情報システム学会 メールマガジン 2012.9.25 No.07-07 [8]

連載 プロマネの現場から
第54回 平清盛の魅力を考える

蒼海憲治(大手SI企業・金融系プロジェクトマネージャ)

 今年のNHK大河ドラマ『平清盛』の低視聴率の記事を目にし続けています。8月5日に放送された『平清盛』の第31話の平均視聴率は、わずか7.8%。第35話までの平均視聴率でみても12.8%。ロンドン・オリンピックがあったとはいえ、過去最低を更新し続けています。
 わずか半年とはいえ、神戸を日本の首都にしようとした清盛があまりに不人気なのが関西出身としては気にかかることと、ちょっと天の邪鬼の気分になったので、清盛と今回のドラマの魅力を考えてみました。
 トラブル・プロジェクトにおいて生じているさまざまな現象やその原因の見極めを行うにあたって、先入観や既成概念を排除することがいかに難しいかということと、バイアスやフィルターを外すことで新しい姿が見えてくる好例ではないかと思っています。

 1.従来の清盛像の見直し

 大河ドラマの不人気の理由は、そもそも多くの日本人にとって、平清盛に良い印象がないことにあります。いえ、良いどころか、悪いイメージの方が強いことにあります。
 その第一の理由は、これまで平氏滅亡後に描かれ、戦記物として名高い『平家物語』によって、清盛の「暴君」「悪人」のイメージが植えつけられたことにあります。
 次の政権によって、前の政権が悪く言われるのは歴史の常ですが、平氏を倒した源氏だけでなく、その後の足利政権も、鎌倉政権の後継をうたったため、評価が見直されることはありませんでした。さらに、貴族や朝廷から武家政権へ政治を移行させたことにより、貴族や朝廷らの旧政権からも悪く思われました。
 その結果、政治的な専横ぶりだけでなく、政治的・経済的な面における歴史的業績の否定、清盛そのものの人格否定にまでつながりました。
 これらの評価については、「パイオニアの悲劇」という人もいます。すなわち、後に常識になったことでも、初めて行った人は、既得権益を持つ人たちからバッシングにされるだけでなく、その功績までなかったことにされるというものです。

 今回の大河ドラマでは、清盛の功績や人柄に光を当てることによって、清盛像の見直しを図ろうとしています。『平家物語』に欠落しているのは、保元の乱・平治の乱にいたるまでの清盛の苦労時代です。一族郎党だけでなく、部下が清盛を慕った理由や、公卿の信頼を勝ちえたプロセスなどが捨象されています。

 たとえば、鎌倉時代の少年向けの教訓書である『十訓抄』には、若いころの清盛のエピソードが紹介されています。ある人が冗談を言ったときは、おもしろくなくても笑ってあげ、誰かが間違いをおかしても、大声でしかったりすることはなかった。冬の寒い日は、若い奉公人たちを自分の衣のすその下に寝かせてやったり、彼らが寝過ごしても、自分一人寝床から抜け出して、寝かせてやった。身分の低い召使いであっても、その者の家族や知り合いの前では、一人前の人物として扱った。その結果、清盛の部下は誰もが清盛を慕ったといいます。

 2.貴族政治から武家政治への大転換

 清盛なくして頼朝なし。

 武家の棟梁といえば、源頼朝です。しかし、この頼朝にとってのロールモデルは、清盛であったという研究者は多い。清盛の最大の功績は、武家政権の基盤作りをしたことにあります。鎌倉幕府成立以前に、清盛において、福原幕府なるものが実質的に実現していたこと。鎌倉幕府は、清盛の構想を推し進めたものと考えられています。
 日本においては、武家による政治が700年以上続きましたが、儒教文化圏・科挙の浸透した東アジアの歴史において、武家政治が実現したのは、前例のない稀有なことであり、清盛と頼朝の二代をかけて初めて実現したという見方もできます。清盛にとっての悲劇は、後継者が自分の一族ではなく、敵対者から出たということかもしれません。

 3.国際派・改革派のルーツ

 平氏の業績の一つは、菅原道真によって中止された日中間の公式外交の門を再開したことにあります。ところで、日本の歴史を振り返ると、国際派と国内派の大きく2つの勢力が常にあります。海外志向・国際派の代表は、清盛・信長であり、内向き志向・鎖国・国内派の代表は、頼朝・家康でした。日本の歴史において、前者が道を切り開いた上で、後者が最終的に勝利を得てきたことがわかります。しかしながら、パイオニアである前者があって初めて、後者の意味もあったと思います。

 後者が、土地が限られたパイの中のゼロサムゲーム、つまり、血で血を洗うレッド・オーシャンの世界であるのに対し、清盛が目指したのは、外国・大陸との交易によって富を得るブルー・オーシャン戦略であったと理解することができます。

 4.物々交換から貨幣中心の経済へ

 宋銭を利用した貨幣経済への移行の試みを行ったこと。物々交換から、大量の宋銭を日本国内に流通させることで、経済を活性化・拡大させました。

 ところが、清盛が亡くなる前年の治承四(1180)年、「銭の病」なるものが流行します。「銭の病」そのものは、大陸からもたらされた「おたふく風」のようなものだったようですが、当時の人にとっては、銭が流布した結果の疫病と思われたのかもしれません。
 また、寒冷期と塵旋風や干ばつなどの天変地異が続き、凶作により大飢饉が発生します。米などの農作物の価格が急騰、いまでいうハイパーインフレが襲ったと思われ、平氏の持っていた莫大な銭の資産価値が激減します。

 5.守旧派対新興勢力・成り上がりの対立

 ドラマの前半は、院・摂関家・寺社勢力ら守旧派から、「王家の犬」と徹底的に蔑まれる武士たちの姿が描かれています。しかし、朝廷や貴族からケガレ仕事を徹底的に排除した結果、ケガレ仕事を一手に引き受けた武士の台頭を許すことになります。
 ところが、保元の乱から平治の乱にかけて、敵味方の区別は、明瞭ではありません。 朝廷も、院と天皇の対立、貴族や寺社同士の対立があり、武家である源氏や平氏の中でも、父子あるいは叔父と甥の対立がありました。まだ、源氏や平氏の明確な対立はありませんでした。
 しかしながら、勧善懲悪の世界ではないことが、対立関係を複雑にし、ドラマとしては、わかりにくくなってしまう、のだと思います。

 6.瀬戸内海の発見

 航海技術などが発達していなかった時代の海は、目の前に広がる播磨灘、安芸灘などが存在しているのみであり、それらが一つに包含した瀬戸内海という呼称はなかったといわれています。
 海賊退治や宋との貿易を通して、瀬戸内海という概念を初めて獲得しました。

 清盛は、12世紀の神戸にポートアイランドを建設したという人もいます。現在のポートアイランドの西寄りの兵庫港のあたりに、「経ヶ島(きょうがしま)」を自腹で建設します。この経ヶ島の埋め立てに使った推定土砂量は、216万トン、作業員は延べ、3900万人といわれています。11トントラックを20万台分以上、4万人が、丸3年間働くという壮大なものでした。

 清盛の夢の一端を垣間見ることができます。

 7.若者の成長物語

 清盛には、白河法皇の落胤であったかも、という出生の謎があります。のちの異例の出世の早さがそれを裏付けているようですが、武士の子として育てられた清盛は、貴族から見れば「王家の犬」の子にすぎぬ存在でした。ドラマでは、このギャップに悩む清盛を描いたシーンが特に印象的です(*1)。

 「くそーっ。くそーっ、くそーっ・・・
  誰なんだ・・俺は・・俺は・・俺は・・誰なんだ・・」

 この叫びに対して、このときの高階通憲、のちの藤原信西からアドバイスされます。

 「おのれが誰なのかわからぬが道理じゃ。
  人は誰も生きるうちにおのれが誰なのか見つける。
  見たところ元服前のそなたにわかる道理がない」

 最初から何者かである者などなく、生きていくうちに何者かになっていく。そのことを、清盛が心の軸として見つけるまでを、信西が絶えずサポートしている様子がよくわかります。
 また、王家の番犬にはなりたくないという清盛に対して、
 ≪・・たとえ野良犬となっても、朝廷の耳のそばで吠えなければ声は届かない。≫
 こう教えたのが、藤原家成でした。

 当時の清盛が現代の青年のような悩みを持っていたかは不明ですが、ドラマは、現代の青年に向けてのメッセージになっています。

 8.生涯のロールモデル

 清盛研究の第一人者である五味文彦さんの『平清盛』によると、清盛は生涯にわたってロールモデルを見つける達人であったといいます。

 ≪清盛には常に範とした先人の生き方があった。≫

 平治の乱までは、父の忠盛・・
 政界を注意深く観察し、貴族と交わりを持ち、武家としての地位を高めてゆく行動は、
忠盛の生き方と同じだった。

 平治の乱以降は、藤原信西・・
 天皇の乳父として政治に影響力を与え、子息たちを政界の要職に送って、
 政治の実務に深く関与するとともに、院にも仕えて奉仕することを怠らなかった。

 二条天皇の死後は、摂関家の藤原忠実(ただざね)・・

 摂関家にならい、朝廷を補佐する武家として平家を位置づけた。やがて出家後も、普段は別荘にいて、子息や兄弟・縁者を通じて政界をコントロールした。重要な問題になると、別荘から出て直接に介入した。

 治承三年以後は、白河院を範として、天皇の祖父として振る舞った。
 後白河上皇を退け、摂関を退け、また福原への遷都を可能にしたのは、この立場においてだった。

 9.面白きこともなき世を面白く

 清盛が仕えた後白河法皇によって編まれた『梁塵秘抄』という歌謡集があります。
 この梁塵秘抄の今様の一つ・・
 「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、
  遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動(ゆる)がるれ。」
 がドラマ全編のモチーフになっています。

 自分のルーツに悩む清盛が、最後に寄りどころにした生き方は、面白きこともなき世を面白く生きようとすること、そのことをドラマの脚本では描いています。

 10.現代的価値観の排除

 今回のドラマの良いところは、現代の反戦思想や恋愛至上主義を極力排除・抑制しているところだと思います。個人レベルでは、「人を斬ることに葛藤を感じない」主人公を設定しています。歴史的には、暴力によって政権奪取して初めて、平和に統治することができることを示していると思います。

 しかし残念なことに、恋愛ドラマ的な要素が薄いのも不人気の一つになっている、と思います。

 11.映像のリアリティ

 ドラマ開始当初、某知事から酷評された、一見すると、暗くて汚い映像があります。
 貴族のきらびやかさと武士の汚らしさ・・穢れを強調するため、これまでの映像以上に、武士を汚く描いているといえます。
 というものの、不人気の理由の一つがこの映像にあったのは確かです。
 『龍馬伝』で初めて用いられた手法ですが、ドラマの最初の頃は、暗くて見づらかったです。でも、ドラマ中盤以降は、改善されていると思います。

 12.これまで描かれることの少なかった平安末期

 なじみの少ない時代であること。

 大河ドラマの中心は、幕末・明治維新、信長・秀吉・家康が大半を占めます。そのため、それ以外の時代を描くと、低視聴率という壁に直面します。今回は、保元の乱、平治の乱、鹿ヶ谷の陰謀などを通して、武家政権の成立の背景を知ることができる機会だと思います。

 ドラマそのものは終盤に入ってしまいましたが、清盛が晩年に抱いた福原、いまの神戸を中心とした貿易立国の夢が、どう描かれるかを楽しみにしています。

(*1)藤本有紀・青木邦子『平清盛 一』NHK出版、2012年刊