4月、三村和子さんの主宰で「IT技術者のウェル・ビーイング」研究会が発足しました。社会の未来を担うシステムエンジニアの心の健康を増進し、情報システム技術者にとって真の働きがいとは何かを探求するのが目的です。
今月開催された第2回の研究会で、心の健康の問題は、IT業界に特有かということが議論になりました。もちろん問題は、他の分野、工場でも医療の現場でも、研究開発の職場でも発生しています。しかしIT業界に特有の問題が存在することも事実です。それは情報という、伝統的にはわが国に存在していなかった概念を主として対象とする産業であることに起因するものです。
明治時代に西欧からもたらされて以来、現在の高度情報社会に至るまで、情報概念はわが国においてあいまいな状態に留めおかれ、共通認識が進まなかったということは否めないと思われます。
ある対象が生活に密着し、人々との関わりが深い場合、一般的にその対象に対する概念の詳細化が進んでいきます。日本ではラクダであるとしか考えられない動物を、アラビア語では実に200近い単語に分けて呼び習わしています。日本においても、例えば魚のブリは、成長に応じてワカシ、イナダ、ワラサ、ブリ(関西では、ツバス、ハマチ、メジロ、ブリ)と呼び分けられています(広辞苑)。
今日、高度情報社会にあって、人間の行動と情報との関わりは、著しく多様化し複雑化してきています。それにもかかわらず、わが国では、なぜ情報の概念化が進んでいかなかったのでしょうか。それは、もともと輸入した概念なだけに、そのもつ意味が正確に理解されなかったことが主要な原因と考えられます。
典型例として、このメルマガですでに述べているように、わが国では「情報は形がない」と考える専門家が多く、大学の教科書にさえそのように書かれていることが挙げられます。しかしinformationの中にform があるのですから,形がないというのは不思議です。哲学者の今道友信先生は、form に相当するギリシャ語が、見られた形、プラトンによると精神の目で見た形、すなわちイデアであると言われています。
このような説明がなされているにもかかわらず、最近、情報がformであることを否定するような意見がまた見受けられました。根拠の1つとして挙げられていたのが、日本語の情報は、形という意味を反映していないというものです。
これは「情報」が翻訳語であることを理解していないことによる誤解です。わが国では、informationに偶々「情報」の文字が当てられていますが、必然性はありません。中国では「信息」の文字が使われています。いずれも、語源まで考慮した適切な文字が見つからなかったため「恣意」的な解釈で漢語を当てたもので、これらの漢語からinformationの意味に言及するのは本末転倒です。
情報の概念化が進んでいないため、情報の意味は、ちょうど日本におけるラクダのように、十把一絡げに情報一般と解される傾向があります。「情報システム」、「情報技術」というとき、情報という同じ文字が使われているため、多くの人が、2つの情報は同じ意味であり、情報一般を表わしていると考えます。しかし、これら2つの情報の意味は大きく異なります。
基礎情報学の用語でいえば、「情報システム」は、生命情報、社会情報、機械情報をトータルとして取り扱う仕組みです。一方「情報技術」は、機械情報を取り扱う手段です。原理的に情報技術では、機械情報以外取り扱いが不可能です。したがって2つの情報の意味は、厳然と区別されます。
この区別は、機械情報という物理的な記号情報を、生命情報や社会情報という、意味を含んだ情報から独立してカテゴリ化することで可能になりました。従来よく行なわれていた、データ、情報、知識などのようなスペクトルに分けるだけでは、このような区分は不可能です。
『基礎情報学』の初版が出されたのは2004年のことです。このとき、生命情報、社会情報、機械情報という、情報のカテゴリ分けがなされ、記号情報として機械情報の存在が広く知られることになりました。
しかし、振り返ってみると、20世紀の当初からソシュール等によって記号論が展開されていて、その中で記号は、機械情報に相当する記号表現と、意味情報に相当する記号内容の結合したものであるとされています。したがって、早い段階で記号論を情報システム学に採り入れておけば、情報システムと情報技術における情報の混同が起きることはなく、また、伝統的な情報技術やコンピュータ、ネットワークの意義が、より厳密に解明できたものと思われます。
実際に情報システム学会の前身であるHIS研究会では、情報概念の基礎を形成するものとして記号論に着目し、90年代の前半、中嶋聞多先生が研究会でこのテーマをとり上げられています。また、浦先生を中心に『Semiotics in Information Systems Engineering』という原書を、何人かで翻訳されながら研究されていたと、先生から伺いました。
しかし、このような先駆的な取り組みも、組織的に継承して推進し、記号論を情報システム学の体系の中に位置づけ、成果物を後の世代のために蓄積していくという動きにはなりませんでした。そのため、情報システム学会になってから、再び研究会と体系化委員会で、大学と民間から講師に来て頂き、学び直すことになりました。
この間、2004年、先に述べたように西垣通先生が基礎情報学を提唱されました。この動きにいち早く対応されたのも、やはり中嶋聞多先生です。
2005年と2006年、第1回と第2回の情報システム学会研究発表大会において中嶋先生は、基礎情報学によって情報生成の根本原理が考察しなおされ、世界を「情報」から眺めていく新たな学問として、情報学を再構築する試みがなされていることに注目されました。結論として中嶋先生は、西垣情報学こそ、情報システム学の基礎理論構築の出発点とすべきであると主張されています。
しかしこのような重要かつ先導的な提言も、学会として組織的に受けとめられることはなく、実際に情報システム学会として基礎情報学の研究開始は、7年後、西垣先生にご入会頂き、主査として常設研究会を推進して頂くまで待たねばなりませんでした。
このような経緯を振り返ると、どうしても丸山真男氏が『日本の思想』(岩波新書)に書いた次のような文章を思い出します。
思想が対決と蓄積の上に歴史的に構造化されないという「伝統」を、もっとも端的に、むしろ戯画的にあらわしているのは、日本の論争史であろう。ある時代にはなばなしく行われた論争が、共有財産となって、次の時代に受け継がれてゆくということはきわめて稀である。自由論にしても、文学の芸術性と政治性にしても、知識人論にしても、歴史の本質論にしても、同じような問題の立て方がある時間的間隔をおいて、くりかえし論壇のテーマになっているのである。思想的論争にはむろん本来絶対的な結末はないけれども、日本の論争の多くはこれだけの問題は解明もしくは整理され、これから先の問題が残されているというけじめがいっこうはっきりしないままに立ち消えになってゆく。そこでずっと後になって、何かのきっかけで実質的に同じテーマについて論争が始まると、前の論争の到達点から出発しないで、すべてはそのたびごとにイロハから始まる。また多少とも文化や世界観の本質に関係するようなテーマなどは、問題の普遍性が高いにもかかわらずヨーロッパで長年とりあげられ究明されてきた思想的背景を―あれほど他方ではヨーロッパ産の作品が流入しながら―殆どまったく度外視して論争がおこなわれることさえ少くないから、「思惟の経済」の点でもはなはだ無駄なことが少くない。
情報システム学会が“日本の思想”の1つのインスタンスである以上、クラスの属性を継承したのはある意味当然ですが、21世紀の社会で基盤となる情報システムに関して先導的役割を果たさなければならない情報システム学会が、半世紀以上も前に丸山真男氏が指摘した日本の学界の欠陥そのままの状態であってよいわけがありません。
研究や議論を続けた後、必ず「これだけの問題は解明もしくは整理され、これから先の問題が残されているというけじめ」を「はっきり」させて成果物として残し、「後になって、実質的に同じテーマ」で議論をするときは、まえの議論の「到達点から出発」する必要があります。
丸山氏は、「問題の普遍性が高いにもかかわらずヨーロッパで長年とりあげられ究明されてきた思想的背景を―あれほど他方ではヨーロッパ産の作品が流入しながら―殆どまったく度外視して論争がおこなわれることさえ少くない」と言われています。
情報や情報システムに関しては、サイエンスもエンジニアリングも、欧米で発展してきたことは周知のことです。しかし表面的な技術や技法に関しては「あれほど」輸入しながらも、関係者がサイエンスやエンジニアリングの「思想的背景」を究めていこうとしたことは、今までほとんどありませんでした。この点に関しても打開をしていく必要があります。
これらの課題を進めていくためには、永続的な組織が必要です。現在の情報システム学会では、常設の組織である「新情報システム学体系調査研究委員会」と「基礎情報学研究会」がそれに相当すると考えられます。
「基礎情報学研究会」では、他の研究会ともコラボしながら、情報や情報システムのサイエンスとエンジニアリングの思想的背景に迫り、情報システム学の基礎理論を構築していきます。「新情報システム学体系調査研究委員会」では、本年の「序説」を皮切りに、来年以降これを詳細化し、一般向け、専門家向け、高校生向け等の書籍を出版していく計画ですが、情報システム学の現時点の到達点がどこにあるのか、つねに明確にしながら進めていきます。人が変わり、世代の交代があっても、これらのミッションが途絶えることがあってはなりません。
それでは、これらの活動を通じ、情報システム学をどのようにブレイクスルーし、学会が社会に貢献していくのか、現時点でも構想できることがあります。
1つは、オートポイエティック・システムエンジニアリング(SE)の概念、理論、実践の方法論を開発していくことです。従来のSEは、実は主として、アロポイエティックSEだったと考えられます。しかし、基礎情報学によって、人間の心も、企業などの組織も、社会的な組織も、オートポイエティック・システムであることが明らかになりました。それならば、それに対応したSEでない限り、真に人間中心の情報システムは実現できません。西垣先生の指導を受けながらオートポイエティックSEの体系を開発することにより、わが国のSEレベルを、一挙に国際水準を凌駕するところまで高められると考えられます。
2つ目に、プロジェクト管理にメンタルプロセスを導入することが挙げられます。
このメルマガで、蒼海憲治氏がくり返し強調されているように、プロジェクトにおけるヒューマンファクターの重要性は言うまでもありません。開発方法論、QCDなどの管理とならんで、3大要素の1つを占めることはまちがいありません。
しかし現在のプロジェクト管理の標準的な考え方では、QCDなどのマネジメントプロセスと開発方法論などのプロダクトプロセスの2つを考え、ヒューマンリソース・マネジメントは、9つに分けられるマネジメントプロセスの1つに過ぎません。つまり18分の1くらいの比重です。
蒼海憲治氏のピープルウェアの概念に情報システム学会の「IT技術者のウェル・ビーイング」研究会の成果を採り入れ、プロジェクト管理の3大プロセスの1つとしてメンタルプロセスを推進していくことにより、プロジェクト管理の世界にも大きなブレイクスルーが期待できます。
人間と社会の活動を支える、情報と情報システムに関して、概念、歴史、理論、実践の方法論の現時点の到達点をつねに明確に整理しながら、新たな概念、理論、実践の方法論を構想、確立していくことを、組織的にたゆまず実践し続けることが、情報システム学会の最大の責務と思われます。
この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。
皆様からも、ご意見を頂ければ幸いです。