今回の東京電力福島第一原子力発電所の事故であらためて痛感したのは、原発に賛成するにしろ反対するにしろ、事故が起これば平等に放射能(放射線)が降ってくる、ということだった。国土の狭い日本にいつの間にか54基もの原発ができていた事実に無知、あるいは無関心だったことへの反省もあった。前回、アメリカの経済学者、ジョン・ガルブレイスのinnocent fraud(悪意なき欺瞞)という言葉を借りて表現したかったのはそのことだが、同じような思いを抱いた人は多かったようだ。
朝日新聞5月17日付朝刊の「時事小言」というコラムで、国際政治学者の藤原帰一は「コンスピラシー・オブ・サイレンス、暗黙の陰謀という英語表現がある。目前の状況から目を背け、不正の横行や危険の拡大を見逃してしまう。原発事故を前にして感じたのは、それだった。原子力発電の危険性から目を背けてきたという、砂を噛むような思いである」と書いている。
広島、長崎への原爆投下で幕が開いた戦後日本は、というより、戦後の世界史は、一方で原爆実験、水爆実験、核軍縮、反核といった兵器(軍事技術)としての核をめぐる動き、他方における原子力の平和利用、” 夢のエネルギー”としての原発開発で彩られてきた。
実際、事故前の昨年6月に改定されたエネルギー基本計画では、2030年までに原発14基以上を増設、発電量の50%を原発でまかなうとされ、同時にそのことで二酸化炭素排出量の大幅削減をめざす地球温暖化対策の切り札ともしていたのである。
原発に反対する運動や事故の危険性を警告する声ももちろんあったが、潤沢な交付金や優遇税制、補助金事業、安定した就職口、大がかりなキャンペーンなどを用意した国をあげての原発推進策のもとに、過疎地復興をかけた道路、新幹線、公共工事並みの誘致合戦が恒常化し、原発の危険性への一般の関心はきわめて低かった、あるいはしだいに薄れていった。今回の地震・津波による事故で「安全神話」は崩れたが、それ以上に、これまでの原発推進計画のありよう、というより瑕疵が明るみに出たと言えよう。
東日本大震災を二つの歴史的文脈において考えてみよう。
(1) 明治維新―敗戦―東日本大震災
(2) 関東大震災―阪神淡路大震災―東日本大震災
念頭にあるのは、(1)は「外圧」をきっかけとする世代交代、構造改革であり、(2)は危機における人びとの生き方、国土の再生である。それはゼロからの出発だと思われる(ここでは話を原発に限る)。
事故を引き起こした東京電力の責任をどう追及するのか。そもそも現在の電力需給システムはこのままでいいのか。再生エネルギーを安定的に供給する技術開発はほんとうに不可能なのか─そういったことを国民一人ひとりが改めて考え直すことを問われている。
日本における原発推進の意思決定システム、利権としての原発論議、反対するものを排除していく(押しつぶしていく)仕組み、また反対はしたが、あるいは反対だからこそ原発の具体的な安全論議に踏み込めなかった反対陣営、ゼロから出発するということは、こういった社会構造の改変に切り込んでいくことである。
河野太郎衆議院議員が動画サイトで語っていたが(1)、自民党関係のエネルギー調査会などでの原発論議はもっぱら誘致に重点が置かれ(原発立地地区の議員だけが集まっていた)、安全論議などはほとんど行われず、原理原則的な意見を述べると、「仲間でやっていることにそんな(かたい)ことを言うな」、「将来ある身なんだから(言動は)慎重にするように」、「異論はあるだろうが委員長預かりということにしよう(結局は賛成可決)」などとまともに取り上げられなかったらしい。挙句の果ては「原発に反対する河野は共産党」などと攻撃されたという。「議論するのではなく、あらかじめ陣営に帰属したうえでの誹謗中傷合戦」だった。
そういう意味では、震災後ほどなく自民党の推進派議員たちが、かつて原発旗振り役だった東電副社長の経歴をもつ元参院議員を参与に据えて、「エネルギー政策合同会議」を発足させたとのニュースには驚かされた。いますべきことは未曾有の事故を引き起こしたことへの反省であるべきで、あらためて原発推進を掲げるにしろ、これまでの推進議員はむしろ引退すべきではないだろうか。米倉弘昌経団連会長が米誌のインタビューに答えて「(東電が)甘かったということは絶対にない。要するにあれは国の安全基準というのがあって、それに基づき設計されているはずだ。恐らく、それよりも何十倍の安全ファクターを入れてやっている。東電は全然、甘くはない」(2)などと語っているのも耳を疑う。
「リスク社会」とか「再帰的社会」とか言われる現在、たとえば地球温暖化によるオゾン層の破壊は世界規模で広がるリスクだけれど、それが果たしてどれほどのリスクなのか明確に認識することは難しい。二酸化炭素排出をどれだけ削減したら安全なのかも実はわからない。だがリスクを避けるために、私たちは国を超えて行動せざるを得ない。前に進むしかない、ということである。一人ひとりの小さな行為がそのままシステムにはね返る。「北京で今日蝶が羽を動かせて空気をそよがせると、来月ニューヨークで嵐が生じる」とも言われるバタフライ効果である。
私たちが享受してきたオール電化の快適生活が原発によって支えられてきたのは間違いない。原発中心のエネルギー政策の転換は私たちの生活改造と不可分である。一方で、一人ひとりが巨大システムに対して物申すべきでもあろう。マスメディアに代わって情報インフラの主流になりつつあるツイッター、フェイスブックといったソーシャルメディアはそのためにも役立つだろうと、「愚問」を発することも忘れて、考えている今日このごろである。
<注>
http://search.jp.wsj.com/search?q=%E7%B1%B3%E5%80%89%E5%BC%98%E6%98%8C
サイバーリテラシーについては、折々に説明もしますが、詳しくはサイバーリテラシー研究所のウエブ(http://www.cyber-literacy.com/ja/)や拙著『サイバーリテラシー概論』(知泉書館、2007)を参照してください。「リスク社会」や「再帰的社会」については、『情報文化論ノート』(同、2010)でふれました。
なお私のメールアドレスは、yano■cyber-literacy.comです。