです。日本から来る講師による対策セミナーがあるはずと思われるでしょう。これは年に1〜2回開かれて一度に30人くらいに教えていきます。考えて見て下さい。6週間平日毎日日中の講習に参加できる人は非常に運が良いですし,年間受験者数に比べ少なすぎます。この講習受講者は受験者向け教材を手に入れますが一般には販売されていません。日本側の版権が厳しいのです。
合格者は日本への入国規制緩和措置を受けてビザ発給条件が緩やかになるというインセンティブがあります。ではその恩恵を受けている人数はどのくらいでしょう。フィリピン累計合格者471名中1名,ベトナム累計合格者552名中0名,ミャンマー累計合格者43名中1名,といった少なさです。なぜインセンティブが機能しないのでしょうか。それは緩和処置が,「合格者をたとえ中卒,高卒でも理工系大学卒業のエンジニアと見なす」という緩和規則にあります。受験者はほとんど理工系大学の学生か卒業生なので意味が無いのです。
その結果,合格者が日本企業日系企業からの恩恵をあまり受けない結果となっています。たとえばベトナムの現状では合格者はハノイのFTPソフトウェアに就職する例が有名で,ベトナム人エンジニアの転職ステップの好例として知れ渡り始めています。また,ほとんどの在ASEAN日本企業の現地人採用の人材評価基準はIT資格ではなく日本語能力です。日本語さえ出来ればITが分からなくても日系企業に採用されます。アジア各国でオフショアリングは増強して来ています。しかし今までのところIT資格試験の貢献度は無いとは言えませんが,まだ少ないと言えます。
今までBグループの国で筆者を含めいくらかの日本人講師が現地のエンジニアを対象にFE,SW(ソフトウェア開発者),NW(ネットワーク技術者),DB(データベース技術者),PM(プロジェクトマネージャ)などの講習を教えてきました。大勢のエンジニアを合格へと助けてきたはずです。また講師育成セミナーも何度も行ってきました。
筆者は現地で教えるだけでなく,現地日系企業の日本人らと接してこの相互認証について伝え続けました。その結果既存の進出済み企業の方々の皆さんには相互認証を知っていただくことが出来ました。しかし,たとえばオフショア先を求めてのビジネスマッチング訪問団などの日本人の皆さんは現地に来て筆者らから聞くまで現地のIT試験も相互認証もご存じありませんでした。
そこで筆者ら派遣された講師や専門家は現地試験実施機関のホームページの充実を助け,日本語ページを作り,毎年更新するように進言してきました。もちろん当然予想されるように,日本語ページは筆者らが帰国後は更新されていません。
筆者は初めてミャンマーで講習を教えた際に現地教材が無いことに気付き,その後の機会があれば現地向け問題例解説集等の教材出版の必要を報告しました。その後IPAからはFE過去問題解説集が今年夏に英語で出版され,ITPEC各国で活用されることになったところです。
また筆者は一昨年ベトナムに長期派遣された際にFE試験問題解説集とSW試験問題解説集を執筆しました。昨年はベトナムでNW試験問題解説集を執筆しました。すぐに英語から現地ベトナム語へ翻訳してもらって講習に使いました。筆者はそれらの教材を用いてベトナムとフィリピンにおいて繰り返し講師育成セミナーを実施しました。私はこれらの教材の版権を放棄し,自由に印刷し講習に使って欲しいと進言してきました。筆者が滞在中にそれら教材を印刷した部数は,予想通りに筆者が帰国後すぐに無くなりました。ところが現地で次にその教材を印刷してもらうまで一年半かかりました。この夏(2007年)やっと経済産業省から現地での印刷活用の許可が出たところです。この夏からやっとASEAN各国とモンゴルでこの教材が英語または各国語で使用されるところです。なぜこんなに時間が掛かるのかいろいろな事情が有ったようですが,理解に苦しんでいるところです。
筆者は次のように考えます。日本の若年労働者は減っていきます。若者の理科離れとニート化の心配が消えません。今後の日本企業が国際労働市場から優秀なITエンジニアを獲得する手だてが必要です。従って優秀な外国人若者に日本語とIT技術を教え,日本の標準基準で評価する制度は必要です。ですから試験制度を立ち上げただけでは無く,試験前の上流の教育現場を整え,合格後の雇用先や人材バンク機能までどこかで揃える必要があります。
筆者は過去の報告書でそのための組織の設立を繰り返し提案しました。その後上記の通りにITPECという協議会が始まりました。ところが,本日現在ITPECは年に2回集まるだけの会合であり,事務局も専任担当者も居ません。実体が無いものであり組織は有りません。また報告書で日本国内でこのIT資格相互認証について広く広報するように何度も提案しました。その結果は皆さんが知っているというか知らない通りということです。
ところで,日本がITPECで行っている事柄を横から見ていた韓国政府が,Bグループ各国の労働省に接触し別個のIT新資格試験制度を提案して回っています。韓国が提唱する新資格試験では,合格者全員の韓国企業雇用を保障すると謳っています。これは日本の試験制度ではまねできません。韓国も将来のIT人材不足を危惧しているのです。今まで日本の税金で育てた人材が韓国等に採られていくことは十分にあり得ます。日本側の相互認証制度を強固な物にしないと横取りされてしまいます。
Bグループの各国はPM(プロジェクトマネージャ)など高位試験の実施を望んでいます。しかし受験者を育てる教育環境が未整備で,試験だけ始めることが出来る状況ではありません。
各国受験者は詳細な試験情報や過去問題情報を望んでいますが,日本に比べて情報が著しく貧しいままです。筆者も努力しましたがまだ焼け石に水に近いと言えます。各実施団体や出版社,報道機関などの協力が必要ですが,思うようには行かないのが現状です。
筆者はITPECの事務局がどこかに常設されることを望んでいます。しかし,未定です。筆者は経済産業省に動いてもらうことを願っています。過去数年間繰り返しアジアのどこかの国でIT試験に関する仕事に派遣されてきました。今年度はまだ何も依頼を受けておりませんので,大阪の自宅に居ります。経済産業省は今年も派遣する予算を確保したと聞いておりますが,まだ誰をどの国へ何時どんな形で派遣するのか調整を続けているのだと思います。出来れば未整備の国へ援助しに行きたいです。でもポケットマネーで出来るような事ではありませんので政府機関から依頼を受けることを期待して待っております。
近未来のアジアにおいて日本の影響力を確保することや,遠未来の東アジア共同体への道筋を考えるとIT技術の標準化に日本が何らかの立場を確保すべきであり,この相互認証資格は維持発展させるべきだと思います。
当面は各試験科目区分受験者向け現地教育環境整備と日本国内広報が急がれます。日本としては近未来遠未来の人口減少高年齢社会での若年IT人材確保,多面労働力補完にアジアにもっと目を向け,アジアでの日本向け人材教育に力を入れるべきだと思います。日本から提唱したアジアIT資格試験に対して,日本が援助を出し渋るのは,相手を屋根まで上げておいてはしごを外す行為と非難されるでしょう。
※筆者はベトナムの多くのIT企業や理工系大学,専門学校と接触しています。多くの受験者や合格者にも接触し情報を交換しています。個人的に筆者と情報交換したい方は情報システム学会を通して連絡を取って下されば出来る範囲で個別に対応したいと思っています。日本政府だけでなく民間企業にも協力していただきたいです。よろしくお願いします。
<参考資料 A,Bグループ各国の統計情報>
以下に,(1)国名 (2)試験開始年 (3)試験監督官庁 (4)相互認証締結年 (5)試験科目区分数 (6)相互認証科目数 (7)最近の年間受験申込者数 (8)最近の年間合格者数 (9)試験言語を紹介する。
Aグループ(既存の試験制度を持っていた国)
<1> (1)日本 (2)1969 (3)経済産業省 (4)− (5)14 (6)− (7)608,210人(2006年)
(8)77,244人(2006年) (9)日本語
<2> (1)インド (2)1991 (3)通信情報省 (4)2001 (5)3 (6)1 (7)123,409人(2005年)
(8)60,717人(2005年) (9)英語
<3> (1)シンガポール (2)1998 (3)情報通信省 (4)2001 (5)1 (6)1 (7)40人(2004年)
(8)40人(2004年) (9)英語
<4> (1)韓国 (2)1982 (3)労働部 (4)2002 (5)3 (6)3 (7)304,773人(2006年)
(8)84,629人(2006年) (9)韓国語
<5> (1)中国 (2)1991 (3)情報産業部 (4)2002 (5)5 (6)3 (7)91,758人(2006年)
(8)19,363人(2006年) (9)中国語
<6> (1)台湾 (2)2002 (3)経済部工業局 (4)2004 (5)1 (6)1 (7)564人(2005年)
(8)217人(2005年) (9)中国語
Bグループ(日本からの移入で始めた国)
<7> (1)タイ (2)2001 (3)科学技術省 (4)2002 (5)1 (6)1 (7)2473人(2006年)
(8)141人(2006年) (9)英語
<8> (1)フィリピン (2)2001 (3)貿易産業省 (4)2003 (5)2 (6)2 (7)1,179人
(2006年) (8)117人(2006年) (9)英語
<9> (1)ベトナム (2)2001 (3)科学技術省 (4)2002 (5)4 (6)2 (7)1,446人
(2006年) (8)112人(2006年) (9)ベトナム語と英語併記
<10> (1)ミャンマー (2)2001 (3)科学開発評議会 (4)2002 (5)1 (6)1 (7)210人
(2006年) (8)7人(2006年) (9)英語
<11> (1)マレーシア (2)2001 (3)高等教育省 (4)2005 (5)1 (6)1 (7)324人
(2006年) (8)19人(2006年) (9)英語
<12> (1)モンゴル (2)2003 (3)情報通信技術局 (4)2006 (5)1 (6)1 (7)165人
(2006年) (8)6人(2006年) (9)モンゴル語と英語併記
(詳細は,http://www.jitec.jp/1_18else/_index_else.html を参照)