情報システム学会 メールマガジン 2014.1.1 No.08-09 [15]

連載 プロマネの現場から
第69回 佐藤一斎と『言志四録』

蒼海憲治(大手SI企業・金融系プロジェクトマネージャ)

 昨(2013)年11月2日、岐阜県の恵那市岩村町にて、佐藤一斎顕彰会主催の「第17回言志祭〜佐藤一斎まつり」があり、顕彰祭と記念講演会を聞きに行って来ました。
 以前、恵那山に登った際、恵那市内にある岩村町が、佐藤一斎の出身藩であり、毎年この季節になると、佐藤一斎のお祭りがある、というのを知り、一度行ってみたいと思っていました。

 新入社員の時、配属先の所長の講話の中に、

「少にして学べば、則ち壮にして為すこと有り。
 壮にして学べば、則ち老いて衰えず。
 老いて学べば、則ち死して朽ちず。」(『言志晩録』60)

という佐藤一斎の「三学戒」の言葉がありました。新人の当時、佐藤一斎の名前を認識することはなかったのですが、この言葉そのものは深く心に刻まれました。
 若い時に基礎からきっちり学ぶことで、社会人として成果を出すことができる。さらに、社会人になってから学び続けることで、年齢を積んでも力を持続して発揮することができる。
 「少にして学べば」という一節は、「少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず」という言葉を連想させ、不惑を越えたいまも、日々、自分の不勉強と実力の不足を痛感する日々です。
 そして、「老いて学べば」という一節は、歳をとっても学び続けることで、社会に対して貢献をすることができるということを意味するのだと思っていますが、「死して朽ちず」という表現の迫力に深く感じ入りました。
 その後、いくつものプロジェクトに参画しました。毎回、あの山を越えれば、と思ってチャレンジし、その山を越えて見ると、さらなる高い山があったということを体験する日々の連続でした。一見ルーティンワークに見える業務の中でも、様々なことが起こります。そう考えると、プロジェクトの特徴の一つは、そのユニークさにあり、初めての道を行くプロジェクトにおいて、日々課題・問題が起こるのは当たり前です。そして、その課題・問題を解決することで報酬を得ているのだから何らかの方法でストレス耐性をつける必要がある、と思いつつ、言葉の杖を捜していました。

 そんな時、出会ったのが、

「一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うること勿かれ、只だ一燈を頼め。」(『言志晩録』13)

という言葉でした。

 暗夜・・自分の置かれた厳しい境遇や環境を嘆くな。一燈・・手に持った提灯の明かりを頼りに、ひたすら進め、という力強い後押しの言葉でした。提灯は、暗夜の中で自分が頼りにできる小さな灯りです。提灯は、周囲全体を照らしだすことはできませんが、自分の足元を照らすことはできます。そして、提灯さえあれば、暗闇を走ることはできませんが、一歩一歩、着実に歩んでいくことができます。ところで、提灯とは何か? 自分の信念か、志か、目標か、拠り所となる技術やスキルか、そのいずれを指すのか。自分にとっての一燈は何か、を考えさせられることしきりでした。

 そして、この言葉も、佐藤一斎の言であることを知って以来、一度はこの地を訪ねてみたい、と思っていました。

 佐藤一斎は、江戸時代後期の安永元(1772)年に生まれ、維新前夜の安政6(1859)年に亡くなった美濃国岩村藩出身の儒学者です。神田湯島に設立された江戸幕府直轄の学問・教育機関である昌平坂学問所(昌平黌(しょうへいこう)とも称される)で長く教授を務め、70歳で儒官(総長)となりました。一斎の教えを受けた門人は三千人を超えたともいわれ、その中には、佐久間象山、山田方谷、横井小楠、渡辺崋山など多くの門人がいました。
 朱子学の教授であった一斎には、朱子学からみると異端の陽明学の研究者という顔もありました。ただし、これは一斎の幅の広さを示していると思っています。一斎の幅の広さを示す印象的なエピソードがあります。
 一斎の教育を受けた林復斎は、ペリーの砲艦外交による開国要求に対して、国際法にのっとって理を説いた、といわれています。このペリーとの交渉の際、英語を日本語に訳したのが、同じく一斎の弟子の安積艮斎(あさか ごんさい)であり、この日本語を公式文書である漢文に記したのが、林復斎でした。日本にやってくる前のペリーは、大砲にモノを言わせるつもりだったようです。でも、ペリーは、林復斎の国際法に通暁した博識ぶりと、またその礼儀正しさにすっかりほれ込みました。その結果、日米友好通商条約のスムーズな締結にいたった、といわれています。
 佐藤一斎の弟子には、佐幕派も、倒幕派も多数いましたが、党派によらず、変動する時代を支えた日本の人材を育成したということが重要なのだと思います。

 一斎は、42歳から82歳まで、実に40年をかけて、『言志録』『言志後録』『言志晩録』『言志耋録(げんしてつろく)』という4冊の箴言集を綴りました。4冊をまとめて『言志四録(げんししろく)』といい、全編で1133条あります。一斎自身、88歳で亡くなるまで知力・気力の衰えることなく、「三学戒」を体現しました。西郷隆盛は、一斎に直接教えを請うことはなかったのですが、私淑し、『言志四録』から101条を抜粋、抄録し、自らの行動の指針としました。また、さらにこの抄録から抜粋したものを、私学校の生徒向けの教科書に用いています。

 ところで、顕彰祭は、岩村城址の麓にある岩村歴史資料館の入り口にある佐藤一斎銅像前にて行われました。顕彰祭においては、参加したみなさんが異口同音に、佐藤一斎を讃える言葉と歌を披瀝されるのをみることができました。その中でも、特に、参加者全員での「言志四録」の素読が実に良かったです。

「怠惰の冬日(とうじつ)は何んぞ 其れ長きや。
 勉強の夏日(かじつ)は何んぞ 其れ短きや。
 長・短は我に在りて 日に在らず。
 待つ有るの一年は、何んぞ 其れ久しきや。
 待たざるの一年は、何んぞ 其れ速やかなるや。
 久・速は心に在りて、年に在らず。」(『言志耋録』139)

 日の長い短いは、日そのものにあるのではない。心に期することのある一年は、久しく感ずることのある一方、心に何も期待することのない一年は、あっという間に過ぎ去ってしまう。一年の時間の過ぎ方も、自分の心の持ち方次第にあり、年そのものにあるのではない。と。
 顕彰祭の後、岩村歴史資料館を拝観し、その後、日本三大山城の一つである岩村城の山頂に登りました。山道を歩きながら、「怠惰の冬日はなんぞ その長きや」と素読を復唱していました。

 この一年、心に期する「待つ有るの一年」とする気持ちで、日々過ごしていきたいと思っています。

(*)佐藤一斎『座右版 言志四録』久須本 文雄 訳、講談社、1994年刊