情報システム学会 メールマガジン 2011.6.25 No.06-03 [5]

連載 オブジェクト指向と哲学
第6回 徳とは何か - 分類と分解で考える(その2)

河合 昭男

 前回はプラトンのプロタゴラス[1]を引用し「徳とは何か?」をUMLでモデリングしながら考えてみました。
 「分類と分解」は概念を整理する強力な技法です。オブジェクト指向にも取り入れられていて、UMLで可視化すると明確になります。UMLでは分類は汎化関係、分解は集約またはコンポジションで表します。

 今回は、前半でプロタゴラス[1]からの引用でモデリングを行った前回の続きを述べ、後半ではパイドロス[2]を引用し分解について考えて見たいと思います。

徳をUMLでモデリングする
 前回の最後のモデルは、徳を汎化関係で表現しました。このモデルを用いて、次のように徳のある人と、正義や勇気はあるが徳あるとは言えない人が明確に区別できます。

モデル1 徳を汎化で表す
モデル1 徳を汎化で表す

 次のように徳をコンポジションで表すとどうなるでしょう?このモデルでも徳のある人と正義や勇気はあるが徳あるとは言えない人が明確に区別できています。

モデル2 徳をコンポジションで表す
モデル2 徳をコンポジションで表す

 このふたつのモデル、どちらが良いモデルでしょう。ここで議論している「徳」そのものがプロタゴラスではまだうまく定義できていず、混乱しています。徳と正義・節制・敬虔・知恵・勇気との関係が、顔と目・耳・鼻・口との関係と同じであると主張するならコンポジションのモデル(モデル2)となります。しかし、その主張も同著のなかで段々とくつがえされてゆきます。

徳をベン図で表す 同著の議論からははっきり読み取れないのですが、右の図のような捉え方ができると筆者は思います。つまり徳は正義・節制・敬虔・知恵・勇気の5つの徳目の共通部分です。徳はこれら5つの特性をすべて分け持つものである。これをUMLで表現したものが汎化のモデル(モデル1)です。

 右の図は集合論で使われるベン図です。集合で考えれば、徳は正義など5つの集合の部分集合で共通部分です。部分集合は汎化関係を用いてサブクラスとして表現することができます。この説明は拙著[4]に譲ります。

パイドロス - 美について
 ソクラテスは、対話(ディアレクティケー)によりソフィストが得意とする弁論術(レートリケー)の危険性に自ら気付かせようとします。弁論術とは、それが真実であろうとなかろうと無関係に人をいいくるめる術です。自分自身、議論の誤りにも気付きません。自分の無知を認識しているのはソクラテスひとりです。
 ソクラテスは対話により知識人達の考えの自己矛盾を引き出すので、知識人・ソフィスト達からは敬遠される存在となってゆきました。民主主義には、この弁論術に支配され衆愚政治となってゆく危険が内包され、古代ギリシャ時代から古今東西、今の日本の状況も正にそうです。ソクラテスが今の日本にいたらどう思うでしょう...

 パイドロスのサブタイトルは「美について」とあり、それはそれで重要なテーマですが、プラトンのねらいはソクラテスの対話による弁論術批判にあります。次にパイドロスから引用します。([2]P109-P111より一部抜粋)

分割と綜合

ソクラテス:ああして偶然になにげなく語られた話ではあるが、そこでは2つの種類の手続きがふまれているのであって、もし誰かが、その2つの手続きがもっている機能をちゃんとした技術のかたちで把握することができたら、おもしろいだろうと思うのだ。
パイドロス:それは一体どのようなものですか。
ソクラテス:そのひとつは、多様にちらばっているものを綜鑑して、これをただひとつの本質的な相へとまとめること。これは、人がそれぞれの場合に教えようと思うものを、ひとつひとつ定義して、そのものを明白にするのに役立つ。
パイドロス:では、もうひとつの種類の手続きとは、どのようなものを言われるのですか、ソクラテス。
ソクラテス:いまの行き方とは逆に、さまざまの種類に分割することができるということ。すなわち、自然本来の分節に従って切り分ける能力をもち、いかなる部分をも、下手な肉屋のようなやり方でこわしてしまおうと試みることなく、ちょうどさっきのぼくの二つの話がやったようにするのだ。

ディアレクティケー

ソクラテス:このぼくはね、パイドロス、話したり考えたりする力を得るために、この分割と綜合という方法を、ぼく自身が恋人のように大切にしているばかりでなく、また誰かほかの人が、物事をその自然本来の性格に従って、これをひとつになる方向へと眺めるとともに、また多にわかれるところまで見るだけの能力を持っていると思ったならば、ぼくはその人のあとを追うのだ、「神のみあとを慕うごとく、その足跡をたどりつつ」ね。さらにまた、ぼくはこのことを実行できる人たちのことを、正しい呼び方かどうかは神のみがしりたもうところとして、とにかくこれまでのところ、ディアレクティケーを身に付けた者と呼んでいるのだ。

 このあと、ディアレクティケーを取り去った巷の弁論術・言論の技術がいかに真理探究とはかけ離れたものであるかについて話が進みます。

包丁が牛をさばく - 荘子
 話題が突然飛びますが、荘子の養生主編に「包丁が牛をさばく」という物語があります。
包丁という道具の名前、本書に登場する人物の名前が由来です。包丁が梁の恵王の前で見事に牛をさばきます。([3]P205より以下抜粋)

ひたすら自然のすじめのままに刀を動かし、骨と肉とのあいだにある大きなすきまを切り開き、...

腕の良い料理人でも、1年ごとに刀を取り替えますが、それはすじのところを切り割くことがあるためです。普通の料理人は一カ月ごとに刀を取り替えていますが、それは骨をむりに切り取ることがあるためです。ところが私の刀は、いまでは19年になり、料理した牛は数千頭にもなっていますが、まるで砥石からおろしたてのようで、刃こぼれひとつありません。

もともと骨の節と節とのあいだにはすきまがあるのですし、刀の刃には厚みというものがありません。

 この節、上記パイドロスでソクラテスが議論の切り分けを肉屋の例えで示したのと話が似ています。最も荘子のこの節「養生主」は生を養うために旨とすべき話なので、目的は異なります。

横山大観
 ちなみにこの荘子の話は横山大観が描いています。包丁という名前の名人が国王と妃の前で牛をさばいている大きな絵で「游刃有余地(ゆうじんよちあり)」というタイトルが付いています。これは荘子の一節です。
 「厚さ無きを以て、間有るものに入るるに、恢恢として、その刃を遊ばすにおいて、必ず余地有。」[3]P204

 偶然展覧館で出会ったその大きな絵の前で、思わず上記パイドロスの一節が思い浮かんできました。その時のイメージを思い出しながら、話が次々飛びましたが、今回の原稿とさせていただきました。

 プラトン(BC427-347)と荘子(BC4世紀初期〜末期[2])、西洋と東洋と全くかけ離れたところでほぼ同時代に生き、交流のなかった人が同じことを考えた...
 以上

【参考書籍】
[1]プラトン著、藤沢令夫訳「プロタゴラス」岩波文庫、1988
[2]プラトン著、藤沢令夫訳「パイドロス」岩波文庫、1988
[3]世界の名著4「老子 荘子」中央公論社、1968
[4]河合昭男「ゼロからわかるUML超入門」技術評論社、2010


ODL ObjectDesignLaboratory,Inc. Akio Kawai