※前号では,(その1)として以下を掲載しました。
1.計算機の一号機と美人のプログラマ伯爵夫人
2.HERMAN HOLLERITH(1857-1929)とパンチカードと電子計算機の話
3.Leslie Matthies(レス・マサヤ)とCOBOLのProcedure Divisionの関係
4.Robet W. Beamer(ASCIIの父,UNIVACのリーダー)
5.PRIDE方法論,世に出る
今号はその続きをお届けします。
YALE大学で博士を取得。女性ですが海軍提督なのです。COBOL言語の開発者:MOTHER OF COBOLと言われてます。COBOL:COmmon Business Oriented Language,開発コード名コンパイラ・ゼロ。グレースさんがこの命令文の構想をしていた時に,上記のLESさんのPlayscriptの起用に着想したというのです。
結果PROCEDURE DIVISIONが設定された。MBA社のブライス氏はユニバック時代このコンパイラ・ゼロのPROCEDURE DIVISIONのテストに取り組んだというのです。かくて,第三世代言語COBOLが開発された。この開発成功で従来難しかった第一世代言語の機械語からわれわれは開放された。ASSENBLY LANGUAGE,すなわち第二世代言語にもやがて別れをつげることができた。COBOLが出てきて随分とプログラムが易しくなったと感じたのは私ばかりではなかったですよねー。
ホッパー女史がバグという言葉を創出したのはご存知ですか?昔々はプログラムのためにワイヤーを使っていたのです。そのワイヤーの間に挟まっていた蛾を取り出してワイヤープログラム盤の誤動作の原因を取り除いたとき“これからはプログラミングとデイバッグと言うことにしよう”と女史が宣言した。
彼女はMARK1,MARK2コンピュータをも活用し,エッカート・モークリーコンピュータ社のメンバーになって彼らと働き電子計算機の活用推進に大きく貢献した女性なのである。米国ACMの大会で“日本の女性も計算機を使う時代が必ず来ますよ”と男ばかりの我々に優しく予言してくれた女史の言葉は忘れられない。
UNiversal Automatic Computerの頭文字UNIVAC1の黄金時代は短命であった。1964年に出したIBM/360で市場をひた走る強力なIBMに対抗して米国ではバンチが結成される。IBM−BUNCH(Burroughs,Univac,NCR,CDC,HONEYWELL)。日本は富士通/日立/日電/東芝/三菱電機/沖電気の6社。松下電器が電子計算機産業に進出せずと松下幸之助氏が決断したのは有名な話。日本では通産省電子政策課と六社が束になって外国勢(主にIBM)と戦ったが苦戦苦戦の連続。ずいぶんと税金を無駄使いしたなー。今でもまだ無駄に使ってますぞー。
Peter Kreis率いる西独ソフト会社Software AG社がドイツから日本と米国に進出。松平が販売権利を得て事業可能性を模索。結局あきらめビーコン社に販売権を譲渡。なお松平は米国でこそADABASを売ろうと知人のマックガイアー氏を米国社長に推薦した。半年苦労して彼はNY市に売り込みを成功。彼の家で乾杯したのを記憶している。米国ではIMAGE,MODEL204,System2000,など各種の競合品が現れた。データデイクショナリー/デイレクトリーも徒花のように現れ消えた。3D,DATA MANAGER等である。CASEツールはもっとひどかった。INDEX/TI/NASTEC/KNOWLEDGEWAREなどが転瞬の間に出現し消えた。
1980年代はツール指向の時代であった。DBMSの世界はコッドのRELATIONALの掛け声でじんわりと主役交代が進んだ。結果ORACLE/INGRES/DB2に取って変えられた。1990年代は構造化プログラミングが退潮しOOP−オブジェクト指向プログラミングになった。言語はJAVAであり,C言語になりここまでくると第三世代まで必死に喰らいついていた生ける化石人老齢シーラカンスはギブアップ。
2000年はIBMの変身で始まった。AJILE(俊敏)もBPR(リストラ)も全てIBMの変身変幻の道具。IBMはパソコン事業も売った。SOA(サービス指向アーキテクチュアー)が合言葉になった。日本企業はオロオロするばかり。富士通も日立も日電も迷走した。業績も一時迷走した。電子計算機を早めに諦めた東芝と三菱電機の経営はとっても好調だ。あのGEでさえさっさと撤退してしまった。そういえば,ウエルチ前CEOは「自分は化学屋で電子計算機は苦手だ」と言ってたなー。
ボブ・ビーマーが死去した。程なくブライス氏も死んだ。MBA社のチームが知らしてきた時考えた。ビーマーがASCIIコードを工夫しなかったらビル・ゲーツも巨万の富を掴めなかった。インターネットも無い。
歴史に“もし?”は無いが,先人の苦労は偲ぶべきだと会話したものである。ASCII:American Standard Code for Information Interchangeは偉大な標準化であった。
ミルト・ブライス氏がPRIDE方法論を世に出さなかったらプライド社も無い。私も今頃工場でIE技師として現場改善をやっていることだろう。自画自賛になるがシステム開発方法論の標準化も大事なことと信じている。情報資源管理関連の標準化活動で故穂鷹先生と堀内一先生(今でもISOでご苦労されてる)達とでANSIのレフコビッツ連中とやりあったのも良い経験であった。
-- 経験し学んだ歴史を語ることは楽しい。良い時期に良い人と知り合えたものである。学会の友人は皆“善知識”であり今後もこのような歴史を語り合いたいものである。