スウェーデンが、ナチスに包囲されていた大戦時も含めて、19世紀初頭から今日まで190年間、平和を保ち続けていることは、先進国で稀有の事例です。これにより、国に対する絶大な信頼が生まれ、対決ではなく、Win−Winの関係をめざして、中庸のところで問題を解決していく風土が醸成されました。戦争による破壊の懸念がないため、長期的な展望をもつことができ、将来に期待して高負担にも耐えられる国民性が培われたと言われています。国際競争力も社会福祉も教育も、世界最高水準の国づくりが実現できたことは、このメルマガでもすでに紹介してきたところです。
ひるがえってわが国は同じ期間に、まず戊辰の内戦、そのあとアジア諸国への侵略を開始、特に今次大戦では女性や子供を含め1千数百万のアジアの人々を殺戮、数百万の自国民の命も失い、国土を灰燼に帰してしまった痛恨の歴史をもっています。
スウェーデンと日本の間には、国の進路に関する合意形成能力に、相当の懸隔があったとみなさざるを得ません。
しかしわが国にも、体制変革の手段として、人々の心の中にテロや武闘以外ほとんど思いつかなかった19世紀、話し合いによって問題を平和的に解決しようとした革命家がいました。今年大きな話題になっている坂本龍馬です。
龍馬が、幕末京都の度重なる政変で対立関係にあった薩摩と長州を仲介し、西郷や大久保と桂小五郎の間に同盟を成立させたことは広く知られています。これによって幕府と倒幕派の力関係は、倒幕派側に大きく傾きました。
幕府の権威の失墜に乗じて、西郷・大久保・桂、それに岩倉具視らは、討幕の兵を挙げようとします。しかし、このときも龍馬は、慶喜に大政を奉還させ、問題を平和的に解決しようとします。この間の経緯を、明治42年、著名な歴史家で早大教授だった吉田東伍氏は、東京国学院の夏期講習会「維新史八講」で次のように語っています。
「岩倉や西郷は、兵を用いて解決しようとしたが、後藤(象次郎)は座談で平和の間に幕府の政権を奉還せしめ、諸大名も徳川氏と並んで更始一新して議事を為す、一方は貴族で上院、また士族、百姓、町人その他のもので下院を形づくるという理想で、座談の間に改革を決しよう、短く申せば、明治の憲法発布のような、あの順で後藤も王政維新したい腹であった。これは後藤よりも薩長に近い坂本龍馬にしてもそういう考えであった。
坂本は土佐人でありますから、あながちに西郷や長(州)人の言うことばかりは聞きませぬ。血を見ずにやろうというので後藤に迫って、土佐人が機先を制した。
西郷は兵力をもってしようとしたので、これは明治十年の乱のときでも分かりますが、西郷は全体そういうふうの癖であります。私の考えでは、大西郷南洲は感情の烈しい人で、またあまりに目が先へ見え過ぎて確信する人でありますから、七百余年の歴史を引っ繰り返すには、座談などでやったところで、本当の破壊でない。今や破壊でなければ、真の政治上の改革は得ることができぬというのであったろうと思われる。これはまた一見識で一方策であります。」
周知のように、西郷は維新の5年後には朝鮮への進出を主張、これが容れられないと野に下って上述のように新政府に対する反乱を起こすのですから、戦争以外の選択肢をなかなか構想できない人だったようです。
話をもどして、それでは大政奉還後の新しい体制をどのようにして創るのか、徳川の方では、諸大名を集め公論衆議を経て決めていけば、自ずと慶喜に人望が集まり、一定の地位が確保できるだろうと考えていました。一方薩摩人は、吉田東伍氏によると、「その衆議ということを好まぬ。諸大名の相談を好まぬ。そのわけは、この非常の一挙は、薩摩と長州、この二藩でやる。もとより他のものは頼みにしませぬという独断主義」でした。
したがって、「一方は衆議を頼み、一方は独断で施し、非常手段をもってどこまでも破壊するので、破壊さえすれば、能事終わる、そのあとはどうでもなるという考え」だったのです。
結果として事態はどのように推移したのか、吉田東伍氏の講義は次のように続きます。
「(三条実美の家人で龍馬と親交のあった)尾崎三良という人の話に、この十月頃(注:大政奉還は十月十四日)、まだ坂本や尾崎辺の考案では、やはり摂政関白というものを置いて、それを総理大臣として、その次にはどうしても徳川を捨てることはできぬ。この当時慶喜は内大臣であるから、内大臣を旧のままにして、その次に参与とか参議とかいうものを置いて、それを内閣にしたいという案を立て、それが当時岩倉村で通用した案でありましたと聞いている。しかるに十二月の九日になりまして、岩倉の案を見ますと、摂政関白も内大臣も撤去してない。総裁という名で、有栖川宮がお立ちになる。内大臣がないから慶喜も宮中へお呼び出しにならなかった。これは坂本龍馬あたりの土佐人の案が破れ、模様が変わりまして、薩長側で全く徳川慶喜をまるで押し除けるということになったのであろう。」
龍馬の暗殺が11月の半ばで、その前後の月で、新政府の体制案が様変わりになっています。
当時龍馬は、幕府はもちろん、薩長、土佐、紀州などさまざまな勢力から命をねらわれていたと言われています。下手人は幕府の見廻組というのが定説ですが、龍馬も(ともに暗殺された中岡も)土佐人であるから中立であり、当時薩長に抗して慶喜の立場に配慮していたのですから、それを幕府側の人間が殺したのは、「徳川家のために損か得か疑わしい」と吉田氏は述べています。
龍馬の活動の軌跡を振り返ると、国内の戦争に頭脳と時間と労力と、それに貴重な人命まで費やすのはまったく愚かなことであり、倒幕派も佐幕派もよく話し合い、協力して新体制をつくり、国際社会の中で通商を拡大して経済力を高めることこそ、双方にとってだけでなく、何よりも民生の向上のために重要であると、一貫して考えていただろうということが分かります。
もし龍馬が明治期に生きていたら、近隣諸国をステイクホルダとした場合も、同じ考えで臨んでいたにちがいありません。
第2次世界大戦で、日本と同じように近隣諸国を蹂躙し、人命と財産に筆舌に尽くしがたい惨禍をもたらした国に、当時の日本の同盟国・ドイツがあります。戦後復興と経済成長がめざましく、短期間に世界有数の経済大国になったことでも、両国は共通しています。
しかし、戦後今日までの近隣諸国との関係では、両国は様相を大きく異にしています。ドイツ現代史が専門の東大教授・石田勇治氏によると、敗戦後ドイツが積み重ねてきた「過去の克服」の努力は、甚大な被害を与えた国々との和解を進め、国際社会における信頼回復と地位の向上に貢献しました。今やドイツは、東西分断を乗り越え、EUの主軸国として発言力を高めています。
それにひきかえ、わが国の場合、過去に侵略した国々と必ずしも十分な和解ができていません。また、東アジア共同体の主軸国として遇せられるだけの信頼も獲得していません。
このような差異がどこから生じたのか、まず両国の文化を比較してみます。
すでにこのメルマガで紹介したように、「七つの資本主義」(日本経済新聞社刊)では、
(1)普遍主義/個別主義(2)分析重視/総合重視(3)個人主義/共同社会主義
(4)自己基準/外部基準(5)逐次的時間観/同期化的時間観
(6)獲得地位/生得地位(7)ヨコ社会/タテ社会
という7つの座標軸で、各国の文化を分類しています。
米国が7つの項目すべてで前者側の特質をもち、対照的に日本が7つの項目すべてで、後者側の特質をもっているのは、すでに述べたとおりです。
著者たちの調査によると、ドイツは、普遍主義、自己基準、獲得地位、ヨコ社会に関して米国と、総合重視、共同社会主義、同期化的時間観に関して日本と同じ特質をもっています。
スウェーデンの場合、6つの項目で米国と同じ特質をもち、外部基準に関してのみ、日本と同じ特質をもっています。フランスは、6つの項目で日本と同じ特質をもち、自己基準に関してのみ米国と同じ特質をもっています。ドイツのように、米国型の4つの特質と日本型の3つの特質を融合させた文化は、日本とも米国とも、スウェーデンやフランスとも異なり、きわめて注目すべきものです。
「七つの資本主義」の著者たちは、イギリスとオランダの出身ですが、富の創出に関わるドイツの文化に対して、高い評価を与えています。特に、普遍主義・総合重視・共同社会主義という3つの価値観の結びつきは、きわめて体系化された経済システムを出現させ、そこでは民間企業と国家が、事業の発展と規制の面で、より個人主義的な文化のもとでは想像もつかないほど協力しあっていると述べています。
ドイツでは、多くの経済的意思決定が、政府・労働団体・金融機関・産業集団が相互に影響しあうメゾ経済(マクロ経済とミクロ経済の中間に位置する地域経済)のレベルでなされていて、これこそが、米英にはほとんど存在しない経済活動であり、ドイツに明らかに競争優位をもたらしているとされています。
1945年以降のドイツ経済のめざましい復興と発展は、2重の普遍主義概念、すなわち連邦レベルの自由競争の枠組みと、地域レベルで地元企業に優位性をもたせるために推進されるメゾ経済政策によって実現しました。
普遍主義は、同時に規則重視主義を意味しますが、ドイツにおけるその意欲は、米国を上回るものがあります。このため、DIN(ドイツ工業規格)を始めとする各種基準は、世界で最も厳しいものとなり、それがドイツ産業の水準向上に寄与しています。
ドイツに関してはその歴史から、ファシズムに逆戻りしないか、いつも懸念されますが、連邦機構の地方分権化が徹底的に進められており、また、意見のちがいを権力で抑圧することが法律で不可能にされていることから、法律が破棄されない限り、逆戻りはあり得ないというのが著者たちの判断です。
総合重視に関して、ドイツ人にとっては、部分に先立って全体が存在するのであり、人はまず全体を把握し、それから全体の中のさまざまな部分の機能を見出すことによって物事を理解するとみなされています。
このような文化の中から、ゲシュタルト心理学や現象学が生まれました。ゲシュタルトとは、部分の寄せ集めではなく、それらの総和以上の体制化された全体的構造を指す概念(広辞苑)であり、ゲシュタルト心理学は、精神をゲシュタルトとみなす心理学です。
ゲシュタルトの考え方は、当然企業に対する見方に反映します。前月号で、米国では企業を、あたかも各部分がそれぞれの役割を精密に果たす機械のように見るのが一般的で、それに対して日本やフランスでは組織を、人々が協働する有機体と見る傾向があるという調査結果を紹介しましたが、ドイツでも多くの人が後者の見方をしています。
たくさんのことを知ろうと努力し、あらゆる観点が収束する巨大な総合性を追求する考え方は、「世界観」や「時代精神」という概念を生み出しました。これらの言葉は、日本語ではもちろんドイツ語からの翻訳語ですが、米英語においてさえ、ドイツ語から借用せざるを得ませんでした。一方、極度の総合性の追求は、かつて全体主義の温床になりました。これに関しては、上述のような歯止めが整備されています。
このような全体的かつ秩序だった体系への志向は、ドイツに世界最高水準の製造業をもたらしました。フレキシブルな生産技術は、日本の好敵手になっています。
また、総合重視の考え方は、先に述べたメゾ経済の発展にも直結しています。鉄道や道路などハードのインフラだけでなく、金融・情報・教育機関などソフトのインフラを整備し、州政府が大きく関与して、メゾ経済をシステマチックに推進しています。さらに広範囲の、EUにおけるドイツ経済の影響など、ゲシュタルト的アプローチでないと適切に取り扱えないと考えられています。
ドイツ文化の特徴として、コミュニケーションと合意形成に、カントを始め多くの哲学者の関心が寄せられ、探求が行なわれてきたことが挙げられますが、現実に人々の間に共同社会主義的な考え方が徹底し、制度も整えられてきています。
経営者のレベルでも、「企業活動の目的は、利潤ではなく社会への貢献である」という哲学があり、労働組合の幹部も、社会的市場経済への改革をめざし、経営側と協調して企業を発展させることが労働者の利益になると確信しています。
管理職も、企業間の競争より協調が大事と考える人が多く(米国は逆)、また自己責任で自律的に仕事をするのと、皆が意思決定に関与し協働して働くのとどちらを選ぶかという問いに対しては、ドイツ人の88%が後者と答えています(日本は60%、米国は58%。この問いに関しては、日本はやや変則的とみなされています)。
企業においては、雇用主と、(組合とは別に)従業員代表をメンバーとする経営協議委員会、株主と労働者の代表をメンバーとする監査役会を設けるべきことが、法律で定められています。このような会議で、あくまでも合意をめざすか、採決で決めてしまうかという問いに対して、ドイツでは69%の管理職が「合意」と答えています(日本は、85%、米国は38%)。
これまで見てきたところで、ドイツとわが国の文化を比較すると、次のようなちがいがあることが分かります。
第1に、わが国は(個別主義の特質をもつため)、多くの国々に対して説得力をもつ普遍性の高い考え方の提示がなかなかできません。
第2に、総合重視という特質は両者共通ですが、わが国の場合、ドイツのようにカント、ヘーゲルなどを始めとする厳密な思考と議論の背景をもたないため、総合重視もきわめて情緒的・経験的レベルにとどまっており、ドイツのようなシステム化志向・体系化志向が欠落しています。共同社会主義に関しても、同様のことが言えます。
このためわが国が、近隣諸国から地域共同体の主軸国として遇せられるのは文化的にも容易ではありませんが、一方ドイツにしても、単に文化的に卓越して経済力が高いだけでは、お手本として参考にはされても、甚大な被害を与えた国々と和解を進め、信頼を獲得するまでには至らなかったと考えられます。
石田勇治教授によると、ドイツにおいて経済の発展とあわせて進められた「過去の克服」努力は、近年その対象を、旧東ドイツ体制下の不法行為や、1世紀前、帝政時代の植民地における虐殺行為などにも広げています。(白水社「20世紀ドイツ史」参照)。
もちろんナチの不法行為に対しては徹底した取り組みが行なわれており、被害者に支払った補償総額は6兆円を超えています。受給者の約8割が、外国および外国在住の被害者です。さらに、100万人におよぶ強制労働被害者の救済も、2000年に始められました。
1979年に謀殺罪の時効が廃止され、ナチ時代の謀殺犯に対する捜査と訴追が今も続けられています。ヒトラーの礼賛やナチズムの理想化につながる言動は、法律で禁止されました。大学でナチズムに関する実証的な歴史研究が行なわれ、ポーランド、フランス、イスラエルなどとの間で、国際的な歴史教科書改善をめざす対話と協力が進められ、成果が出ています。
政治指導者の姿勢は、わが国との大きなちがいです。ドイツでは、アデナウアー、ブラント、ヴァイツゼッカー、ヘルツォーク、ラウなどの指導者が機会ある度に、過去の罪を真摯に謝罪し、若い世代を含めて責任を引き継ぐことを宣言し続けました。
これらの取り組み努力があって、初めて近隣諸国と和解が進み、信頼が得られたものと思われます。
情報システムの専門家の使命は、ソリューション(問題解決)を行ない、新しい優れたシステムをつくっていくことです。このとき、すべてのステイクホルダの信頼を得て合意形成を進め、平和的に問題解決を進めることが重要です。
過去約半世紀、情報システムの専門家は、機器や工場の情報化を進め、さらに企業経営システムの最適化を図ってきました。しかし、さらに次元を高めた社会トータルのシステムは、まだ手つかずで、しかも問題山積です。
おりしも半世紀を経て、大学を始めとして、工場や企業の立場から独立して研究のできる情報システムの専門家の数は、きわめて多数におよんでいます。そのような人たちは、今積極的に社会トータルのシステム問題の解決に取り組むべきときが、きているのではないでしょうか。
本来、社会トータルのシステムの改革に取り組まなければならないのは、政治家です。しかし、工場の情報化を進める場合も、企業のシステムを改革する場合も、一部の例外を除いては、情報システムの専門家が積極的にリードしない限り、既存の工場管理者や企業経営者だけでは、決して問題解決が前進することはありませんでした。社会トータルのシステムでは、政治家の問題意識と目的意識が低いので、さらにそのことが言えると思います。
工場や企業の情報化の豊富な経験を活かし、社会システムの改革に関してどれだけ提言できるかが、法人としての情報システム学会のクリティカルな課題であると思われます。
この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。
皆様からもご意見を頂ければ幸いです。