去る2010年1月27日、『The Catcher in the Rye』(邦題:『ライ麦畑でつかまえて』)の作者であるJ.D.サリンジャーさんが亡くなりました。1965年に絶筆されて以来、実に45年間、沈黙を守られた生涯でした。
『ライ麦畑でつかまえて』は、1951年に発売以来、全世界では、累積で6000万部以上、日本でも、野崎孝さんの訳と、村上春樹さんの新訳をあわせて、250万部以上という大ベストセラーかつロングセラーとなっています。
『ライ麦畑でつかまえて』は現在でも文庫本になっていませんが、この本を手に取った学生の当時、より安くて手に入れやすかった本ということで、同じサリンジャーさんの『ナイン・ストーリーズ』や『フラニーとズーイー』『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア-序章-』といった一連のグラース・サーガ・・グラース家の物語と呼ばれる作品群を先に手に取りました。その後、満を持して?!『ライ麦畑』を読んだのですが、その荒っぽいけれども躍動感のある文体と、主人公のホールデンの性格が、グラース家の兄弟姉妹たちに似ているところがあるところを見つけては、ワクワクしながら読んだのを覚えています。
しかし、文体とは異なり、物語そのものは、とっても深刻でした。主人公のホールデンは、16歳で、全寮制の高校にいるのですが、学業不振によりクリスマス休暇の直前に退学処分となり、実家のあるニューヨークへ戻ります。教師や両親といった大人、社会そのものが欺瞞に満ちていると思いつめ、受け入れることのできないホールデンに居場所は無く、この一人語りも実は、精神病院にて語られている、というショッキングなオチになっています。
傷心のホールデンにとって、唯一心を許せるのは、妹のフィービーだけでした。
このフィービーとホールデンの会話は、タイトルにもなっているとおり、物語のハイライトシーンだと思います。
「兄さんは世の中に起こることが何もかもいやなんでしょ」と問い詰めるフィービーに対して、ホールデンはいろいろと反論しようとするのですがしどろもどろ。それならば、自分が好きなものを一つでも言ってみなさい、といわれても答えられない。最後に、でも、自分がなりたいものなら言える、といいます。
以下、野崎孝さん訳(*1)で、紹介します。
「僕が何になりたいか言ってやろうかな? なんでも好きなものになれる権利を神様の野郎がくれたとしてだよ」 (略)
「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしてるとこが目に見えるんだよ。
何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない−誰もって大人はだよ−僕のほかにはね。
で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ−つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕はどっからか、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだよ。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げてることは知ってるけどさ」
この一文を読んだ当時、自分も何かの『つかまえて』になりたい!と思ったものです。
あれから数十年経ったいま、ふと思い返すと、現在担当しているプロマネやラインマネージャの役割の8割方は、まさにプロジェクトの『つかまえて』そのものではないか、ということに気づくのでした。
ライ麦畑を無邪気に走り回る子供たちが、いかに崖から転がり落ちないようにするか、また落ちた子供を助け出すかを温かく見守る『つかまえて』と、プロジェクト・メンバーの心身ともの健康とプロジェクトそのものの安全を見守る『つかまえて』であるプロマネは類似しています。
そして、ライ麦畑においては、子供たちが崖に落ちる心配をすることなく、のびのびと走り回ることができてはじめて楽しく遊べるように、プロジェクトにおいても、プロジェクト・メンバーが生き生き活躍できるためには、プロジェクトにおける大小さまざまなチャレンジに対するセーフティネットが必要になります。
ところで、このライ麦畑の情景を思い浮かべて連想したのは、「偶有性」(contingency)という言葉です。偶有性とは、半ば必然・半ば偶然に起こること、不確定性を意味します。脳科学者の茂木健一郎さんによると、人間の脳の特性は、この偶有性にあり、偶有性を上手く活かすことが脳を活かすことになると指摘しています(*2)。人間にとって、全てが必然であると、退屈すぎる一方、全てが偶然であると、常に緊張を強いられることになり、いずれも長くは続きません。この偶然と必然の間こそが偶有性であり、この時、脳は、不確実さを楽しもうする気持ちと不確実さを不安に思う気持ちが半ばする状態となり、これこそが脳にとっての一番の栄養となり、かつ、一番脳が活かせる状態にある、といいます。
そして、この偶有性を活かすには、新しいことへのチャレンジが欠かせません。特に、自分に弱い部分があればあるほど、その弱点を強化するために、繰り返しチャレンジすることが必要になります。自分にとっての弱点部分を強化するための強化回路を暴走させること・・才能を開花させるための暴走をさせることで、それまでできなかったことができるようになる可能性が高まります。つまり、チャレンジし続けることで成功し、成功することで、世界を広げることができるようになります。
その際、大切なのは、チャレンジが失敗したときに、逃げ込める場所を用意しておくことです。チャレンジ精神を持つのは素晴らしいことですが、チャレンジし、挫折したとき、それで再起不能となってはいけません。チャレンジし、たとえ失敗した場合であってもそれが致命的なものでない限りは再起し、生きのびるための手段として、自分にとっての「安全基地」を用意する。その「安全基地」をベースにして、新しいことに果敢にチャレンジし、日々、失敗と成功を繰り返す。失敗しても成功しても、心身を休め、明日に向けて再出発できる「安全基地」は必須といえます。
「安全基地」は、人間が成長するうえで、なくてはならないもの。
「安全基地」があるから、何事にも果敢に取り組めるのは、子供はもちろんのこと、大人にとっても変わりません。
プロジェクト・メンバー個々人が力を十分に発揮できるためには、「安全基地」を用意する必要があります。また、強い組織というのは、この「安全基地」を上手く用意しているところである、と思います。システム構築プロジェクトの難易度が高まっている現在こそ、プロマネや複数のプロジェクトを統括するプログラム・マネージャ、ライン・マネージャは、プロジェクト・メンバーにとっての『つかまえて』となる役割が求められています。
最後に、サリンジャーさんは、45年間の沈黙を守り通されたのですが、1ファンとしては、1965年以降に書かれたであろうまだ見ぬ作品を心のどこかで期待しています。また、長い間、『つかまえて』になりたかったはずなのに、いくつになっても『ライ麦畑』の真ん中で走り回っている子供になる、という選択肢も、とっても魅力的に思える今日この頃です。
(*1)J.D.サリンジャー ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス) 野崎孝・訳
(*2)茂木健一郎 「脳」整理法 (ちくま新書)